第58話 バートン公爵家の「敵」
ウィルソン伯爵家の敷地から出て、さてまずは家に帰ろうと思ったのだが、何やら正面玄関のあたりがざわついている。
クリストファーを降ろして、塀に隠れながら一緒に音のする方を覗き込んだ。
「この中に、僕の弟がいるかもしれないのです」
「次期公爵様といえど、証拠もなく他人を疑うことは感心しませんな。人望の公爵が聞いて呆れる」
「非礼は承知です。ですが他に弟の行き先に心当たりがないのです。ご存知のことを教えてくださいませんか」
「ですから、知らないと言っているでしょう」
ざわめきの中心にいたのは、お兄様と髭の男だった。身なりからして、髭の男はこのウィルソン家の主人だ。
クリストファーの祖父にしては、年が若すぎる。クリストファーの母が再婚したという弟の方だろう。
クリストファーから見れば、血縁上は叔父にあたる。
どちらも従者を連れた状態で向き合っているし、周りには騒ぎを聞きつけたのか警邏の騎士も何人か集まっている。なかなかの大所帯だ。
ざわめきの最中にいるお兄様は、さっきよりもやつれて見えるくらい疲れてげっそりとしている。その瞳はひどく不安げで、そして。
とても悲しそうな顔をしていた。
ぎゅっと胸の前でもちもちの手を握り締め、お兄様はつらそうに、切り出した。
「ウィルソン伯爵。貴方は近頃、お金に困っているようですね」
「何です、急に」
「何人もの貴族から、証言を得ています。貴方に融資を持ち掛けられたと」
「それが何か? 新しい事業を始めるために、融資を持ち掛けただけのことです。金の無心をしたような言い方はおやめください」
「東国からの織物の貿易量が激減していると聞きました。貴方の領地の主な事業は貿易業でしたね。それも、東国と長く取引をして、利益を得ていたはずだ」
ウィルソン伯爵は堂々としたものだった。だが、眉が僅かにぴくりと動いた。
口を閉ざした伯爵に、お兄様はさらに言葉を重ねる。その様は、まるで説得を試みているかのようだった。
「銀行からも、知り合いからも多額の借金をしていますね。このままでは、領地の維持すら危ういほどに」
「……仮にそうだとしても、それが今日のこの礼を失した訪問に何の関係があります? 我が伯爵家の事情とそちらのお探しの弟君が関係しているという、証拠でもあるのですか?」
「そうですね。僕が知っているのは情報だけです。貴方が関わっているかもしれないという、可能性を示すだけの情報です。決定的な証拠はありません」
ウィルソン伯爵の反論を、お兄様は肯定した。
確かに、お兄様が並べたのはただの情報だ。クリストファーの件と直接の関係が示せるものではない。
お兄様だけでなく、それなりに多くの貴族が知っている程度の情報だ。
いくらだって裏も取れる程度の、わざわざ見せびらかすことでもないが、知られても仕方ない程度の情報だ。
だが、これを聞いた周りの者が、十分に想像を巡らせることのできる情報でもある。
次期人望の公爵であることを差し引いても、風向きは明らかにお兄様に向いていた。それは警邏の騎士たちの表情を見れば、それがよくわかった。
私は得心する。なるほど、金目当てか。考え得る限り、一番短絡的で衝動的な動機だ。
どうやらこのお髭の伯爵、悪役というのも烏滸がましい、小悪党のようである。
「僕も貴方を疑いたくないのです。いや、僕は誰も疑いたくない。信じたいのです。だからどうか、僕が貴方を信じているうちに、正しい決断をしてください」
お兄様が真摯な瞳で、ウィルソン伯爵を見つめる。
話しているのがお兄様でなければ、何をぬるいことをと笑い飛ばしたくなるくらい、甘いことを言っている。
しかし、お兄様が口にするならば、それは違う意味を持つ。
次期人望の公爵であるお兄様が、心から真剣にこの発言をすることに、意味がある。
これは問いかけだ。信用を裏切るつもりなのかという、投げかけだ。
人望の公爵であっても、貴族は貴族だ。いざという時にはもちろん、持てる限りの強いカードを切る。
お兄様だって駆け引きぐらいするのである。
ただ、あんなにもつらそうに悲しそうにしているところを見ると、やはり向いていないと言わざるを得ないが。
「もし僕の大事な弟に何かあったなら……我々バートン家は貴方たちを『敵』だと認識せねばなりません」
ぴくりと、今度は分かりやすく、ウィルソン伯爵の眉が動いた。
人望の公爵たるバートン公爵家の「敵」となることがどういうことか。この国で、知らない貴族はないという。
お兄様はそれを分かっていて、あえてこの言葉を使ったのだ。その意味が分からぬ伯爵ではないだろう。
「もう一度伺います。僕の弟について、ご存知のことを教えてくださいませんか」
一瞬、場に沈黙が流れた。
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