第4章ㅤ暴走する狐

 凶暴化した狐をなんとか抑えようとする、二匹の狐。

 凶暴化した狐の大きさは、普通の約10倍。到底かなうはずもない。

 それを見ていた二匹の虎。


「これは俺らが何とかするしかないか」

「ああ、そうだな」


 現実とかけ離す結界を張られた

 一つの神社。

 狂ってしまった狐、一匹。

 正常な狐、二匹。

 金色の虎、二匹。

 合計、五匹の物語……のはずだった。

 これは里桜たちが来る前の

 二日前の出来事。






 天邪鬼から貰った情報とルカの言葉を当てに神社へと向かうことになった。

 いつものように担がれていけば速くその場に着くんだが、今回ばかりは少し遠くの所に行くため普通に行くことになった。


 学校が終わった後すぐ自宅に戻り電車に乗る。

 自然に二人の間に座る形となり、特に話すこともなく電車に揺られる。

 この二人は人間に見えないため無闇に話しかけることができない。

 乗客が少なくてもそうしたほうがいいとレオに言われたんだ、変に思われるからって。

 天邪鬼の言っていたのは狐の出る神社。

 その狐が氷力石を狙っているかもしれないと聞いた。


 だからハウラについて何か分かるかもと。

 階段を登り終え、見えたのは特に変わりない神社。

 赤い鳥居をくぐり先に進む。

 どこが怪しいというんだろうか。

 ルカがそう言っていたみたいだけど、どこも怪しい所なんてない。

 ぐんぐんと前へ歩んでいく二人の背中を見ながら足早についていく。


「ここに狐がいるのかな」


 独り言で言ったつもりだったんだが、なんとなくレオを見る。

 なんでも答えてくれるレオはいつものように答えてはくれなかった。

 前を見続けている表情は穏やかだが真剣さがどこかに隠れているように見える。

 これ以上訊いたら悪いような気がして質問するのをやめた。


「おーっと誰かのお出ましだぜ、レノ」

「はあ……そうみたいだ」


 どこからともなく聞こえてきた声。

 立ち止まると、数歩前を歩いていたルカとレオも足を止めた。

 聞こえてくる誰かの会話。


「どうする?」

「どうするって、僕に訊く事じゃないだろ」


 どうやら二人いるようだ。

 一人はおちゃらけていて、何が楽しいのか嬉しそうに言葉を弾ませている。

 レノと呼ばれた者は何かに対して関心がないんだと会話から読み取れた。


「前の二人、普通じゃないみたいだ」

「ああ、すぐに分かった」

「だからそれの確認だ、確認」


『前の二人』とは、ルカとレオの事を言っているように思える。


「……喧嘩は駄目だからな、ルーファス」

「はいはい、分かってますよっと」


 相手の機嫌の良さに危険を感じたのか、念を押すよう訝しげに言われるが気にした様子もなく答える者。

 軽い返事……。

 なんて思っていたら上から来た者が地へと着地した。

 二匹の生き物。


(狐、じゃない……?)


