第45話 夢物語
尚哉は反論の言葉が頭に浮かんでいたが、声に出すことができなかった。
「そう言えば、樫山専務の話に疑問を抱く者がいても、尚哉が樫山専務の娘と入籍して離婚し、子どもが生まれている現実がある限り、面と向かってそれを問い質すこともしないだろう。それで、でっち上げの真っ赤な嘘は真実として罷り通り、樫山専務とその娘は最小限の傷は負っても体裁は保たれる」
「そんなこと、認められるわけがないだろ」
尚哉は短い呼吸を繰り返して痛みをやり過ごし、搾り出すようにして達樹へ抗議した。
「ああ。全ては単なる樫山専務の練り上げた筋書きだ。お前が婚姻届の用紙に署名しない限り、現実のものとなることはない夢物語だ」
尚哉の抗議を達樹は平然と受け流したが、尚哉は夢物語だと言われても安堵することはできなかった。
「落ち着けよ。樫山専務の夢物語は、お前にとって悪いことばかりじゃない」
「どういうことだ」
達樹の物言いに、尚哉は腑に落ちない思いで聞き返した。
「樫山専務の目的は、自分の娘とお前を入籍させることだ。結婚式を挙げて披露宴まで執り行うなら、お前の両親の同意が必要不可欠となるだろうが、入籍だけならとっくに成人しているお前だけで事足りる。梨奈さんの存在も樫山専務の夢物語の仕上げには必要だろうしな」
「何が言いたいんだ」
梨奈の名前を聞いて尚哉の身体は強張り、考えることを放棄した。
「詰まりだ。樫山専務が夢物語を現実のものとするためには、お前の両親に入籍を反対されることもお前が梨奈さんと別れることも望まないはずだ。だから、お前が心配していたように次の標的となることは、今はまだないだろうということだ」
「だがな、達樹。入籍することと結婚することは、同じことではないのか」
それまで黙って話を聞いていた達雄が、尤もなことを口にした。
「尚哉にとってはそうなるだろうな。だが、樫山専務にとっては違うんだ。尚哉が子どもを自分の子だと認め、樫山専務の娘との結婚を納得して受け入れるのを待っていたら、娘は未婚のまま父親が誰なのかはっきりしない子どもを産んでしまうことになりかねない。そうなっては、体裁を保てなくなる。しかし、尚哉の意思を無視して強引に入籍させてしまえば、尚哉が納得しなくとも、認めなくとも法が生まれた子どもを尚哉の実子と認め、娘も正式な妻として子どもを生むことができ、内情はどうであれ体裁は保たれる」
尚哉は達樹の話を聞き、今はまだ両親と梨奈は大丈夫だと分かっても、どうにもならない怒りが急速に腹の中に溜まっていくのを感じていた。
「そうだとしても、そこまでして尚哉君を取り込みたい理由は何なのか……。ただ単に体裁を保ちたいだけならば、出世や樫山家の財産に魅力を感じ惹かれた者に話を持って行った方が、簡単に事を成し遂げることができるだろう。それが分からない樫山専務ではないはずだ。それにも拘わらず尚哉君に固執するのは、そこに何か目的があるのかも知れない」
「どんな目的があったとしても、それが尚哉を必要とするものなら夢を夢のままで終わらせてやれば、目的を果たすことはできないんじゃないか」
達樹の説明に疑問が深まった様子で自分の考えを伝えた達雄へ、達樹が一足飛びに解決策を示した。
そこで、今までに一度も会ったこともなく、尚哉から話を聞いただけの人物に対して、これ以上の推測は無理があると悟ったらしい達雄は小さく息を吐いて気持ちを切り替え、尚哉へ達樹が示した解決策について具体的に指示を出した。
「尚哉君は、万が一、身動きが取れなくなった時に備えて、父親の賢悟さんに事情を話しておいた方がいい。いざとなった時、賢悟さんが間に入ることで一方的に事を進められなくなるはずだからね。それと、佐伯課長にも今の話をして、もう一度尚哉君に協力してくれるように頼んだ方がいいだろう」
「分かりました。明日、話してみます」
尚哉は達雄の言った秋光の目的が気になったが、それがどのようなものであれ、達樹の言う通り、夢物語を夢で終わらせることで自分に降り掛かる問題を解決できるはずだと考え直し、持て余しそうになっていた怒りを力に変えて『必ず、夢のままで終わらせてやる』と心に誓い、了承の返事をした。
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