雑伝

 徳賀の聖は10歳にしてのちの学園都市の1つで高僧の弟子となったが、名誉や利欲を嫌い、修行ばかりしていた。帝室の招きを受けたこともあったが、狂気をよそおって断り、世の乱れへの抗議から、数多くの奇行に及んだ。

 例えば師の付き添いで宮中に参内したとき、腰にカツオ節を差し、メス牛に乗って供したと伝わる。

 また、師の代理で招聘されたとき、皆の前で糞尿を撒き散らしたという。

 86で天寿をまっとうした。


 クロディーヌは南洋諸島のガリフナ島で共和国(当時はそう呼ばれず、あくまでも帝国臣下であったが)側の勢力であった、コメール家の娘として生まれた。しかし、帝国の有力者逢坂義隆の侵攻を受け、兄や恋人を殺されると、代わって指揮をとり、奇襲によって帝国軍を破った。

 しかし、そのいくさが終わったあと、母と恋人の形見を胸に大海に身を踊らせた。

 コメール家のあとを継いだのは、姉が嫁いだ義弟であるが、かれは義理とはいえ親族に残虐無道をした帝国に仕えるのをよしとせず、未開の外地や宇宙の開拓者となったという。


 秋月国に草府という地域がある。さして特徴のある場所ではないが、首都と各街道を結ぶ位置にあったため、商業が栄え、また帝国軍の基地も小さいながらあった。

 顕徳院と帝国軍の戦で一番知られた戦場であり、ここに在原秀康率いる数万の軍勢が襲い掛かった。対する帝国軍は小笠原郝昭と千くらいの守備兵。しかも軍隊ではなく、警察や裁判所の仕事を行うための人員で、戦には不慣れなものがほとんどだった。

 院側はまず郝昭の友人を派遣して降伏せよと勧告したが、郝昭は拒否。かくて、何十もの攻城兵器や強化装甲が帝国軍を襲ったが、帝国軍もたった一機しかない強化装甲でをうまく使い、落石や落とし穴で対抗する。

 20日くらいがたち、細川時房ら援軍が到着し、院側は撤退した。


 エドナは帝国の文人・学者のボブの娘で、彼女も博学で、また音楽に優れていた。

 帝国の混乱のとき、エドナは誘拐され、北方のアントゥリムという地域にいた海賊と2児をもうける。やがて彼女の

『せをはやみいわにせかるるたきがわのわすれてもすえにあわんとぞおもう』

という歌が帝都にまで伝わり、土御門帝がそれを哀れに思い、海賊と交渉し、家族のもとに返した。

 のちに土御門帝はエドナに

「あなたの父ボブの残したものをまとめることは出来るか」

と、頼まれ

「父から受け継いだ4000もの蔵書は、もはや1冊もありにゃせんが、いくつか暗誦できるものがありますにゃ」

と、答え、しばらくすると『フォークロアのための手引き書』という本になって送られたが、誤字脱字はいっさいなかったという。


 リューゲン島で起こった共有主義運動は、カリーニン派と、マルゼンスキー派に分裂してしまった。

 カリーニンとマルゼンスキーの対立は、つまるところ自分たちのイデオロギーを1国で固めるか、世界に輸出するか、というところである。また、カリーニンは迫害を受けて共和国にやってきた刻人で、マルゼンスキーは富農の獣人であることも、この対立を激化させる理由であったろう。ともあれ、カリーニンは執拗にマルゼンスキーを

「ブルジョア階級からのスパイであり、共有主義の敵だ」

と攻め、結局マルゼンスキーは、リューゲン島を追放されるように去っていった。


 秋月島の皇帝代理官で、現地出身者としては初の皇帝代理官であるエリックの母は、松森局という細川時頼のお手付きの猫で、時頼お気に入りの愛妾であったが、病によって顔が醜くなってしまったと、時頼の前から姿を消した。時頼は捜したが、行方は知れない。

 ある日、狩猟に出かけていた時頼は、粗末な庵で松森局を発見した。病のことを知った時頼は

「なんと哀れなことか」

と、その庵で1夜をすごし、後に庵を住みやすい邸宅にしてあげた。彼女は猫御前と呼ばれるようになった。

 1年後、猫御前は子供を産んで、名を兵五郎と名付けた。かれは成長すると、名前をエリックとあらためた。


 スラヴァはプレスプロク地方の中心地で、帝国プレスプロク州の州都である。今では耳付きが人口の90%を占めるものの、かつては南帝の首都になる国際都市であったという。しかし、共和国との境にある立地と、ボヘヴィアとボヘヴィアプレスプロク州であった時代には第2の都市として従属的な地位にいたことから、住民は