 まず最初に思ったのがそれだった。

 天邪鬼が言っていたものと違う者が現れたんだ。

 それもルカたちと同じように喋れる動物が。

 目の前に現れた者は虎。それも二匹。

 天邪鬼よりも恐く、重い威圧感を感じる。たくましい体つき。本物の虎だ。

 普通にここに生息していたら誰もが驚くだろう。

 騒ぎになっていないとなると、この二匹の虎も妖怪ってことになるんだ。


「あんたらこんな所に揃って何の用だ」

「氷力石について何か知っているか?」


 軽快に話しかけてきた相手に対して、ルカがいつも通り淡々と訊く。

 私が天邪鬼から聞いたのは狐が氷力石を狙っていることだった。

 彼らは狐じゃないのに。

 ルカには何か考えがあるんだろうか。


「氷力石……? 知らねーな、そんなもん」


 今、何か変な間があった。

 こちらの反応を伺うような物言いと、射抜くような眼差し。

 微妙な空気が漂う。


「何か隠しているように見えるけど、これは僕の気のせいかな?」

「さあ、それはどうかな」


 レオも何かを感じ取ったのか、軽く問い詰めるように訊くが相手は動じない。


「僕が説明する」


 黙っていたもう一匹の虎が喋り出した。


「結界を張っている理由は無闇に妖怪を近づけないためだ」

「どうして動物のままの姿なんだ? お前らほどの妖力なら化けられるはずだが」


 化けられる……

 やっぱり妖怪なんだ。

 この二匹の虎もルカたちのように人間の姿になれる。

 ルカの質問に答えている真面目そうな虎は、金色の毛並み。

 もう片方の不良っぽい虎も金色。

 口が悪く、初対面の人にも気安く接するタイプだ。

 人間の姿になったらどんな容姿をしているんだろう。


「生憎、こっちの姿のほうが楽なもんでねえ」

「ルーファス、口を挟むな」

「はいはいっと」

「もう疑問点はないか?」


 仲のいいのか悪いのか分からない二匹の話を聞きながら、何か嫌な空気を感じていた。

 二匹の後ろに何かがいる。

 そう感じ取ったんだ。

 というより見えていた。

 一匹の苦しんでいる狐と、その横で労わっている二匹の狐。

 なぜかそういう部屋の中の景色が見える。


「狐ーー狐がいる」


 どうしてこんなものが見えてしまうんだろう。

 天邪鬼のときもそうだった。

 でもあの時見えたのは天邪鬼の『記憶』だったはず。

 何かを透視する力なんて私にはない。

 やっぱりこれは氷力石の力なんだ。


「どこだ?」


 久しぶりのルカの問いかけに、呆然と手を伸ばして指を指す。

 二匹の虎の後ろにある扉に。


「あそこ」

「おっと、ここを通すわけにはいかねえんだ」


 私の指差したところへ行こうとしたルカの前に立ちはだかる虎。


「退け」

「無理だ、と言ったら?」


 挑発的なことを言う。


「挑発するようなことを言うな」

「だっておもしれえんだもんよ、仕方ねーだろ?」

「はあー、これだから全く」


 いつものことなのか溜め息をつき、諦めた様子の黄虎。


「退かすまでだ」

「ルカ……」


 無理だと言ったら退かすまで。

 剣に手をかけるルカを止めようとするが、もう抜いてしまった。

 どのくらいその剣で自分と同じ妖怪を消し去ってきたのだろう。

 邪魔者となれば消し去る。

 そんなルカの思考はどうやって作られてしまったんだろう。

 過去が今の自分を作る。

 ルカはどんな過去を持っているの?

 そんなことを思っていれば凄まじい音が耳に届く。


「ありゃりゃ、そんな暇はなくなっちまったみたいだな。残念」

「また凶暴化か」


 二匹の虎が後ろを見る。

 それにつられ同じように見てみれば神社は破壊されていた。

 大きな狐によって。

 巨大化した狐。

 さっきまでは普通の狐だったはず。

 建物の中にいて苦しんでいた狐は今、何倍もの大きさになって私たちの前に現れた。

 狐にとって大事だろう神社さえも壊して。

 威嚇するように鳴き、毛を逆立たせる。

 私を映す赤い瞳からは怒りの感情しか伝わってこない。

 私が何かしてしまったんだろうか。

 隣にはルカやレオがいるのになぜか私だけを見て威嚇している。

 でも恐ろしいという感情はなかった。

 ーー苦しい

 そうこの狐は叫んでいる。

 一気に距離を縮められ、鋭い爪が私目掛けて放たれる。

 でもそれは当たらなかった。

 宙に浮いている感覚。


「レオ、待って」

「ルカは大丈夫だから心配しないで」

「違う、そうじゃなくて」


 レオが助けてくれなかったら私は今頃どうなっていたんだろう。


「あの狐の側にいた二匹の狐。あのままあの場所にいたら危ないよ。だから……」


 二匹の狐は逃げることなく巨大化した狐の側にいた。

 大切な存在なのだろう。

 巨大化してしまった狐は正気がないように見えた。

 その状態の者に近づけば、いくら親しい関係でも認識してくれない。

 傷つけられてしまうだろう。

 だから助けたい。

 そんな言葉を言えずに木の下へ降ろされた。


「その狐は僕が助ける。だからリオちゃんはここから動かないで」


 分かったとも言えず、レオの背中を見届けた。

 ……やっぱり何もできない。

 私、足手まといなんだ。

 レオたちに頼りっぱなしで、自分の身さえ自分で守れない。

 私、ちっぽけな人間だ。

 そうやって自分の愚かさを思い知っていく。

 凶暴化した狐は、その場にいたルカと二匹の虎によってなんとか落ち着かせたらしい。


「助けて下さって本当にありがとうございます」


 丁寧に正座をしている二匹の狐が更に丁寧に頭を下げる。


「我々は天狐という妖怪でありまして、わたしはギン」

「わたくしはコンと言うものです」


 息の合った自己紹介。

 見分けがつかない容姿。

 ただ違うところは一人称。

 ギンは『わたし』

 コンは『わたくし』

 見分けがつくところはこれしかない。


「ギンとコンか。お主らの頼みとはなんじゃ?」


 ギンとコンを助けてくれたレオにそのままおじいの神社へと連れてきてもらったんだ。

 そうしたら頼みがあると言ってきた。


「実はクウコ様が三日前に氷力石というものを手に入れてしまい、それから凶暴化するようになってしまったんです」


 氷力石……。

 やっぱり天邪鬼の言っていたことは正しかった。

 でもこんな当たり方するなんて。


「そうか、氷力石か。やはり一つだけじゃなかったようじゃな」


 おじい、何か知っているんだ。


「封印するしかないかのう」


 顎に手を当て呟く。

 まるでそれしか方法がないみたいだ。


「それは……っ」

「困ります!」


 血相を変えておじいに頼み込むように前のめりになる。


「クウコ様は3000年以上生きている身。その体を使って神社に来る者、人の悪い心を浄化してきたのです。だから今回のような状況になってしまったのかと……。ですから、封印は……」


 声が小さくなっていき、ついには俯いてしまったギン。


「わたくしたちはまだ1000年くらいしか生きておらず、あの神社を託されるほどの力はないのです。

 クウコ様を封印するというのであれば、わたくしたちはあなたたちをっーー」


 1000年くらい“しか”なんだ。

 妖怪はそんなにも長生きできる生き物だなんて初めて知った。

 人間にとっては100歳以下で長生きなのに。

 妖怪にとっては人間なんてすぐ死んでしまう生き物なんだ。


「わかったわかった、封印などせんからそう気高くなるな」


 コンの勢いに圧倒されながらも、まあまあと両手であやす。

 おじい、大変そう。


『汚い心を持つ人間が悪い、クウコ様は悪くない……』


 頭に流れこんできた声。

 これはコンの心の声?


