第8話 紅い葉の流れる河

 秋にしては暖かい春の日のような柔らかな陽射しが、さらさらと流れる川面をキラキラと輝かせている。

 周囲を流れていく爽やかな風。

 その風にさやさやと音を立てる、紅に染まった木々の枝葉。

 川縁から少し離れ、木漏れ日がキラキラと頬にこぼれ落ちる木陰に腰掛けながら、月夜は激しい水音を立てて流れ落ちる滝を何となく眺めていた。

 滝壺から立ち上る水煙。その表面には秋の陽射しに作り出された七色の虹がうっすらと映し出されている。

 蒼く澄み渡る空を吹き抜ける風に、赤や黄色に染まった葉が降り落ちると、月夜はふと隣に寝そべる青年に目をやった。

「……」

 栗色のサラサラとした髪。

 今は閉じている琥珀色の瞳は、彼女を目にするとパアッと輝き、その優しい視線は彼女を引きつけてやまない。

 スラッと伸びた長身。剣を扱わせたら右に出る者はいないとさえ言われるその体は、しかし戦士特有の隆々とした筋肉を持ち合わせてはいない。

 物理的に必要な力は最低限、後は体の内に眠る人外の力がそれを補ってくれる。

 神官戦士としての証明のような肉体を持つ青年は、月夜の隣――遠くなく、しかし近くもないじれったい距離で寝そべったまま、さっきからずっと黙って目を閉じていた。

「ウィン……?」

 眠っちゃったのかな。

 そう思いながら月夜は声をかける。

 と、ウィンがぱっと目を開けた。

「あ、ごめんなさい、起こしちゃ――」

 慌てて、月夜が謝ろうとした瞬間。

 その言葉を遮るように、ウィンがふっと口を開いた。

「ずっと――」

「……え?」

「ずっと、憧れていたんだ。こんな一日に……」

 そして、ウィンはむくっと体を起こした。

「ウィン?」

「オレ……オレさ。こーゆーの、したことなかったんだ。この……ほら、何ていうのかな、お弁当を持って、誰かと暖かい午後の時間を静かに過ごす……みたいなさ。オレは、いつだって誰かに囲まれていたけど、でも本当の意味ではいつも一人だったから……」

 いきなり話し始めた内容に戸惑う月夜。

 そんな彼女に僅かな笑みを浮かべ、ウィンはその視線をフ、と遠くへ投げた。

「オレ、昔からいつでも誰かがそばにいたし、必ず誰かがオレの世話をしてくれたから、寂しいっていうのがどんなことなのか、子供の頃はあんまりピンと来なかったんだ。両親は……国王や王妃は公務に忙しくて、殆ど逢えなかったけど、その分『親』ってのがどういうものなのか良くわからなかったから、寂しいと思ったことなんか一度もなかったし。でも……でも、いつだって思ってた。これは違う、ほんとは、こんなの違うんだって」

 起きあがって背後の木にもたれ、両足の間に置いた両手を組んだり放したりしながら、ウィンは続ける。

「いつだって、誰かがそばにいた。どんな時だって、誰かが世話をしてくれた。でも、それだけだった。オレのことを本気で気にかけてくれたり、心配してくれる人なんていなかった。いつだって誰かに囲まれていたけど、みんなオレを見ていたんじゃなかった。見ていたのはオレの親……国王や王妃の威光を、『王子』としてのオレを見て――権威に傅く人間ばかりだった」

「ウィン……」

「だけどさ、それでも最初は全然気にならなかったんだ。だって、それが当たり前だったんだから。オレの場合、生まれてからも、物心ついてからもずっとそういう生活が続いていたから、それが普通なんだと思ってた。疑問を持つことさえしなかった。でも、あの日――」

 ふと、ウィンの目が和らいだ。

「あいつが城にやって来たんだ。母親と一緒に」

「あいつ……?」

 ウィンの目が優しい。それは、いつもどこかで目にしているものと同じ輝きを宿していて……そう、例えばウィンがキッドを見ているとき。聖が自分を見つめるとき。

 相手が心配で、愛しくて、とても強い絆で結ばれている者を見るような……

「弟さん……ね?」

 月夜の問いに、ウィンは軽く頷いた。

「ああ。あいつ……弟はさ、ずっと城とは違う場所で暮らしてたんだ。あいつの母親は国王の第2夫人で、城から近い場所に別邸を貰って住んでいた。別に、国王が複数の妃を持つのは珍しくなかったから、別居する必要はなかったんだけど、国王が第2夫人を娶ったときには既にオレが生まれていたから、彼女の方が遠慮したんだって、城の人間に聞いたよ。……でも、弟が生まれた。第2夫人の子とは言え、男である以上は弟にも王位継承権が与えられる。そのせいで、弟が2つか3つの頃、身代金目的の賊に襲われてね。だから、警備上の問題もあって無理矢理、国王が城に引き取ったんだ。――オレ、まだ覚えてるよ。弟が母親に連れられて、初めて城にやってきた日のこと……」

