サラバ青春
@KBunBun
サラバ青春
わずかに残っていた桜の花弁も、今朝からの雨ですっかり散ってしまった。雨の日は髪がぼわぼわになって重く感じるので、なんとなく陰鬱な気分になる。フリーターの間壁史郎は、路地の人通りが増えてきたことを確認して、パソコンの電源を落とした。ネットは夕方が最も活発に動くため、昼には布団に入ることが多い。
しかし、布団をかぶって静かになると、リビングの雑音が耳に付いた。おおかた妹がテレビを消し忘れて、昼のワイドショーでも流れているのだろう。見栄を張ったような笑い声が廊下越しに響いてくる。
「ええい、かしましい!」
天井まで布団を蹴飛ばして、ずんずんリビングへ歩を進める。史郎は四度に渡る受験失敗のトラウマから『幸せアレルギー』を発病しており、幸せそうな人達が心底嫌いなのだ。リビングの扉に手をかけ、勢いよく押し開ける。
すると、ベランダでビクっと人影が動いた。
「おおうッ!」――まさか、ドロボウ!?
史郎はとっさに身構える。もちろん戦うためではなく逃げるために。すり足でじりじりと後退をしていると、のんきに座っている人影は体を反らしながら、けだるそうに振り返った。史郎の目はだんだん逆光に慣れてくる。
それはセーラー服を着た妹、間壁凛だった。
妹はタバコに火をつけていた。
「チョト待てーーーいッ!」
史郎は慌てて駆け出した。彼女が咥えているメビウスは、確か二十歳の記念に買った物だ。すぐに気分が悪くなったから捨てようかとも思ったが、もったいないので取っていた。ただ飯ぐらいはいざ知らず、娘に悪影響と判断されれば勘当されてもおかしくない。しかし凛は聞く耳を持たず、思いきりタバコを吸い込んだ。
「がッゴホっ! ゲホゲホ! おぇっ」
そしてむせた。凛は涙を浮かべながら、憎しげにタバコを踏みつける。ようやっと到着した史郎は、ガラス戸を開け放った。
「な、なにやってんだお前、大丈夫か?」
史郎は投げ捨てられたタバコの箱を拾いあげる。
「うるさい、ウザい」凛は目も合わせずに呟く。それから舌打ちをして、「アンタには関係ないでしょ」と吐き捨てた。
史郎はタバコをポケットに入れて、凛の隣に腰を下ろす。
「そんなわけないだろ」史郎は静かに言った。凛は頬杖をついて、流し目で視線を向ける。「お前がちゃんとしてくれないと、俺が働かなきゃいけなくなるし――うげっ!」
凛は両の手で史郎の襟首を掴むと、とつぜん般若の様な剣幕で床に押し倒した。
「今日にでも、仕事探せよ! なァ!?」
凛の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。週の半分は機嫌が悪くて、残りの半分はもっと機嫌が悪い彼女だったが、ここまで激高することは珍しい。
「アンタがっ、アンタがそんなだからねえ! わたし時々ママに泣きつかれるんだから! 『お願いだから、貴方はお兄ちゃんみたいにならないでね』って。高校生の娘にかける言葉じゃねェだろ!? エデンの東か!」
「ぐぐ……そ、それは……すまな……かった」史郎は苦し気に床をタップする。凛は「フン」といって、手を離した。
そして制服の袖で目元を拭うと、上擦った声でつぶやいた。史郎には、それは自分に言い聞かせているように聞こえた。
「……わたし、来月の大会出れないかもしれない。だからスポーツ推薦も、きっとなくなっちゃうかなァ」
芸人の笑い声が部屋に響く。
凛の語った顛末は以下のとおりである。
事件は昨晩、人気のない部室棟で起きた。凛と同じくバレー部に所属している目撃者Aは、帰宅途中に弁当箱を部室に忘れてしまったことに気が付いた。いまだ六月とはいえ、涼しい季節とは言い難い。一晩放置された弁当箱がどうなるかなど、想像するに恐ろしい。
Aは友達と別れ、おばけでもでそうな校舎をおっかなびっくり進んでゆく。彼女の歩いている部室棟は昼間であっても薄暗い。さらに昨日は月明かりさえ厚い雲に遮られていて、自分の足元も見えないほどであった。
幸いバレー部の部室は玄関からそう遠くない。部室の前まできたAは急いで弁当箱を回収しようとしたが、しかしその扉には鍵がかかっていた。普段はあけっぱなしにしているが、今日は用心した誰かが鍵をかけたのだろうと思った。というのも最近、夜中に部室棟で女子生徒の声がするという噂があるからだ。
しかしその程度でへこたれるAではない。三井寿もかくやといわんばかりの諦めの悪さを持っている彼女は、校舎裏の茂みに回り込み窓からの侵入を試みた。
無造作に伸びた草木をかき分けながら、校舎に沿って暗闇を進んでゆく。すると、もうちょっとで部室にたどり着こうという時、不意に強い突風が木々を揺らした。
流された雲の隙間から、青い月明りが部室の窓を照らす。
ゆっくり目を開けた目撃者Aが見たものは、何者かと身体を重ねる少女。恍惚とした笑みを浮かべ、しきりに身体を揺らしている女は、エースの澤城であった。
「うわひゃあーーーッ!」
そして次の瞬間、校舎に響き渡るAの悲鳴! 瞬く間に駆けつけた警備員! わちゃわちゃ事情を説明するAの証言は、そのまま顧問に報・連・相!
