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「とりあえず、収穫はそれなりにあったな」
一つため息をついて、由之が言う。
家に帰る途中、僕は由之の家に寄っていた。俺の部屋で少し作戦会議をしよう、と彼に誘われたのだ。ここまで派手に動いてしまったら、もう完全にヤツらに宣戦布告したような物だから、帰り道にヤツらが何か仕掛けてくるかも知れない、と用心しながら僕たちは帰ってきたのだが、全くそんな気配がいない。となると、実は僕らはそれほど監視されてないのではないか。だとすれば、わざわざサウナでなくてもどこで話し合っても同じだろう。
「ああ。そうだな。たぶん、あの様子ではナターシャさんにも何か心当たりがあるんだろうな」
「それに、とりあえず五日前までは令佳さんは彼女と連絡が取れる状況だった、ってこともわかったし、な。お前にとっては嬉しいことだろう」
「もちろんさ。安心したよ。だけど……まだ、肝心なことは何も分かってない。いったい何が起きたのか……先輩は今、どこにいるのか……どうして彼女は、僕の前から消えたのか……」
「ま、その辺りはいずれナターシャさんが話してくれるんじゃないか? とりあえずはその時が来るのを待つしかねえ、と俺は思うぜ」
「……そうだな」
そして。
ナターシャさんからメールが届いたのは、その三日後のことだった。
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「……」
「……」
由之の部屋。僕と彼は言葉を失ったまま、ただ呆然と時間が過ぎていくのを見送るだけだった。
その日、僕は由之と共に令佳先輩のマンションに行き、ナターシャさんの話を聞いた。とても長い話だった。そしてようやく、僕らは今回の令佳先輩失踪事件の全貌を把握したのだ。
それは正直言って、僕らの予想を遥かに越えていた。先輩が姿を消した裏には、あまりにも込み入った事情があったのだ。
結論から言えば、令佳先輩はリアルで女神だった。いや、正確には、女神になろうとしていた。
全てのきっかけは、ナターシャさんこと旧姓ナタリア・ミハイロヴァが日本に渡ってきたことだった。
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彼女が来日したのは、1958年。彼女が12歳になったばかりの頃だった。しかし、当時はまだロシアはソヴィエト連邦で、日本の仮想敵国だった。それなのに彼女はなぜわざわざ日本にやってきたのか。
実は彼女は、ロシア正教会から分派した新興宗教団体「ノヴィ・スヴェト」(
そこで、次期教祖となる彼女はその難を逃れるべく、両親と別れ、信者たちの協力の元に在日ロシア人の親戚を頼って、ほとんど亡命のような形で日本にやってきた。その直後に彼女の両親はソ連当局によって投獄され、二度と彼女と会うことはなかった。
彼女は10年後に日本人男性――令佳先輩の祖父――と結婚し、日本の永住権を得ることとなった。さらに結婚して2年後、一人息子である
そして、ノヴィ・スヴェトだが、1991年のソ連崩壊に伴い宗教に対する弾圧もなくなったため、宗教団体としての活動を再開した。だが、もう既にその時点で彼女は日本に帰化しており、日本の家族を捨てて故国に戻る気はなかった。もはや彼女は身も心も日本人になってしまっていたのだ。だから彼女が教祖になることはなかった。
しかし、ノヴィ・スヴェトは聖母マリアの由来で代々教祖は女性と決められているらしい。彼女が後を継がなかったため、従妹に当たる彼女の伯父の娘のオクサナ・ミハイロヴァが後を継いで教祖となったのだそうだ。そしてナターシャさんはノヴィ・スヴェトとは全く無関係に人生を送ることになった。
1997年に亜礼久は国立大学の大学院博士課程を修了、民間企業の研究所に就職し、当時からの恋人であった英恵――令佳先輩の母親――と結婚。1年後に二人の間に長男の
ところが。
今から三年前、英恵が亡くなり、妻をこよなく愛していた亜礼久はとてつもなく落ち込んだらしい。憔悴しきった彼は、救いをキリスト教系の新興宗教「ヨシュアの福音」に求めた。礼拝に常に参加し、教祖、
かくして彼は「ヨシュアの福音」の敬虔な信者となった。しかし、そのために家庭をないがしろにすることも多かったという。健人はそんな父親に反発したのか、大学に進学してからは家族と完全に連絡を絶っているようだ。
亜礼久の信仰心は日々深まるばかりだった。そしてある日、彼に「神」が語りかけてくる神秘体験があったという。喜び勇んで彼はそれを教祖の中本に報告した。
しかし。
中本の反応はあまりに冷たかった。「お前に語りかけているのは悪霊か邪神だ」と、にべもなく言い捨てられた。自分の尊敬する教祖にそのような態度を取られて、亜礼久はかなりショックだったらしい。
それがきっかけで彼は「ヨシュアの福音」を、幾分冷めた目で見るようになった。そして分かったのは……
結局、信者たちのコミュニティも、俗世間の人間社会と何も変わらない、ということだった。見栄を張る人間がいたり、他の信者に対して陰口をきいたりマウンティングしたりする人間もいる。
そして、俗世間から隔絶した存在であるはずの中本が、最も煩悩にまみれた人間だった。
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