 不意に、ウィンの目がきゅっと細くなった。

「あいつは、小さな自分の体にのしかかるような大きな宮殿に脅えながら、それでも隠しきれない好奇心で目をきらきら輝かせて、母親のスカートにしがみついてた。最初は、ほんとにこいつにオレと同じ血が流れるのかって思ったよ。あいつは、本当に普通の子供だった。最初は母親の背後に隠れるようにしてたけど、そのうち宮殿に慣れるとあちこち走り回っては侍従達を冷や冷やさせていた。大きく見開いた目で、見えるもの全部を吸い込もうとするようにキョロキョロしながら……頭を殴られたような気がしたよ。――本当の『普通』っていうのが何なのか、まざまざと見せつけられたようなものだったから」

 両足の間に置いた手が、いつの間にか固く握りしめられている。

 白くなるほど力のこもったその手に、月夜がそっと自分の手を重ねると、ウィンはふ、と微笑んで続けた。

「それから、オレは少しずつ自分が変わっていくのがわかった。周囲にいた、普通だと思ってた人間が鬱陶しくなった。彼らが見ているのはオレじゃない、それは普通なんかじゃないってことがわかったから。そして、オレは押しつけられた王子としての地位を疎んじ始めた。元々、本当の性格は王子になんか向いてなかったんだと思う。今までごまかし、だましてきた分、反動は大きかったよ。オレが王になると期待して傅く人、近づいてくる人間……それが全部どうでも良くなって、すべてを忘れられる剣の修行に打ち込んで……そんなある日、見かけたんだ。弟とあいつの母親が、中庭で小さなピクニックをしているところを」

 あの時の感情を、どう説明したらいいのだろう。

 それまでは、弟に特別何かを想ったりすることはなかった。

 母親が違うとは言え、彼はウィンにとって紛れもなく弟だったし、母親が違うという事実も、弟を嫌う理由にはならなかった。

 しかし……あの時は違った。

 中庭でお弁当を広げ、談笑し、母の膝に甘える小さな弟。

 その笑顔がとても眩しくて……かなわないと、思った。

 そして初めて、彼は小さなその弟を憎んだ。

「ほんとに、些細なことだったんだ。中庭でお弁当を広げて、他愛ないことで笑い、甘える弟。その弟をこれ以上はないくらい優しい笑顔で見つめる母親……ほんとに、他愛ない、ごく普通の風景だった。でも――オレには、それがとてつもなく遠く、手の届かない場所に見えた」

 生まれてこの方、母に甘えた記憶など無い。それどころか、母に関しての記憶すら殆どなかった。

 彼にとって「母」とは、いつも着飾って多くの取り巻きに囲まれ、あちこちを忙しく飛び回っている「王妃」でしかなかったから。

「自分があいつに嫉妬し、少しでも憎しみの感情を抱いたってことが、ショックだった。年は離れていたけど、あいつオレになついてくれてさ、本当に可愛いと思ってたんだ。第2夫人の子ってことで嫌う奴もいたけど、オレにはそんなこと関係なかった。あいつは、あいつだけはオレのことを純粋に慕ってくれていたから……でも……」

 ウィンはくっ、と唇をかみしめた。

 そしてその温もりに救いを求めるように、重ねられた月夜の手をぎゅっと握る。

 そのまま、暫く月夜の手を握りしめていたウィンが、ふっと自嘲気味に笑った。

「それから、オレは次第にあいつから遠ざかっていった。あのままそばにいたら、いつか弟を心の底から憎んでしまう。そんな気がしたんだ。第2夫人の子。嫡男で、第1位の王位継承者で、立場的には比較にならないほど恵まれているのはオレの方だった筈なのに、あいつはオレにないもの全てを持っている。そんな劣等感に苛まれながら、今までみたいにつきあっていくなんて、あの頃のオレには不可能だった。それから、オレは今までにも増して剣に打ち込むようになった。体を、心を支配しようとする負の感情から逃げるように、ただひたすら……そして、数年が経って、オレが自分の中にある人外の……今思えば神官戦士としての素質に気づき始めた頃……噂を耳にしたんだ。弟が……成長した弟が、帝王学を学び始めているってことを」