「封印するのが駄目なら、何か特別なものをしかけるしかないな」

「何するの?」

「陣を書く。お前たち、手を貸してくれるか?」


 私が訊いたのに、なぜかその答えには私が入っていない。

 わざとなのかおじいの視界に私が入っていないんだ。

 レオが頷き、ルカは当たり前だという雰囲気を醸し出す。


「そこの者も手助けしてくれるか?」


 おじいが見る先には二匹の虎。


「いーぜ、おもしろそうだし」

「ルーファス、これはおふざけじゃ……」

「わーってるって、そうかりかりすんな」


 一匹は退屈そうに顎を手に乗せてこちらを見ていただけだったのに物凄い変わりよう。

 もう一匹は変わらず姿勢よくおすわりをしたまま隣にいる虎を見下ろしている。

 話がスムーズに進む中、私の中には劣等感が生まれていた。


「私には、やる事ないの?」

「里桜、お前は何のためにルカたちに守ってもらっていると思っているんだ。ただ自分の身だけを案じていればそれでいい」

「でも……」


 私は……。

 みんなが協力して、同じことをやるのに私だけ邪魔者扱い。

 私だけが安全な状況にされる。

 そんなの嫌だよ。


「そこのお姫様、納得いってねえようだけど良いのかよじじい」


 初対面にじじいって……

 それに私、お姫様?


「納得しておらんのか?」

「うん。みんなが協力してやることなのに、私だけやらないなんてなんかはぶかれているみたいで……」


 ううん、そんな思いじゃない。


「私もやりたい。仲間外れにされたくないとかそんな気持ちじゃなくて、あの狐を助けたい。苦しんでいる者をほってはおけないよ」


 勇気なく下げていた顔を上げて言った。


「はあー、お前は昔から変わってないのう。だからわしが見守っておらんといけないんじゃ」


 ぶつくさと言うおじいはほおっておこう。

 こうなると説教に行き着くのは知っている。

 今は説教なんてされる場合じゃないし、おじいだってする場合じゃない。


「私に何かやれる事はある? おじい」

「お前にやれることか……」


 悩むのはいいけど「ない」は無しだよ、おじい。


「あの狐はすぐにこの人間を狙った」

「ということは氷力石の気配を察知して里桜を狙ったというわけか」


 隣に座っていたルカが話に入ってきたことに驚いた。

 何を目的として発言しているのか分からないけど、おじいの言ってることも分からないけど。


「こいつを囮にすればいい」


 おとり……?

 おとりって、あの狐を誘い出すために私を使うってこと?