「あんまり州都感ない」

「失われた国際的古都」

という、相反する感情にとらわれているという。その複雑な感情はスラヴァ在住の作家エゴンの『エピソード21』という小説に描かれている。


 天京院末吉は南洋諸島ルシア島の出身である。元の名前はフクキタルといったが、天京院という大陸屈指の商家に婿養子に入ったときに改名した。

 高校を卒業すると、奨学金を受けて帝国にわたり、博士号を得た。その後世界各国の大学で講師をつとめ、南洋諸島銀行総裁にまでなった。

 かれの学問上の功績は『2重経済モデル』と呼ばれる。工業化によって低賃金で非熟練の労働者需要が急増するが、農村部が人口過剰であると、それで解決してしまうという理論である。

 この功績で、かれは帝国貴族となり、またかれの3人の息子からはじまる子孫たちは大陸各地に広がって各々が繁栄していくことになる。


 ニューラグーン北西にオルドと呼ばれる地域がある。

 名前の由来は、皇国での争いに敗れたカン・ヨンという武将が、この地に逃れたことから『野営地』という意味にオルドと名付けられたのである。

 カン・ヨンは現地を治めていた領主をパーニーパトの戦いで破り、新たな領主となった。

 その息子サービル・キラーンは皇国と同盟を結び勢力を伸ばしたが、かれの死後、オルドは皇国の属領となって、今にいたる。

 オルドでは口承文学が盛んで、『40人の娘』『ライスシャワー』などが知られている。

 またサウィスキー美術館にはオルド・アバンギャルドの作品群や、考古遺物や民俗資料が収蔵されている。


 凪島に新六という名伯楽がいて、放牧場にな投げ縄をかけるのが得意だった。また晩年視力を失ったが、馬を撫でただけで年齢・毛色・寸尺・系統・特徴から病気なはてまで判断でき、馬の神様と言われたという。あるとき放牧中の馬を盗まれたかれは、たまたま道で盗人がその馬をつれて歩いていたときに、馬を撫でると、特徴を言い当てた後

「これはわしの馬じゃにゃ」

と、そういうと、盗人はびっくりしてそのまま逃げた。このようにしてかれは馬を取り返した。


 千起は、鍋島房家から所領を返してもらったのち、敵である蠣崎景広を追って、あと一歩のところまで追い詰めたが、東西融和の結果、同僚ということになってしまった。失意のかれは、帝国本土にわたり、天京院末吉の次男、吉春に仕えることになる。

 かれの武勇を聞いた帝国の勇将トゥクタミシェワが腕くらべをもうしでたが、吉春は

「千起は、わが家中にかなうものはいませんが、トゥクタミシェワどののは1歩ゆずるでしょう」

と、返した。


 アルビダという猫は美貌の女性だったが、男装して志を同じくする少女たちを率いて海賊として暴れまわった。つねに先頭に立って戦い、ある戦いで片腕を切り落とされたが、その相手を打倒したりした。

 のちに彼女に惚れた男に敗れ、その妻となった。

「ホントは結婚する気はなかったんにゃけど、いい男にゃからね」

とは、本人談。


 マシリーはリューゲン島最強の狙撃手と呼ばれた女性で、そのキルスコアは309、そのうち36は敵の狙撃手であったという。

 また後進の育成にも優れ、彼女に教えられた狙撃兵の戦果は2000を超えるといわれる。

「敵の脳天破裂させるときも、オトコとの付き合いも、手に馴染む銃が1番にゃ」

とは、当人談。


  ムングとは、帝国と共和国に跨がる遊牧民が暮らす地方、またはその遊牧民自身のことを言う。

 ポロはその外部勢力に支配されたムングを解放することを求めて戦った。

 彼女は夫であるガリカとともに帝国や共和国と戦い、ガリカの死後はかれの残したゲリラ部隊を引き継ぎ、ムング解放闘争の英雄ノロと戦いを続けた。

 特筆すべき戦果としては、タイラー村にて帝国の指揮官と多くの兵士たちを捕虜にしたことがあげられる。

 結局そのタイラー村で彼女は亡くなったが、それまで彼女は生ける伝説として

「知識なき生は、武器なき戦争に等しいにゃ」

という発言とともに語り継がれた。

 このムング族の一連の蜂起は女性の活躍が目立ったのが特徴で、たとえばワムブイというムングの女性は、女性スパイのネットワークを作り上げ、帝国の基地や作戦計画に関する情報を収集していた。獄中でそのとき別件で捕まったポロと出会い、上記の発言は彼女が聞いたものである。


