68

「……!」


 衝撃だった。


 令佳先輩が、日本を離れてしまう……?


 ジワリと目頭が熱くなる。


「そう。彼女は文字通り、君らと違う世界で生きていくことになる。『ノヴィ・スヴェト』の三代目総主教として生きていくんだ。だから、いずれにせよ君らとは別れ別れになってしまう。彼女のことは忘れた方がいい」


 僕を威圧するような目で見据えながら、男性は言った。


「総主教になる? それ、本当に、令佳さんが望んだことなんですか?」良太だった。


「もちろんだ」と、男性。「そうでなければ、彼女は今ここでこうしてはいないよ。そうだろう?」


 男性が令佳先輩に視線を送ると、彼女は微笑みながら、さも当然と言わんばかりにうなずく。


「そんなのおかしいだろ!」良太が声を上げる。「好きな男と別れてまで、そんなものになりたいなんて……絶対に嘘だ! そうでなけりゃ、あんたが洗脳したんだろ?」


「まさか」男性がゆっくりと首を横に振る。「全て、彼女の意志だよ。私は何もしていない。令佳、そうだよな?」


「ええ。私は、自分の意志で選んだの」


 相変わらず微笑みをたたえたまま、はっきりとした口調で言い切った、先輩が、僕に視線を移す。


「だから浜田君、私はもう、君の彼女でいることはできない」


「……!」


 もう限界だった。僕の目から涙がこぼれる。涙声で、僕は叫ぶ。


「それで……先輩は、本当にいいんですか!? 先輩は本当に幸せなんですか!?」


「もちろん」即答だった。「私は幸せよ。私が総主教になれば、多くの人を悩みから救うことができる。それが幸せでなくて、何なのかしら?」


「……でも!」僕は食い下がる。「先輩は、僕の苦しみを救ってくれないじゃないですか!」


「……!」先輩の目が、大きく見開かれた。


「僕は今でも、先輩が好きなんです。先輩の恋人になれて、とても嬉しかった。なのに、先輩に会えなくて……苦しくて……悲しくて……でも、先輩は僕を救おうとせず、むしろそれに追い打ちをかけようとしているじゃないですか……そんなんで、先輩は本当に多くの人を救えるんですか!?」


「……ごめんなさい」そう言って一瞬目を伏せるが、先輩は顔を上げて微笑む。「でもね、それは……あなたを救うのは、私じゃない、ってこと。あなたを幸せにしてあげられるのは、私じゃない。そういう運命なの。だから、私のことは忘れて。ね?」


 その時の先輩の表情を、僕はいつかどこかで見たような気がした。ほんの少しだけ、寂しさをたたえたような笑顔。だけど、それがいつでどこだったか、すぐには思い出せなかった。


「でも、僕は……!」


「ほら、令佳も言ってるじゃないか」そう言いかけた僕を、男性が遮る。「もう彼女は、君のことは何とも思っていないんだ。君は彼女に別れを告げられたのだろう? だったら、男らしく諦めたまえ。これ以上娘にしつこくつきまとうと、君をストーカーとして扱わないといけなくなるよ」


「ちょっと待って下さい」由之だった。「あなたは、令佳さんの父親なんですか?」


「だったら、どうだと言うのかな?」男性――いや、亜礼久さんが応える。


「この写真をこいつに送ったのは、あなたですか?」


 僕をちらりと指さした後で、由之はA4サイズにプリントした、例の写真を背中のザックから取り出して、亜礼久さんの目の前に掲げて見せる。


「……?」


 亜礼久さんはしばらく、キョトンとして写真を見つめていたが、やがて眉をひそめると、由之に向き直る。


「この写真は……何だね?」


「何だね、も何も、あんたが送ってきたんでしょうが!」憤懣ふんまんやるかたなし、という様子で由之が言い捨てる。「仮にも自分の娘の、こんな不埒ふらちな写真をでっちあげるなんて……あんた、ほんとに父親ですか?」


 その言葉に、令佳先輩も写真の良く見える位置に歩き、そして……目を伏せ、ため息をつく。


「やっぱり……そうだったのね」


「違う!」叫んで亜礼久さんは首を横に振る。「私はこんな写真など知らない。それは本当だよ。信じてくれ」


「だけど」と、由之。「何者かがこの写真をでっち上げてこいつにメールで送ってきたのは確かなんです。それも、ロシアから」


「ロシアから……だと?」亜礼久さんが、眉をひそめる。「それは本当か? それに、その写真がでっち上げ、って言うのも本当なのか?」


「ええ」


「なんでそれが分かったんだ?」


「そりゃ、メールのヘッダを見ればロシアから送られてきたのは一目瞭然ですよ。それなりのスキルがあれば誰でもわかります。でっち上げかどうかも、画像を詳しく解析すれば分かります。それは、こいつがやったんですけどね」


 そう言って、由之が再び僕を指さす。


「……」しばらく何かを考えるように首をかしげていた亜礼久さんが、由之に向き直る。「なるほど。だったら心当たりもないわけじゃない。いずれにせよ、その写真を作ったのも送ったのも私じゃないことは確かだ。それは間違いない」


「え……お父さんじゃなかったの?」令佳先輩が意外そうな顔になった。


「もちろんだ」と、亜礼久さん。「自分の娘の、こんな破廉恥な写真をでっち上げたりはしないよ。それにしても……」


 そこで亜礼久さんは、独り言のように呟く。


「(令佳に付く悪い虫は排除しろ、とは確かに言ったが……やり方ってものがあるだろう……)」


「そうだったのね。安心しました」令佳先輩が満面の笑顔になる。


「ああ。もしかして、お前はあの写真が送られていることを、知っていたのか?」


「ええ」


「そうか……それは、随分心配をかけたな。でも、これからはもうこんなことはさせないし……する必要もないだろうな」


 そこで亜礼久さんは僕らに向き直る。


「さあ、君たちも分かっただろう。もうここにいるのは君らの知っている令佳じゃない。『ノヴィ・スヴェト』の総主教、レイカ・ミハイロヴァなんだ。だから帰りたまえ。でないと、私は君らを不法侵入者として、警察に通報しなくてはならなくなる。令佳と仲良くしてくれた子たちに、できればそんなことはしたくないからね」


「……」


 言葉を失ったままの僕らの前に、二人の見張りが立ちはだかった。


 ダメだ。撤退するしかない。


 だが、その時。


「令佳先輩!」茉奈だった。「先輩は、それでいいんですか? 浜田と別れて……教祖になって……それで、本当にいいんですか?」


「言ったでしょ?」微笑みながら、先輩が応える。「それが私の望み。私の幸せなの。だから、それでいいに決まってるわ」


「……」しばらく茉奈は令佳先輩の顔を見つめていたが、やがて目を伏せ、ポツリと言う。


「わかりました」


「さあ、もういいかな。それじゃみんな、出ていってくれ」


 亜礼久さんが声を張り上げた。


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