 なんだか不自然な沈黙が襲う。


「それは雄介の頼みに反してるよ」


 レオの言葉が妖怪のたくさんいる静かな部屋に響き、またもや静まる。

 雄介って、もしかしておじいのことを言っているのかな。

 初めておじいの名前を聞いた。

 腕を組むおじい。


「里桜、お前はどうなんだ。危険な役割だがそれでもやりたいのか?」


 おじいが冷たく言い放つ。


「ルカたちは陣の周りに集まってもらうためにお前を守ってやることはできない。それでもやるか?」


 おじい、私を心配してわざときつく言ってくれてるんだね。

 だけど私はやるよ。

 ごめんね、心配ばかりさせて。


「私にはそれしかできないから」


 おじいとみんなで作戦を決め、その決行は夜となった。

 そして今は、私の前にいる二匹の虎……ではなく、二人の青年が自己紹介をしてくれるところ。


「僕はレノ、でこいつはルーファス」

「こいつ呼ばわりはねーだろ」

「この通り、軽い奴だ」


 レノは虎の時と同じ毛色で金髪。

 お面をしていて顔はよく見えない。

 ルーファスも金髪で、毛先が上に向いている。癖のある髪型。

 二人ともルカやレオのような武器を持っていない。

 確か動物のままの姿のほうが楽だと言っていたから、あまりならない姿なのだろう。


「私は里桜です、立花里桜。えっと、おじいの孫? のようなもので……」

「ああ、あのおっさんのことか」

「ルーファス。口を慎め」


 おじいのことをおっさんと言う妖怪だけど、なんだか悪い妖怪ではないみたい。


「おっさんをおっさんと言って何が悪い」

「じじい呼ばわりしたと思ったら次はおっさんか、少しくらい口を直そうとしないのか」

「そういうお前だって言ってるだろ。じじいやらおっさんやら」

「それは君が悪いんだろ」

「俺のせいにされるとは心外だな」

「それは大げさだ」


 緊張感ないなあ……。

 目の前で繰り広げられる痴話喧嘩……ではなく、じじいおっさん問題に口を挟めず苦笑いするしかなかった。


「あ、そうだ」


 急に声を出した私に反応して、ルーファスとレノの二人がこちらを向く。


「ルカたちがまだ自己紹介してなかったよね」


 後ろのほうにいるルカとレオ。

 そんな二人を見てルーファスは横になった。

 興味なさそうに肘を立て、二人のほうへ視線を向ける。


「ああ、野郎共か。別にどーでもいいけど」

「ルーファス」


 レノはまた、口を慎め、と言うかのように威圧的に彼の名を発する。

 だが本人は全く気にしてない様子。

 えーっと、これは自己紹介しなくてもいいってことなのかな。

 いや、しなくちゃ駄目だよね。

 協力して狐を正常に戻すーー

 そんな仲になったんだから。


「こっちがルカ」

「見ての通りの無愛想だな」


 口を挟むルーファス。

 ……当たってる。


「こっちはレオ」

「いろんな意味で裏がありそうだ」


 柔らかい表情をしていて怪しいところが一つもないレオに裏があるなんて、よく最初からそんなことが言えるな。

 確かにレオは分からない時があるんだ。

 いつも笑顔で、何を考えているんだろうって思うことがたまにある。


 微かな違和感はすぐに消えてしまうもので、あまり詮索はしていない。

 誰だって裏はあるものだよね。

 レオに限ってそんなものはないと思ってしまっているけど。


「君たちはどうしてあんな所にいたのかな」


 裏がありそうだと言われたレオは気にした様子もなく問う。


「ただ単に出くわしただけだ」

「こいつの言う通り、たまたまあの狐が暴走しているところに出くわした。ほおっておいたら森やいろんなものが壊される。そう思ってあの二匹の狐に手を貸したんだ。結界を張っておいたのもそれが関係する」


 結界とかなんだかよく分からない話。


「まあ難しいことは考えず、あんたたちに会ったのは何かの縁だ。ま、よろしくしますよ、と」


 ぼんっと煙がルーファスを包みこむ。


「やっぱこっちの姿のほうが楽だわ」


 また私の前に虎が現れた。

 私の役割はおとり。

 陣が書かれた場所まで狐をおびき出す。

 おじいの予想だと、私の目にある氷力石が狐のものと共鳴して身体が大きくなり暴走してしまうという。

 だから囮という役目に抜擢された。

 あの神社へ行くと破損している建物の中で狐が苦しみはじめ、すぐに巨大化する。


「こっち」


 わざと挑発するようなことを言い、森の中を駆け出す。

 陣の書かれた場所まで行けば私の役目は終わり。

 みんなは陣を囲む役割があるため、自分の身は自分で守らなければ本当に怪我どころじゃ済まされなくなる。


「なっ……」


 こんなところで躓くなんて。

 痛さなんか感じる暇もなく立つ。


「頑張ってるみたいだな。人間のくせして妖怪の問題に首突っ込んで、必死になって、とんだお姫様だ」


 木の上から現れたのは一匹の虎。


「ルーファス、どうして……」

「話はあとだ。俺の背中に乗れ」

「え、乗るって」

「もう来てるぞ」


 レノの視線をたどり後ろを見れば、狂ったように迫ってきている狐が側まで来ていた。

 時々苦しそうに止まる。

 まだ重い足取り。


「わ、分かった」


 焦りで訳が分からないままルーファスの言うことを聞くことにした。

 ずっしりとした大きな背中にまたがる。

 虎の姿をしたルーファスがすぐに駆け出した。


 ーーバンッ


 森の中から突破した。

 後ろからは物凄い音。

 狐がすぐ後ろまで来ていたんだろう。


 円を描いて木が生えていない場所。

 そこに陣と呼ばれる星の形をした大きな円となったものが地に書かれている。

 人が入るくらいの丸い円が星の角にそれぞれ五つ書かれており、そこにはルカとレオ。レノや二匹の狐、コンとギンが立っていた。


 陣の中に身体が大きくなってしまった狐、クウコが入る。

 おじいは手を合わせ、何かを念じ始めた。

 光る陣。

 苦しむ狐。

 何もできずに見ていることしかできない。


 黒い影のようなものが狐を取り囲む。

 それは自身からでている悪いもの。

 それはいつまで続いたか。

 狐の甲高い声が鳴き止み、静寂が包み込む。

 陣の中には先程とは比べものにならないほどの小さな狐が横たわっていた。

 コンとギンの大きさのちょうど2倍と言ったところだ。


「やった……?」


 誰も何も言わず動かない。

 奇妙な静寂が続く。

 そのため、意味のない不安が胸に蟠る。

 これで良かったの?


「クウコ様!」


 駆け寄る二匹の狐。

 死んでしまったわけでないよね?


「クウコ様! クウコ様!」


 おじいを見るが、真剣な表情をしたまま何も言わない。

 何かがおかしい。


「駄目……か」


 だめ?