 恐らく無意識にだろう、月夜の白い小さな手をぼんやりと見つめ、その甲をゆっくりと愛撫するように撫でながら、ウィンはふっと苦笑した。

「その時、オレがどう思ったと思う?――本当なら、第1王子であるオレは本当なら、それを不快に思わなくちゃいけなかったんだ。当然だろう?王位を継ぐべきはオレで、帝王学も先ず学ぶべきだったのは、オレの方だったんだから。なのに、立場を無視されたも同然だったのに、オレはそれを……嬉しいと思った。これで、オレは重苦しいプレッシャーから解放される。そう思ったんだ」

 月夜の手を撫でていたウィンの手が離れた。

 そのことに微かにがっかりしながら、月夜はウィンを見上げる。

 彼は、再び自嘲気味な笑みを浮かべていた。

「そのあと、暫くしてオレは国を出た。その頃にはオレの中の神官戦士としての力は誰の目にも明らかだったから、誰一人疑う奴なんていなかった。でも――今は、思うんだ。後継者争いが嫌だから、神官戦士になる。そんなのは……そんな理由は、周囲を、弟や両親達を、いや、オレ自身さえも騙し、ごまかす為の、綺麗な口実だったのかもしれない、って――」

 そのまま、ウィンは黙り込んでしまった。

 その目は相変わらずどこか遠くを見つめていて、何の表情も伺えない。

 月夜は、さっきまでそばにいた……いや、今だって手を伸ばせば届く距離にいるウィンが、何故か遙か遠くへ行ってしまったような錯覚を覚えた。

 いつだって爽やかで明るくて、月夜に力をくれるウィン。

 何の悩みもないような彼にも、こんなに悲しい過去がある。

 それは、決して月夜に何の責任もあるものではなかったけれど、彼女は何故かとてつもなく罪悪感を感じた。

 幼い頃、少年の頃、さみしくて苦しんでいた彼のそばにいてあげられなかったことが、それは物理的に不可能なことだとわかってはいても、どうしようもなく悲しかった。

 自分は、こんなに彼に支えられているのに。

 なのに、彼が苦しんでいたとき、自分は何もしてやれなかったのだ。

 それが、悲しかった。

「あ、の……ウィン?」

 そして、月夜は自覚する間もなく、そう声をかけていた。

 何かしなくちゃ。

 そんな想いだけが、彼女を動かしていた。

「ん――?」

 応えて、ウィンが振り向く。

「!」

 月夜は、その時になって初めて、自分が言おうとしている言葉を認識し、ハッと息をのんだ。

「月夜……?」

 口を開きかけたまま黙り込んでしまった月夜に、ウィンが不思議そうに首を傾げる。

「あ、の……」

 咄嗟に、ごまかそうかと思った。

 しかしその時、彼女ははっきりと見たのだ。

 ウィンの瞳の中に、未だ見え隠れする、さみしげな表情を浮かべる『少年』の姿を。

 ごくり、と唾を飲み込み、月夜は言った。

「ひ、膝枕……してあげる、ウィン」

「!」

 ――風が、二人の間を強く吹き抜けた。


「あ、あの……」

 えっ、という表情のまま黙り込んでしまうウィン。

 月夜は恥ずかしさに顔が真っ赤に染まるのを自覚しながら、瞳をぎゅっと閉じた。

 やっぱり、言わなければ良かった。

 一体、何を勘違いしていたんだろう。

 彼は、母親に甘えたことのない自分の過去を話したのだ。

 さみしかった少年の頃の話をしたのだ。

 なのに今更、自分が何をしたところで、それに何の意味があるというのだろう。

 自分は、ウィンにこれ以上はないくらい支えられている。

 でも、だからと言ってウィンが自分を支えにしてくれていると思いこむなんて。

 何て自惚れ。

 何て傲慢。

「や、やっぱりいい!何でもない……!」

 恥ずかしさに耐えきれず、立ち上がって川へ駆けていこうとした月夜の腕を、ウィンが咄嗟につかんだ。

「い……いた……」

 そのあまりの力に思わず顔をしかめる月夜。

 と、ウィンがハッとしたように慌てて力を緩めた。

「あ、いや、その……」

 そう言ったまま、その腕を所在なげに上げたり下げたりするウィン。

 何かを言いたいのに、言葉が出てこない。

 顔を青くしたり赤くしたりしながら、必死に言葉を紡ごうとしているウィンの表情を見ている内に、月夜はなぜか心が落ち着いてくるのを感じた。

 ――引き留めたってことは、勘違いじゃなかったって、思っていいのよね?

 ――少しは、自惚れてもいいってことよね?