 エラは『南洋諸島のジャンヌダルク』と言われた女性だが、人生の詳細は謎である。少女時代に起きた『アニャ島事変』で捕虜になるまでの6ヶ月にわたって共和国軍と戦った。まさしく抵抗のために生まれ消えていったようで、結局

「たとえ非力であったとしても、戦うことはできます」

という、言葉だけが残った。


 帝国のために海洋や宇宙にあった資源プラントは植民地コロニーと呼ばれていた。しかし、本国の混乱を見た、天京院隆景という人が

「もはや本国の支援は期待できません。われわれ自身で何とかしなければ」

と、提言した。そして緩やかな連携が図られ、それは資源財団となっていくのである。

 さて、隆景が愛人に産ませた子どもがいて、その子どもはアナと名付けられた。

 彼女は全寮制の女学院に預けられたのだが、そこで学んだことは彼女の人生に重大な影響を及ぼすことになる。この女学院は慈善事業に熱心で、また幾名かの急進的な活動家が滞在していた。そうした環境で学んだアナは徐々に政治意識を植え付けられていった。

 卒業後のアナの消息は不明である。ただ、境域開拓団の過激派に加わったようで、コンペイトウ事件でASに乗っていたパイロットの中にアナという名前が確認できる。


 大陸外や宇宙に活動域は広がり、開発が進むと、関係者各所の利害を調整する機関が必要になり、天京院末吉が音頭をとって調整委員会という組織が作られた。この調整委員会がのちの境域開拓団の礎である。

 そのころ活躍したのが東照という獣人。弓馬に優れ、女ながら狩や敵部族の馬を盗むことに参加して活躍した。はじめて参加した馬盗みでは敵を殺し、退却のさいに馬を撃たれた父を救っている。やがて、その実力からスイープという称号をあたえられる。のちには戦闘部隊の隊長になったが、共和国との戦いで戦死したそうだ。

 その後、追放されたマルゼンスキーが組織化に協力し、名前を境域開拓団に改めた。しかし、マルゼンスキーがもたらした共有主義思想が、自立を目指しのちの星の屑事件などおこす独立派と、3か国を初めとした他組織との協調を目指す融和派の対立を生むことになる。


 呉口は南洋諸島と大陸の玄関口で、もとはコズロフというものが治めていたが、朝倉元宗というものに奪われた。塩という大きな経済基盤に支えられて、文化の先端地として知られるようになった。

 呉口は皇位を巡る争いで荒廃した帝国にあって塩という経済基盤に支えられ、文化都市となっていく。元宗やその孫の衣玖は詩人として知られ、リッチモンドという高名な画家もここ出身である。

 呉口の都市としての特徴は、街を南北に本土とジュネイリング島に分けるガレオン海峡である。元宗は水路がもっとも急なカーブを描いたところの両岸の本土側にルメール要塞、ジュネイリング島側にアナドル要塞を建設した。今日では避暑地としても知られている。


 さて、ここで呉口を含む東国情勢を少し記述しよう。

 時康帝は帝都を自身が治め、帝国の各地を腹心たちに治めさせる帝を中心としたいわゆる中央集権体制を形成していた。そのうち帝国の東側は親族(従兄弟であったという)の持康が統治していた。

 しかし、マクシミリアン帝の治世になって、持康の息子成持は反抗するようになった。結果、東国は北側が統制のおよばぬ土地となり、南側は帝国軍と実質独立した成持が東西に分かれて対立するようになったのである。

 それはタイシン帝の治世になっても変化はなく、南東側は成持側として帝国に反抗的な態度をとり、北側の諸侯がおのおの利害で、タイシン帝か成持につくか決めるというありさまであった。

 成持は形式上はタイシン帝の臣下という立場ではあるが、独自の行政や軍事行動を行っていた。そのシステムは息子の成陳、孫の成晴と受け継がれ、対立は32年ほど続く。

 成持とその息子たちは共有主義者と連携しつつ、帝国を苦しめることになる。


 この抗争の最中、帝国軍で内訌が生じた。帝国軍で副官は、秋月国出身で帝国に帰化した白井という家のものが務めていた。初代が獣人と結婚し、子をなしたことで、かれらは耳付きであった。その家のイゲンというものが反乱を起こしたのである。