 なにが、だめなの?


「ねえ、ルカ」


 近くにいるルカを呼ぶ。

 隣にルーファスがいるのに、なぜかルカを頼りにした。

 重たい沈黙の中、二匹の狐の


「クウコ様」


と呼ぶ声だけがこの場に響く。

 殺しちゃったの?

 誰も目を合わそうとしない。

 え……なにこれ。


「氷力石があの狐を蝕んでおった。氷力石さえ狐の体内から抜ければなんとかなると思うんだが」


「どうすればいいの?」


 やっと口を開いてくれたおじいに訊く。


「こればっかりは」


 それってつまりクウコは亡くなってしまったってこと?

 でもまだ体は残ってるよ。

 ルカが妖怪の体を引き裂いた時、妖怪の体は光となって消えた。

 ということは、体が消えるまで生きているってことだよね。


 だったら何か手段はないの?

 助ける手段は。

 キラッと何かが光った。

 もしかしてクウコが……。

 光となって消えてしまう。


 そう思った。

 クウコから光が離れていく。

 それは宙に浮き、輝きを保ったまま浮き続ける。

 綺麗……。

 見とれるほどの輝かしい光。

 ところがそれは刃となってこちらに向かってきた。


「っ……」


 小さな粒。

 井戸の中を覗いたときにあったものと同じ。氷力石だ。

 それは目に入った。

 右目を手で押さえる。


「クウコ様!」

「クウコ様!」


 陣に囲われている三匹の狐。

 感激したような声で仲間の狐の名前を呼ぶ、二匹の狐。


「おまえたち……」


 良かったね、コン ギン。

 クウコは助かった。

 氷力石はクウコの体内から抜け、私の目に入ったんだ。


 一度入った右目に、また一つ。

 ズキズキとする痛み。

 それよりもクウコが助かったことに喜びを感じ、頬が緩む。

 本当に良かった。




 強力な力は時として災いを招く。

 それは狐が招いた災い。

 力を求めてしまい、氷力石を手にしてしまった空狐〈クウコ〉

 3000年もこの世に生き続け、人間の心をも浄化し続けていた。

 それはクウコ自身に積もっていきーー

 怒り、恨み、妬み、

 それらを自分の中へ閉じ込めた。許すことの大切さを知ってほしかったのだ。

 それを近くで見ていた天狐〈コンとギン〉はやめてほしかった。

 “そんなことしないで”