――そして飛ぶ鳥を落とす勢いで、バレー部の不純異性交遊疑惑は一晩のうちに職員間を駆け巡ったのであった……。
「いや部室でセックスしてんじゃねーよッ!」
凛は稀に見る熱量で、昨晩の出来事を一息に語った。昨日の今日だから、事態を詳しく知っているはずもない。内容はほとんど脚色された憶測であろう。昔から他人の愚痴に関してはひどく饒舌になる妹であった。
「でも、まだ出場停止が決まったわけじゃないんだろ?」
「……いや例年どっかの部活がそれで停止になってるし。うちで不純異性交遊は一発アウトなの」
どんな学校だよ! ――といいたいところを、史郎はグッと飲み込んだ。彼女の愚痴を聞かされるとき、共感以外のリアクションは経験上ご法度とされている。
「わかるわかる」史郎がうなずくと、凛は顔を上げて眉を寄せた。諦めたように息を吐いて、スリッパのつま先でトントンと床を叩く。
「――てかわたし距離感が近すぎる女苦手なんだよね。アイツ、澤城なんてまさにそう。練習中もやたらボディータッチ多いし、着替えてる時に身体触られんのはしょっちゅうだし。瀬田宗次郎でもそんな距離の詰め方しねえよ。しかも、しかもですよ。それで澤城に勘違いした男が観に来るんですよ、試合を! こっちはバレーのユニフォームあんま男子に見られたくないの、わかんないかなあ!」
凛は顔を赤くして早口にまくしたてる。史郎は「そうだねそうだね」と繰り返したが、話はほとんど聞いてはいなかった。
次第に床を叩くテンポが速まり、一層声が張り上がる。
「そりゃあお前は良いだろうよ。そういう要領良い女はどこいってもある程度の幸せが保証されてんですよ。男ってちょっと抜けてる女好きでしょ。まぁアイツはそれわかってやってんだけどさ。でも実際モテるから、考えなしに刹那主義に走れるんだろうなって思うわけ。でも、じゃあわたしは!?取り残されたわたしはどうなる! 一週間同じハンカチ使ってるようながさつな女が、進学もせずに乗り越えていけるほど世間は甘かないんだよ! ニートのアンタにいってもわかんないだろうけど!」
急に振られた思わぬ飛び火に、史郎は「ごめんねごめんね」と言葉を替えた。
凛は舌打ちをして、刺すように史郎をにらむ。
「大体、アンタさえちゃんとしてればこんなに落ち込んでないっつーの! 後でママが帰ってきたらなんて言われるか大体想像できんだよ。『貴方だんだんお兄ちゃんに似てきたわね、ほら、目元なんてそっくり』、ってさ! くあー! もう! なんッであの女のセックスで私の人生が左右されなくちゃいけないんだよ!」
凛はそう言い切って、叩き付けるように背中をフローリングに倒した。そしてしばらく口をつぐんで長めの沈黙。生気のない顔をテレビに向けている。
「……じゃあ、お前どうすんの? この先」
「……この先、って」凛は言いよどんで、のそりと視線を天井に移す。目をつむって静かに答えた。
「わかんない」
そういわれると、史郎もどう言葉をかければいいのか判らなかった。とりあえず部屋の灯りでもつけようかと立ち上がる。すると不意に玄関の固定電話が鳴った。
「出ろ」
「はいはい」史郎は小走りで向かって、受話器を手に取る。しばらく相づちを打った後、なにやら不思議そうに頭を掻いた。受話器を耳から離して、凛に向ける。
「なんか、お前に代われってよ」
部屋に灯りをともすと幾分か気持ちも明るくなる。テレビはいつのまにか再放送のバラエティーが終わって、昼のニュース番組が始まっていた。時刻を見ると、凛に電話を代わってから、もうじき十分が過ぎようとしている。しかし通話は未だ続いていた。
「アっハハははっ!」
凛は電話を代わってからずっと上機嫌だった。それとは逆に、史郎はソファでうつらうつらと舟を漕いでいる。事情を聴くまで起きていようと思ったがすでに限界は近かった。
「アハハハッはぁーー、ははっ……うん、うんおっけりょーかい、あーうん部活は行くわー。はは、じゃあねー」
凛はやっと長電話を終えて、後ろ手を組みながら振り返った。その口元には性格の悪そうな笑みが浮かんでいる。聴かないほうが良いような気もするが、これを聴かずに眠れまい。
「どういう電話だったんだ? さっきの子チームメイトだろ」
「ふっふっふ……」凛は演技っぽく笑って、目を見開いた。「なんと! 澤城が昨日の相手と一緒に、顧問に謝りに来たんだってさ!」
そういって、床に置いてあるスクールバッグを拾い上げる。
「で! その相手は公表されてないけど、うちのチームメイトのひとりらしい!」
史郎は思わず面食らう。ずれた眼鏡を押し上げた。
「チームメイトって……女子バレーの?」
「そのとおり!」凛は高らかに答えて、叫ぶように言った。
「女の子同士は不純異性交遊に含まれないんだって!」
「女の子同士は不純異性交遊に含まれないだってーっ!?」
凛はそう言い残して、颯爽と高校へ出かけて行った。史郎は日中にすることもなく、適当に昼食を見繕ってソファに身を沈める。テレビは消そうかと思ったが、せっかくなのでつけておいた。最後に見たのはいつだったか、随分と久しぶりに昼の番組を見たきがする。可愛げのないマスコットが正午を伝えた。
外は午後から晴れるらしい。
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