第8話 旅の終わり ~伝説の旅人~

 ワイバーンは飛び上がると、その翼は想像以上に大きい。頭から尻尾の先までの長さよりも、両翼の先端の距離の方がずっと長いのだ。ドラゴンの羽根が申し訳程度についているのとは、まったく様相が違っている。

「ドラゴンは、鳥のように羽ばたいて飛んでいるのではないのです」

 クスターはそうアルドに教えてくれた。精霊は空間にあまねく偏在するエーテルの上に浮かんでいるのであり、人間の目に見えている羽状のものは象徴に過ぎない。ドラゴンの羽根に何か機能があるとすれば、姿勢を保つ程度のものだ。しかしワイバーンは違う。エーテルの上に浮かびながらも、大きな翼が空気を掻いて、積極的に激しい動きをすることができる。急に動くだけでなく、急に止まることもできるのだ。

 ワイバーンはゴゥゴゥと羽ばたきながら高度を稼ぐと、上空でグギィ――と一声、大きく啼いた。その声はエグノーリアの国土中に広がっていった。


 ワイバーンの声に誘われたように、早速魔物が近寄ってきた。上半身は人間の女性で、下半身は鳥だった。

「ハーピーだ!」とクスターが声を上げた。

 ハーピーはクスターと目線が合うや、すぐに襲い掛かってきた。クスターはナイフを構えたが、後ろにいるアルドが「こいつは任せろ!」と剣を抜いた。飛翔する魔物には刀身の短いナイフは分が悪い。その後も次々にやってくるハーピーを、アルドは剣で、フィーネは杖で撃退していった。しかしながら1体を倒してもすぐにその何倍もの数がやってくる。気が付けば目の前には、先が見えないほどの数の――恐らくは数百の――ハーピーが、行く手を阻むように隊列を作っていた。

「邪魔だ!」

 クスターが叫ぶや、ワイバーンは大きく口を開け、まるで深呼吸をするように首をやや後方にしならせせると、次の瞬間、横を首を振りながら大量のファイアーブレスを一気に吐き出した。目の前は劫火によってまるで火の床ができたように見えた。そしてその劫火が収まると、目の前のハーピーの大群は消えていて、炎をまとった燃えカスが遥か下の地面に向かって落ちて行った。

 しかし、安心したのも束の間――、ハーピーはまた現れた。

「キリがないな」

 とアルドが言ったときだった。下方からグギィ――という声が幾つも響いてきた。見下ろすと何体ものワイバーンが上昇してくるところだった。正確に数は数えられなかったが、恐らくはエグノーリアに来ている全てのワイバーンが上空を目指しているのだろう。その背中にはエグノーリアの兵士を乗せていた。

 アルドたちが乗ったワイバーンもまた一声、グギィ――と啼いた。

 それからはアルドたちの周辺で、空中に無数の火の床が出来ては消えた。100体を超えるワイバーンが、同時にハーピーの群れを焼き尽くしているのだった。


 ハーピーの襲来はその後も止むことはなかった。

「おかしくないですか?」とクスターが言った。

「何が?」とアルド。

「我々はもう何十万体ものハーピーを退治しているはずだ。それなのにやつらは次から次へとやってくる。焼き尽くすごとに減っているはずなのに、やつらはむしろ増えているように思える」

 実際のところ、最初は一度ファイアーブレスを吐くと視界が開けていたのに、今は何度吐いても目の前をハーピーが埋めていた。

「たしかに多い、多すぎる」

「本当に何十万ものハーピーがいたのなら、エグノーリアは1日も持たずに陥落していたはずです。そう思いませんか?」

「だとしたらこれは?」

「我々は幻影のハーピーと闘っているのかもしれない。或いはこの闘い自体が幻を見させられているのかも――」

「じゃあ、どうしたら?」

 アルドがそう訊くが早いか、クスターがワイバーンに何かを語り掛けた。

 ワイバーンは翼を一度はばたかせたかと思うと、これまでにない速度で急上昇をした。そして翼を一杯に広げて急停止。もう一度、今度は下方向に羽ばたいて急降下、そして翼を畳んで自由落下。


 まとわりつくようについて来ていたハーピーの群れは、剥がれ落ちるように少なくなっていった。アルドは通常の何倍もの重力変化を受けて、胃の中にある全てが逆流しそうになった。フィーネは振り落とされないように、鞍につかまるのに必死だ。クスターだけがワイバーンに語り掛けながら、ワイバーンの限界を探る。

 自由落下で極限まで速度を増したワイバーンは、急に翼を斜めに開いて、落下速度を利用しながら急上昇に転じた。翼と一体になったワイバーンの前脚が、折れてしまいそうなほどに軋んでミシミシと音を立てた。