 そう言いたかったけどできなかった。

 クウコがやりたくてやっていたことだったから。止めるなんてことはできなかった。


『汚い心を持つ人間が悪い』


 天狐さえもそんな怒りや恨み、妬みになるものを持っていた。

 今でもそれに気づいていない。

 そんな感情を自分が持ってしまっているなんて、分かっていないのだ。

 怒り、恨み、妬み

 それは消えないものなのかもしれない。

 消えてはいけない感情の一部。







「リオ殿」

「は、はいっ」


 透き通った金髪。

 薄緑色に輝く瞳。

 人間の姿に化けたクウコは女性であった。

 ストレートな長い髪は腰まである。

 見とれてしまうほど優美な姿。


「お主のお陰でわらわは助かった。礼を言う」

「それは私なんかのおかげじゃなくて、みんなのお陰で……」


 私は何もしていない。

 結局、ルーファスに助けられたんだ。


「素直にわらわの言葉を受けとれ。謙遜なんてするものではない」


「……」


 本当に私は、お礼を言われるようなことはしていない。

 何もできなかった。


「どうやら、謙遜しているわけではないようだな」


 洞察力のいいクウコの言葉。

 俯いたまま、ぎゅっと拳を握る。


「私は、ただ見ているだけでした」


 クウコを陣の書いた場所まで誘い出すためにおとりにはなった。

 最終的にはシャルの背中に乗って自分の足を使わなかったんだ。

 私のおかげと言うなら、シャルのおかげと言うほうが合っている。


「リオ、聞け。わらわはおまえの声に助けられた、おまえの声が聴こえてこなかったら氷力石の力にわらわは負けていた」

「声なんて……」


 声なんて出していない。


「何かわらわを助ける方法はないか、そう強く考えていただろ? それが伝わってきたんだ」


 確かに何か助ける方法はないかって考えていた。けど……私なんかの想いより、コンとギンの想いのほうが強いはず。

 私の声が聞こえるなら、まず先にコンたちの声が伝わるのが自然。


「お前の目にある氷力石と、わらわの中にあった氷力石が共鳴したのであろうな」


 それなら納得がいく。氷力石のおかげで心を通わせることができたんだ、と。

 クウコの身体から黒い影のようなものがでていたとき、クウコの声が聞こえたんだ。


『苦しい』


 ギンとコンが言っていた通り、いろんな負がクウコの中で暴れながら収まっていた 。

 それが制御できなくなったのは氷力石せい。

 強大な力がクウコを苦しめた。

 でも……氷力石がクウコの身体から抜けるとともに、たくさんの負がクウコの中から抜けていったように見えたんだ。


「でももうわらわの身体には氷力石がない。だからおまえの考えていることが理解できん。

 何を思って何を考えているのか」


 私がルカあてに思っている事と同じだ。

 ルカが理解できない。

 だから知りたい。

 だけど知れない。

 何も話してくれないから。


「わらわの予想だとーーおまえは自分のことを低く見過ぎだ」


 意表を突かれた。

 自分の知らないコンプレックスを言い当てられたのか、鋭い矢で射抜かれ心にぽっかりと穴が空いたように何も考えられなくなる。


「それは恨みや妬みとは違う、もっと別の感情」


 私……そうなのかな。

 自分を低く見すぎてるのかな。

 何もできないなんて考えることが多くなって。

 それはルカたちが現れてから。


「自分を蔑んでどうする。お主は人間、わらわたちは妖怪。圧倒的な力の格差がある。それを分からず、わらわたちと比べるのはやめろ」


 ルカたちは妖怪で、私は人間。

 その間には大きな違いがある。

 現実離れした身体力。

 普通に傷つけ合う平気な心。

 平気じゃないのかもしれない。

 自分の身を守るためにやっているだけなのかもしれない。

 本当は心を痛めているんじゃないの……?


