第16話 晩夏、長い夜
夏の盛りも過ぎ,そろそろ秋の気配が近づいて来た頃,封印の施術は行われることとなった。大叔母様の提示した期限の丁度一日前だった。
以前,姉上に施術した術士を呼んだ。施術は三日三晩行われる。刻印を新しくする事自体は短時間で済むらしいが,その定着に時間が掛かるという。定着を待つ間,姉上もミリエル嬢も,苦痛のために休むことも
客室に設備を持ち込んで施術室とした。その隣の部屋は控室とした。控室に我々家族が集まった。アン,ジーン,マリウス,アンジェリカ,そして,大叔母様も居る。
大叔母様は,施術が終わるまでの間はこちらの屋敷に泊まり込むらしい。四六時中,大叔母様の眼光に曝されることとなった使用人たちは気の毒だが,大叔母様は大叔母様なりに姉上のことを心配しているのだと知れて,私は意外に思った。
父上も様子を見に戻ってくるという。ずっと屋敷に居ることは難しいものの,タイミングを見つけて戻ってくるそうだ。流石に,長女の一大事とあっては,家長としても経過を知りたいのだろう。
施術が始まる時間に丁度父上殿が帰ってきた。彼は我々子供らを一瞥して姿を確かめると,すぐに大叔母様に目礼し,母上殿の隣に座った。
刻印を新しくする施術が始まった。
施術は凄惨なものだった。直接見た訳ではない。しかし,隣室に居る我々には,今にも暴れそうな魔力の奔流はよく感じられたし,姉上の苦痛に
アンとジーンとは怯えたようにずっと私にひっついていた。母上殿は青い顔をして,父上に寄り添って震えていた。兄上は表情こそ変えなかったが,何か耐え難いような様子で,両の手をぎゅっと握りしめていた。私もじっとしていられない気分だった。
その中で,唯一平然としていたのは,大叔母様であった。彼女は,背筋をピンと伸ばして,両目を閉じてじっとしていた。隣室から金切り声が聞こえてきても,他の誰もが動揺を隠せないとうのに,彼女だけは眉一つ動かさない。その顔からは何一つ感情を読み取ることが叶わない。彼女は何を思って,この場に座しているのだろうか。
刻印は一時間程度で終わった。子供たちと母上殿は安堵したような様子だった。父上は大叔母様と何やら話をしている。私は姉上たちの様子が気がかりだったので,施術室に向かうことにした。
「ルシア」
部屋を出る直前,私は父上に呼び止められた。
私は足を止めて振り返った。
「父上,お久しぶりです」
頭を下げる私にツカツカと歩み寄ってきたのが,我が父にしてブラドスキー家当主ヴィクトルであった。背丈170cm程度とこの国の成人男性の標準的な身長。体つきは筋肉質でガッシリとしている。年は三十五の年盛り。角ばった顔に口ひげを生やし,兄上や私と同じ色の金髪を後ろに流している。堂々たる貴族であった。
「ああ,久しいな。見ない間に大きくなった。お前はいくつになるのだったかな」
「九つになります」
「そうか。時の過ぎるのは速いものだ。……さて,呼び止めたのは,ロゼッタのことだ。今回のこと,お前の尽力による所が大きいと聞いている。よくやった」
「私は何も。ミリエル先生のおかげです」
「もちろん,あの娘の貢献もある。だから後ほど褒美を取らせる。だが,お前の功績も大きいぞ。胸を張れルシア。お前は我が一族に対して多大な貢献をした」
貢献という言葉が耳に障った。おそらく,父上は,姉上の対人問題に解決の糸口が見えたことを評価している。それは,ゆくゆくは彼女を社交界へ送り込める算段がついたという意味で,だろう。それはそうだ。当代随一の魔力持ちである姉上を手札として,ブラドスキーは今まで入り込めなかった魔術師の派閥の中で新たな地位を築ける。魔術師の家系にとって,姉上の魔力は垂涎の的なのだ。
しかし,それではまるで,姉上は道具のようではないか。私とミリエル嬢は道具を使える状態に仕上げた訳じゃない。
「不満そうだな」
私の内心を見抜いて,父上はからかうように言った。
「いえ,そんなことは」
「まったく,お前も侯爵家の一員なのだ。貴族の考え方というものは,こういうことだ。前々から報告を受けていたが,その甘さは今も変わらんようだな」
「父上。あまり苛めてやらないで下さい」
そこで間に入ってきたのは兄上だった。