「……」

 月夜はふわっと、花のような微笑みを浮かべた。

「!」

 その微笑みに、ウィンが金縛りにあったように硬直する。

 その瞳に浮かぶ、紛れもない自分への『想い』。

 月夜はその輝きに背を押されるように、再び木陰に腰掛けた。

「――?」

 そして、どうしようか考えあぐねているようなウィンのズボンの裾を、軽く引っ張る。

 それで彼女の思いを察したのか、ウィンも軽く微笑んだ。

 そして、月夜の隣に座り込み、少しだけぎこちなく……照れくさそうにその膝に頭を乗せ、体を横たえる。

「……」

 頭に感じる柔らかな感触。

 鼻をくすぐる彼女独特の甘い香り。

 何だかすべてをさらけ出しているような気がして、目を開くとすべての想いが溢れ出そうな気がして、恥ずかしくて目も開けられない。

 目を固く閉じ、唇をギュッとかみしめて体を固くしているウィンの額に、柔らかな温もりがすっ、と触れた。

「!」

 月夜が、ウィンの前髪をそっと撫でている。

 優しく掻き上げ、頭を撫でる暖かな温もり、柔らかな感触。

「ああ……」

 その手の感触に、ウィンは思わずため息を漏らした。

――ずっと、ずっと求めていたのは、これだったのかもしれない。

 ウィンはその感触に体全体が震えるような錯覚を覚えながら思った。

 ずっと、ずっと求めていたもの……それは、母との想い出でも、穏やかな時間でもなく、ただ……ただ、自分を想ってくれる人の……そして自分が愛しいと想う人の、こんな風に暖かな想いの詰まった手の温もり……。

 その感触に、思わずウィンは目を開いた。

 途端に飛び込んでくる、自分を見下ろす月夜の瞳。

 優しく潤むように輝くセピア・ブラックの瞳。

 ウィンは咄嗟に、自分の前髪を撫でる小さな手をぎゅっ、と握りしめた。

「……!」

 ウィンが目を開いた瞬間、月夜は反射的に手を引っ込めようとした。

 しかしそれより早くウィンが彼女の手をつかみ、まるでそうやって一つに溶け合おうとするかのように、強く強く握りしめる。

 その瞬間。

「……」

「……」

 二つの視線が、絡んだ。


「あ……」

 次第に熱を帯びていく、ウィンの瞳。

 その、激しく自分を見つめる彼の視線に縫い止められたように、月夜は息さえ出来ない。

 その時、ウィンが何かを言おうと、口を開いた。

「――!」

 何故だかは分からない。わからないけれど、でも、月夜はその先にある一言に脅えた。

 聞きたくない。何も、どんな言葉も、何一つ――。

 そんな彼女の動揺を察したのか、それとも自分自身で何かを諫めたのか、ウィンはしかし、何も言わなかった。

「……」

 少しだけ苦しげに、切なげに笑い、ウィンは急に立ち上がった。

「あ、ウィン……?」

 戸惑う月夜の手を引っ張り、彼女も立たせると、ウィンは周囲に立っている紅葉の葉を二枚取った。

 そして、その一枚を月夜に渡し、今度は川縁に引っ張っていく。

「……?」

 不思議そうな月夜に、ウィンは微笑んで言った。

「この川にはね、言い伝えが在るんだ」

「言い伝え?」

「ああ。何でも、この滝壺の付近から紅葉の葉を浮かべて流し、見えなくなるまでその葉が沈まなかったら、その人の願いは叶えられるんだってさ。……なかなか、ロマンチックだろう?本当かどうかはわからないけど、やってみないか?」

「見えなくなるまで沈まなかったら……」

 月夜は手に持った紅葉の葉を見つめた。

 薄っぺらく、風にヒラヒラとそよぐ紅葉の葉。

 でも、薄くて頼りないからこそ、その葉に人は願いを込めるのだろうか。

「……うん」

 月夜はそう言って、頷いた。

「よし」

 笑って跪くウィンにならい、月夜も川縁に膝をつく。

「願い事は何にする?」

 そう尋ねるウィンに、月夜は軽く微笑んだ。

「?」

「そういうことはね、ウィン。人には言わないの。言っちゃったら、願いは叶わないかもしれないわよ?」

 それに、人に言える願い事ばかりとは限らないし……。

 そう微笑む月夜に、ウィンも何かを思ったのか、何も言わずに頷いた。

「それじゃ、流すよ。いいかい?」

「うん」


――それぞれの想いを乗せ、紅葉の葉が流れていく。


 そして、その葉はどうなったのか?


 それは、二人だけが知っている――。

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