「妖怪と人間って、そう違わないんじゃないかと思います」

「何?」

「力では妖怪にかないませんけど……心は同じじゃないですか」


 そうだ。そうだよ。突っかかっていたことはこれなんだ。


「コンとギンはクウコさんを心配して、どうすればいいのか必死でした。それは大切なヒトだから、助けたかったんです」


 ギンは我を忘れてしまっているような発言をした。コンは心の中で人間を恨んでしまっていた。

 それほどクウコのことを大切に思っていたということ。これは人間にもあることなんだ。


「人間も同じ。コンたちの強い想いがあって自分も何かしたいって思った、これは妖怪も人間も『似ている』からなんだと思います」


 顔を上げれば、クウコの暖かい眼差し。


「おまえは感慨無量になることを言う奴だな。ーーでも妖怪と人間は違う。これは変えられない事実だ」


「それは……」


 暖かかった眼差しが、ピシャリと一瞬にして冷たいものとなった。

 妖怪と人間の間にある壁。

 クウコがそれを私に教えた。

 今の一瞬で。

 心さえも通じ合えないんだと

 言うかのように。


「とにかく助かった。わらわはこれで失礼する」


 立ち上がり、この部屋を後にしようとする。

 二匹の狐もクウコの足元に。


「待て、どこに行くんじゃ?」

「わらわの神社だが?」


 おじいの呼び止めに、クウコが振り向く。


「あそこはもう破損しておる。もう住める所ではないだろう」

「破損? お主何を言っておる、あの神社は壊れてなど……」


 そこではっとした顔になった。


「どうやら記憶にあるようじゃな」


 へなへなと崩れ落ちるクウコ。

 それを心配し駆け寄る二匹の狐。


「クウコ様!」

「クウコ様!」


 あの神社は、クウコが巨大化した時にほぼ破滅してしまった。

 それは意図的にではなく。


「わ……わらわは何を……。自分の神社を壊すなど、護り神であるわらわがすることでは……」


 床に両手をつき、体を震わせ、顔に絶望の色を浮かべる。


「おぬしは氷力石の力によって狂っておった。仕方のないことじゃ」

「仕方ないでは済まされぬ。わらわは居場所を消し去った、ギンとコンの居場所を」


 その言葉に二匹の狐がクウコの名を呼ぶ。


「クウコ様……」


 自分の心配なんて全然していない。

 クウコはギンとコンのことだけを考え、絶望に浸っている。

 ーー居場所

 これにこだわる理由は、過去に何かあったからなのかもしれない。


「だったらわしの神社にでも住み着くか?」

「……お主の?」

「護り神となるものがおらんのでな、ちょうど探そうと思ってたとこなんじゃ」


 おじい、絶対嘘だ。

 護り神を探そうとしているはずがない。

 おじいは自分一人で大丈夫と、何でも一人でやりたがる性格なんだ。

 クウコは顔を上げ、おもむろに私の横へ視線をやった。

 その先にいるのはルカとレオ。


「そこの者は、ここの護り神じゃないのか?」

「この二人はわしの頼みを気さくに引き受けてくれた優しい妖怪じゃ」


 優しい妖怪、か。

 私なんかを守ってくれなんていう頼みに聞いてくれたんだもんね。

 確かにレオは優しいけど、ルカは……、なんてね。


「だったら頼もう。今日からわらわを、この神社の護り神として迎えてくれるか」

「うむ、承知した」


 なんだか今日のおじいはかっこよく見えた。

 姿勢を正したクウコも、華麗で見惚れるほど凛とした姿だった。


「よくやったな、お姫様」


 髪がぐしゃぐしゃにならない程度に、わしゃわしゃと頭を撫でられる。


「私は何もしてないよ。ルーファスがあの時助けてくれたから……」

「んな細けえことは良いんだよ。お前は狐を助けたいと強く想った、それであのお嬢様は助かった、そうだろ?」


 ルーファスの適当さに堪らず、くすっと笑ってしまう。


「お嬢様って、もしかしてクウのこと言ってる?」

「お嬢様っていうより、おーおーお嬢様かもな」

「なにそれ」


 腕を組み、横を向くルーファス。

 子供みたいな冗談、と頬が緩む。

 クウコのことをクウと呼んだのは『クウでいい』と本人に言われたから。


「あの偉そーな態度からしてそんな感じだろ」


 ふっと本物の笑みを見せる。

 さっきから感じていた、私の様子を伺うような真っ直ぐとした視線。


 それは途端に柔らかくなる。

 私のためにわざとくだらない話をしてくれているんだということもいつからか気づいていた。

 神社の外。


 後ろにはルカとレオ。

 前には虎の姿から人の姿に化け直していた二人。

 ーーコホン

 ルーファスの冗談に和んでいると、入りずらそうにレノが咳払いをする。


「仲良くやってるところ悪いが僕らはここで失礼する」

「ああ? そんな急ぐほどの用なんてあったっけか?」

「なくてもあっても、ここから立ち去るのは当前のことだろ」


「……まあ、それもそうか」


 二人の会話。

 ルーファス、なんだか寂しそう。


「じゃあな」


 そう言って背を向けた。すぐにはその後を追わず、レノは私へと向き直る。


「君は、よく頑張ったと思う。だからそんなに自分に引け目を感じる必要はないよ」

「レノ……」


 初めてレノと交わした会話かもしれない。私のことを考えてくれていたんだと思うと、素直に嬉しい。


「お前、何こそこそとやってんだよ」

「僕は別に、こそこそとなんてしていない」


 また始まる小さな口喧嘩。

 いつもルーファスから突っかかってくるんだなと、パターンを掴んだ。


「してんだろ。俺がいる時はそんな優しい言葉かけなかったくせして」

「君がベラベラと喋るから言えなかっただけだ」

「へー、そうですか」


 棒読みの敬語。

 これで収まる。

 ルーファスの態度にレノは溜め息をし、ばつの悪そうな顔をしながら口を開いた。


「ごめん、騒がしくして」

「ううん……ちょっと、楽しかったかも」


 レノが謝ることではないと否定しようとしたら本音まで出てしまった。


「だとさ」


 私の言葉に上機嫌になるルーファスだが、ルーファスの得意げな反応にレノが変な顔をする。


「ほら、さっさと行くんだろ。レノ」


 気にした様子もなく、ルーファスは虎の姿へと変わり、背中を向けて歩き出す。

 くいっと言葉とともに向けた顔は無表情だった。

 ほとんどの動物は表情を変えることができないみたいだから。


「行っちゃったね」

「うん」


 二匹の虎の後ろ姿はもう見えなくなった。

 ここにいるのはレオとルカと私。

 静かな空間。

 木の葉だけが風に揺れ続ける。


「僕たちも戻ろうか」


 ほんの少しだけ寂しい。

 短い間だったけど、ルーファスとレノと一緒にいれて良かった。

 あの二人が親しみやすかったから、こう思うのかな。


『またいつか会ったとき、あいつが調子に乗るようなことはあまり言わないでほしい』

『またこそこそと何か話してらっしゃる』

『そういうことだから、頼む』


 さっきあったことばかりのことを思い出す。

 ルーファスを一度睨んだレノは早々にそう言うと虎の姿となり、ルーファスの後をついて行った。

 またいつか、か……。

 妖怪とそんな関係になるなんて。また会う日なんて、あるんだろうか。


 もし、再開した日にルーファスやレノのことが見えていたとしたら、その時はまだ私の目に氷力石があるってこと。

 ハウラに会って、私の右目から氷力石がなくなってしまえば妖怪は見えなくなるのかな。

 なんだか、それがーー寂しいことのような気がする。


「疲れた?」

「うん……」


 家に着くといつも通りベッドに座り、その横にレオが座る。

 ルカは勉強机の椅子へと。


「みんなから褒められていたのに、複雑そうだね」


 すぐ兎の姿へとならないレオは何を思ってそう言ってきたのか。

 俯き、その言葉の答えを探す。

 ーー複雑

 何が私をもやもやさせているんだろう。

 妖怪が見えなくなるとか?

 ううん、そんなことじゃない。


「何もできないとか、何もしてないとかそういうことばかり考えてたから、みんなの言葉を素直に受け取れなかったんだ。と、思う」


 まだ自分でも分かっていない。

 だからこんなにはっきりとしないんだ。

 曖昧すぎて、嫌になる。


「君は頑張ったよ」

「頑張った……?」

「何ができたかより、してあげたいっていう気持ちのほうが大事なんじゃないかな」


 確信とした言い方だけど、どこか曖昧な雰囲気。そんなレオの横顔を眺める。


「あの狐たちは仲間を助けたいという気持ちでいっぱいだった。でも客観的に見れば、二匹だけでは何もできていないようだった。それを君は気にした?」


 真剣そうに語り出してくれた。

 そんなレオの質問に対して首を横に振る。

 コンとギンは何もしなかったというより、何もできなかった。

 あの二匹の力ではクウには到底敵わない。

 そうどこかで分かっていたから、気になんてならなかった。


「そうだね、気になんてならなかった。あの狐たちが自分のことのように必死だったから。そんな狐を見て、リオちゃんは助けてあげたいという気持ちになった」


 ルカの冷たい態度。

 言っていることは半分本当なのかもしれない。

 そう思う自分がいて、何も発言することができなかった。

 私の役割を見つけてくれたのはルカのはず。

 なのにどうしてこんなきついことを言ってくるのだろう。


 やっぱりまだルカの考えていることが分からない。

 私のできることを見つけてくれたのはルカ。

 それなのにそれを『無意味』と示した。

 それはどうして?