 ほぼ垂直上昇――。急激な荷重変化でアルドの頭部からは血液引いて下半身に集まり、それと同時に意識が薄らいでいく。

 空の色は段々と暗く変わり始め、空気は希薄になって、大地が球形に見えてきた。

その時だった――

「見えた!」とクスターが声を上げた。

 クスターの視線の先には、美しい女性が浮かんでいた。しかし下半身は蛇で背中には羽根が生えている。「エキドナ!」と叫ぶクスター。

――それは王に謁見した際に、あのナザレフが『おびただしいハーピーを従えている』と言っていた魔物だ。

「あいつが親玉か!」

 苦しい呼吸の中で、アルドが言葉を吐き出す。

 ワイバーンはファイアーブレスを吐いた。その1点に集中させて――

 その瞬間に稲妻が走った。エキドナの逆襲だった。稲妻はアルドたちのワイバーンに着雷し、鱗のいたるところで、ジリジリと青白い放電現象が起きた。ワイバーンにもダメージがあるらしく、ファイアーブレスの勢いが衰えていく。

 クスターの視線の先で、エキドナの美しい顔が微笑む。

――最早ここまでか?

 そう思った瞬間だった。遥か下方から雲を突き抜けて、別のファイアーブレスがエキドナを直撃した。1本、2本、3本、4本……、幾つもの方向から炎の筋が増えていく。10本、20本、30本……やがてその炎の筋は、エネルギーの束になってエキドナに集中する。

――白熱!

 燃えるでも、爆発するでもなく、エキドナの存在自体が消滅した。


 滑空しながら、ゆっくりと高度を下げていくワイバーン。アルドの眼下にあった雲はやがて遥か頭上を流れた。見下ろす地上では、エグノーリアの兵たちがチザルナを目指して進軍していた。


 エグノーリア城の中庭に降り立つと、王が出迎えてくれた。クスターが王の前に進み出た。「よくやってくれた。エグノーリアは救われた」と王は感謝の言葉を述べた。そして続けて言った。「約束通りにそのワイバーンを連れて行くがいい。現世でも、未来でも、常世でも、望むところに」

 クスターは王に、これから起きることを伝えるべきかどうか迷っていた。王自身が毒殺される恐れがあること。ナザレフの裏切りのこと――。しかし王はクスターが口を開こうとした瞬間、「未来のことは何も言うな」と言ってクスターを遮り、すべてを悟っているかのように「運命に抗うつもりはない」と付け加えた。


 クスターは王に別れを告げて、またワイバーンの背に乗った。

 ワイバーンが飛び立ってからのこと――、アルドがクスター話しかけた。「あなたはワイバーンに、『ドラークに連れ帰る』と約束したのでは?」

 クスターは「その通りです」と頷いてから「でも――」と言葉を繋いだ。「私が未来を知っていなければ、今の時点ではチザルナとの戦が終われば、ワイバーンはドラークに戻れる約束になっているのです。もう少し先の未来ではナザレフが約束を破ってしまいますが、それはまだ先の話。私もエグノーリア王と同じで、運命に抗うことはやめようと思います」

 アルドは思った――。もしもクスターがその気になれば、今ナザレフを殺してしまうこともできる。 ナザレフの裏切りを未然に防ぐことができるのだ。そうなればワイバーンは約束通りドラークに戻ることができるだろうし、ドラークが山体崩壊で海に沈むこともない。2000年後にも大陸として存在することができる。

――しかしクスターは、敢えてその選択肢を選ばなかったのだ。


 ワイバーンがエグノーリア城の上空を2度、3度と旋回するうちに、地下深くにあったはずの、あの時を越える青く光る穴が、空間に浮かび上がってきた。ワイバーンは全てを悟っているかのように、その穴に飛び込んでいった。


  ※


 ワイバーンの背に乗り上空から見下ろす景色は、アルドとフィーネが慣れ親しんだバルオキー村だった。

「戻ってきたんだね、現代に」フィーネが言った。

「そうだ、2000年の時を越えて」アルドが頷いた。

 アルドとフィーネは一旦バルオキー村から離れて、ヌアル平原の外れでワイバーンから降りた。クスターは村で降ろすと言ってくれたが、村人たちが初めてワイバーンを見て何を思うかを心配した。何しろワイバーンは一般の人間――例えば村長やパニーラ――にとっては、人間に害をなす凶暴な怪物なのだから。


「ありがとう、アルド。ありがとうフィーネ。あなたたちのお陰で、16年間かけた私の願いが叶いました。これでドラークにはワイバーンが復活する。――まだ1体だけだけれど」

 クスターはアルドとフィーネに礼を言い、少しの間別れを惜しむと、再びワイバーンの背に跨った。

 クスターを乗せたワイバーンは、あの大きな翼で羽ばたいて巨体を宙に浮かべると、真っすぐに南の空に飛び立っていった。姿が見えなくなる直前に、グギィ――という啼声が空に響き渡った。


「ねえ、お兄ちゃん。『伝説の旅人』って本当は……」フィーネが言った。

「ああ、俺たちではなくて、クスターのことだったんだ」

 アルドが微笑み、フィーネも笑った。


――アルドとフィーネが、遥か南の海で大きな火山噴火が起きたという噂を聞いたのは、それからずっと後のことだった。


――了――

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