 反乱の理由は帝国軍内部の権益や差別等の不協和音であったのだが、問題はイゲンとかれに従うものたちが成晴陣営に援助を求めたことにあった。当然敵の内部分裂は歓迎である成晴は了承し、混乱は深まっていく。


 のちに学園都市のシステムを作り上げた最上茂里は、秋月国の鍋島家の出身で魂型の来訪者だった。

 おさないころ、帝国大学教授で学者として知られる最上静の養子となる。

 神童としてしられ、親である静から

「わたしの息子でないのが、残念でにゃらにゃい」

と、嘆くほどであった。大学を卒業したかれは、成陳に仕えることになり、成晴の養育係に任命される。そのころ、街の子どもたちに学問を教えようよ、私塾を作っている。それというのも、戦火の中、子どもが捨てられたり虐待されていたからである。茂里は自身が目撃したものを、のちにこう回想している。

『夏には、このあわれな子どもたちは、日曜と月曜だけ、街の入口のあたりにある酒場で小僧となった。そのときにはご婦人たちはその子どもにそうとうなモノを着せてやった』

 さて、東国の争いは、痛み分けの形で終わり、各勢力間の緊張のなかでの現状維持が続くことになる。茂里は私塾を弟子にまかせ、帝都に帰ることにした。

 その帝都で、かれはトーマスという義父の弟子と出会い、盟友となる。

「トーマスさん、新しい私塾というか教育機関を創りたいのですが、どこか良い土地はありますか?」

「それにゃら、内ヶ島というところがあるにゃ」

 内ケ島とは、ドライ島の北西にある秋月国の所領だった地域である。ドライ島は東西の東を帝国、西を共和国が治めていたのだが、内ヶ島近辺はそれに秋月国を含めた3国が共同統治している地域であった。来訪者がやってくるゲートがある以外は、ごく普通の港町である。

「なんか地味ですね」

「それが良いんだにゃ。治めてる代官も友達にゃから、書類をいくつか出すだけにゃ」

 この地の代官はユリアンといい、若年のころからトーマスの友人であったという。

「なるほど、ここが良さそうですね」

 こうして、内ヶ島に小さな学校が作られた。そしてこの学校が、後々大陸諸勢力の1つである学園都市の始まりとなる最初の一歩であった。


 むかしむかし、あるお坊さんが稚児の送別会で鼎を頭にかぶっておどけてみせた。ところが頭から鼎が取れない。首のまわりには血傷つき血が垂れ、晴れてきた。割ろうとしても割れず、医者にいくも、その道中その異様な姿に、もなは訝しむことしきり。結局医者もさじを投げ、困ってるとあるものが

「たとえ耳や鼻がちぎれても死にはしにゃい。引っ張ろうにゃ」

と、藁をスキマに差し入れて、力任せに引っ張ると、耳や鼻が欠けて穴が開いてしまったけど、ようやく鼎が取れた。お坊さんはしばらく寝込んだという。


 学園都市の外務を担当していた前田というものが、タイシン帝に謁見することになった。そのとき前田は

「手ぶらでいくわけにはいかにゃいにゃ」

と、独断でタカを献上することにした。タイシン帝は

「おお、カッコいい」

と、喜んだという。


 ウォロシロスク地方は帝国東方にある、石炭供給地であり、一大工業地域であった場所である。

 その開発は、探検家カプーがこの地で石炭を発見したことに始まる。その後本格的な資源調査、鉄道の開設により、鉄鋼と石炭を結び付けた冶金やきん産業が急速に発達した。時康帝治世の帝国の生産量のうち、石炭の87%、鋼鉄の37%、粗鉄の20%がここで生産されていたという。

 しかし、成持が挙兵したとき、呉口に近かったこの地も成持軍のものとなってしまった。以後この地は成持とその後継者たちの生産拠点となり、帝国における内乱の震源地の1つともなる。


 南洋諸島にあるニューウォリス島は『天国に一番近い島』と呼ばれ、リゾート地として知られているが、世界的なアニマの産地であり、資源財団に手を出されていない産地として、ギュフィ公が指揮した帝国軍が入植した歴史がある。


 マディーナには、預言者霊廟という建物がある。かつてムング族の預言者モールが住居として建設したものが原型で、かれが亡くなると、妻アイシャの部屋に埋葬される。霊廟は徐々に拡大していき、43万もの巡礼者を収容できるほどになった。モールは

「この地への礼拝は、1000倍の価値があるニャ」

といい、霊廟周辺を聖域とし、狩猟や森林伐採を禁止した。

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