 無意味なことを私にやらせるためにあんな提案をしたの?


 もしそうなら、その行動こそが無意味だよね。

 ルカが分からない。

 何も知らないから。


「そうだったか。それは大変だったな」

「うん。今、その狐はおじいの神社にいるんだ」

「ふーん」


 天邪鬼に言われて行った神社には狐がいたと話始め、その前には虎が現れたんだとたわいなくも全てを話した。

 ただ一つ、また私の目に入ってしまった氷力石のことは言わずに。


「天邪鬼も来る?」

「は!? なんでオレが?」


 すごい驚きよう。

 興味ありげだったから訊いてみただけなのに、体が仰け反った。


「んー、なんか暇そうだから?」


 くすくすと心で笑いながら、平然と答える。


「オレは暇じゃねー」

「あ、そっか。天邪鬼は妖怪たちを脅かす役目があるのか」

「……なんか、オマエに言われるとちっさい事に聞こえるな」

「そう?」


 実際、ちっさいことなんだって。

 そんなことは言わず笑みを向ける。

 すると天邪鬼が黙った。

 もしかして私の心情がばれたとか。


「オマエ、なんかアイツに……」

「アイツ?」

「いや、なんでもねー。オレの気のせいだ、たぶん」


 手を枕にして寝転がる。

 変な天邪鬼。

 そしてそのまま木の下で、心地いい風を感じながら忘れようとしていた。

 ルカの冷たい態度を。


 忘れなければずっと引きずったままになってしまう。

 ルカの言うことも正しいのかもしれない。

 でも、私には納得できないから。

 だから忘れようと思う。

 ーー無意味な情けはいつか自分の身を滅ぼす

 こんなこと言われたら、何もできないよ。


 〝情けは人の為ならず〟


 誰かに情けをかけることは無意味なんかじゃない。

 このことわざが間違った意味として世の中に浸透してしまっているのと同じだ。

 だからルカ、少し距離を取らせてもらうね。

 君といると私まで同じようになってしまう。

 まだ自分がぐらついているから。

 このぐらつきがなくなったら、いつかルカも……直してあげる。


 なんてね。

 できたら、の話だけどね。

 どこからどう見ても感情のないルカの冷たい心を変えるには、ずいぶん困難かもしれない。

 だから私にはお手上げ、ってことにもなる。

 その時にはもう、おしまい。


「そろそろ学校行ってくるね」


 一息つき、深い考えを振り払うように立ち上がり振り向く。


「行ってらー」

「イッテラー?」


 奇妙な呪文?

 のようなものに、不信感を持つ。


「……フツーわかるだろ」

「分からないよ。素直に最後まで言ってよ」


 いや、嘘、分かった。

 今、分かった。

 天邪鬼の言いたい言葉が。


「行ってら……」


 顔をしかめている天邪鬼の言葉をじーっと待つ。

 遅刻になってしまうかもしれないが。


「だあー! 言えるかそんなもん」


 あ、叫んだ。


「ひねくれ者だからなのか、ただ単に恥ずかしいのか」


「……うるせえ」


 どっちなんだろ。

 素直に“行ってらっしゃい”の言葉が最後まで言えないのは。


「行ってきます」


 これ以上待っても来ない。

 一言行って歩き出そうとした時だった。

 不可思議な感覚が私を襲う。


『じゃあそろそろ学校に行かなくちゃ』

『行ってらー』

『イッテラー? なにそれ? もしかして何かの呪文?』

『……行ってらっしゃい、て意味だろ。フツーに分かれ』


 まただ。

 また天邪鬼の記憶。

 そしてーー


『天邪鬼って、名前の通りひねくれ者で素直じゃないよね。あ、それともボクと同じで恥ずかしがり屋なのかな』


 黒い髪の少年。

 丁度、小学生くらいの。

 誰? 君は……。


「ーー天邪鬼」

「ん?」


 今のは誰?

 黒髪の少年は一体……。

 何か不吉なものを感じた。

 今の暖かい少年からではなく、別のものから。

 自分でも何を考えているのか分からないけど、今の少年をほおって置いたらいけない。

 そう思うんだ。


「ううん、なんでもない。……行ってきます」


 どうして訊けないんだろう。

 別に訊いていけないことではないはずなのに。

 何も訊けなかった。

 ああ、そっか。

 訊かないから教えてくれないんだ。

 教えてくれないから分からなくて。

 分からないから怖い。


 怖いから近づこうとせず、知ろうともしない。だからーー知ろうともしないなら、相手のことなんて絶対分かるはずがないんだ。

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