「その甘さがルシアの良い所でもあります。彼はそのままで良いのです。それに,貴族としての責務は私が引き受けます」
「マリウス,お前も大概,弟に甘いな。まあ,良い。兄弟仲良くすることだ。それがこの家の安定に繋がる。さて,呼び止めて済まなかったな」
私は二人に頭を下げて,急いでこの場を去ろうとした。兄上が気遣わしげな目線を送ってきた。私はそれにいい加減に会釈して出口へ向かった。その後少し後悔した。兄上は悪くないのだ。
私は控室を出て隣室に向かった。ちょうど使用人が出て来た。屋敷で長く働いており,姉上の魔力にもある程度耐性のあるメイドである。汗に濡れた彼女たちの服を着替えさせ終わったということである。私は彼女に礼を言って,病室に向かった。
姉上とミリエル嬢は二つのベットを横付けにして二人それぞれに寝そべって片手を繋いでいる。肌を触れ合うことで,効率的に同調出来るのだという。
「ルシア様」
額に脂汗をにじませて,ミリエル嬢は無理に笑った。憔悴した様子だった。姉上の方は今は術士の処方した薬で眠っている。その表情は安らかとは言い難い。魔力もあまり安定しない。安定と不安定とを繰り返しながら,どうにか均衡を保っている。
「先生,ご無理をなさらず。水と手拭いを持ってきました。これで額を冷やしてください」
私は使用人に水桶と二つ手拭いを用意させて持ってきた。手拭いを水に浸して絞り,彼女たちの額を冷やしてやった。
「ありがとうございます」
「……苦しいですか」
「大丈夫です,このくらいへっちゃらです。お嬢様の痛みに比べたら」
そう言って,ミリエル嬢は横を向いた。手拭いがぽとりと落ちる。視線の先には苦悶の表情を浮かべる姉上がある。その顔を見て,ミリエル嬢は,自身も相当な苦痛に苛まれているというのに,慈愛のこもった笑みを浮かべるのだ。
正面を向き直ったミリエル嬢の額に再び手拭いを載せた。ミリエル嬢はどこか弱々しい幼気な笑みを浮かべた。私は,彼女を勇気づけるように,その頭をなでた。目を細めて嬉しがる彼女は,少し安心したのか,あるいは,魔力の状態が安定したのか,浅い眠りについた。
その後,ジーンやアン,母上殿も様子を見に来たが,落ち着いたとはいえ不安定な魔力のためにしばらくの間しか居ることができなかった。私は何度か桶の水を変えて貰いながら看病を続けた。
名前を呼ばれた気がしてはっと気がついた。少しウトウトしていたらしい。
「ルシア」
姉上がかすれた弱々しい声で呼んだ。薬が切れて目が覚めてしまったようだ。
私は水差しから水を汲んで,ゆっくりと彼女に飲まそうとした。しかし,上体を起こすのも辛いらしく,私は彼女の背に手をやってゆっくりと起こした。姉上の体は汗ばんでひどく熱を持っていた。
水を飲むにも痛みが走るらしい。ゆっくりと,かなり時間をかけて一杯を飲み干した。
今は夕方頃である。長い苦痛に耐えねばならない最初の夜を迎えようとしている。薬はもはや使えない。連続して服用すると中毒となってしまうそうだ。今は痛みを和らげる薬を飲んでいるものの,無いよりはマシ程度の効果らしい。
「う,うう」
唸り声を挙げたのはミリエル嬢だった。彼女も目が覚めたらしい。
私はミリエル嬢にも同じようにして水を飲ました。
長い夜が始まる。
苦痛に目が冴え,熱に浮かされ幻覚に脅かされる,そんな夜が始まる。しかし,彼女たちだけの夜ではない。一晩だろうと二晩だろうと,私は彼女たちに付き添うつもりだった。
日が暮れてきた。私は使用人を呼んでランプを点けて貰った。
仄かな明かりが,汗ばんだ彼女たちの頬を照らす。私は新しく水で絞った手拭いで汗を拭ってやった。苦しそうな顔が,どこか和らいだ気がした。
少し室内に湿気が篭っている気がした。二人の人間が大汗をかくためだろう。私は窓を開けて空気を入れ替えることにした。常時そうしないのは,夜風で彼女たちの体が冷えないようにするためだ。
外にはもう月が昇っていた。私は窓枠に腰掛けて月を眺めた。夜空を眺めながら私は祈った。今は祈ることしか出来ない。彼女たちの無事を願って,祈りを聞き届けてくれる相手も知らず,ただひたすらに,祈るのみだった。
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