第32話 雪辱に燃える婚約者の暴走

 ヨファはというと、ナレイに気が付いていたらしい。

 低い声でつぶやいた。

「近寄るな」

 でも、ケイファドキャの兵士たちの中から聞こえたのは、嘲笑の声だった。

 ヨファがすっかり怖気づいているように見えたのだろう。

 だが、ナレイにとっては願ってもないことだった。

「何で俺がひとりで助けに来たと思う……」

 涸れ井戸の中に、地の底から聞こえてくるかのような声が響き渡った。

「たったひとりで、わざわざこんなところへ!」

 兵士たちが、誰だ、誰だと騒ぎ出す。

 無理もない。

 月明かりしかない夜闇の中で、どこから聞こえてくるか分からない声がするのだ。

 もうひと押しとばかりに、井戸の底から噴き出す水のような勢いで、ナレイは叫んだ。

「サイレアの勇者だ!」

 その名前が、どこまで知れ渡っているかは分からない。

 だが、それはともかくとして、ケイファドキャの兵士たちは慌てはじめた。

 完全に落ち着きを失って、きょろきょろと辺りを見回す。

 そこでナレイは、井戸の中からゆっくりと姿を現した。

 余裕たっぷりにひと息置いて、小剣を抜く。

 そのまま、ケイファドキャの兵士の前へと歩いていった。

 大股に、悠々と進めば、兵士のひとりがあとずさる。

 ひとり、またひとりと、後に続く。

 その間で、囁き合う声が聞こえた。

「何だよ……こいつ」

「俺、知ってる……サイレアの勇者って」

「死んだって聞いたぜ」

 そこで僕

 そこでナレイは、不愛想に告げる。

「残念だったな……俺は、不死身だ」

 効果はてきめんで、兵士たちはたちまちのうちに、こけつまろびつして逃げていった。

 そこでようやく振り向いたヨファは、半分は安心したようだったが、もう半分は忌々しそうだった。

 いずれにせよ、その手は剣を構えたままである。

「君でしたか……ナレイ君」 

 だが、その先は礼も言わない。

 ナレイもアテにはしていなかっただろうが、そこでヨファは、ただひと言だけ叫んだ。

「後ろだ!」

 振り向くと、そこには井戸の中から月に向かって伸びた、長い影があった。

 その尖った先端が、ナレイへと向けられる。

 それが、蛇の頭だった。

 大きな蛇が、鎌首をもたげていたのだ。

 冷たく光る二つの目がナレイとヨファをじっと見下ろしているのは、襲いかかる隙を伺っているからだろう。

「ひっ……」

 何とか悲鳴を呑み込んだナレイだったが、ヨファの前で弱みは見せるわけにもいかない。

 胸を張って蛇の目を睨み据えたが、相手が蛇が怯むことはなかった。

 無理もない。

 このハッタリは、子どもと動物には利かないのだ。

 蛇の頭が、ナレイをひと呑みにせんばかりに、顎を大きく開けて降ってくる。

 とっさに伏せて地面を転がるナレイのもとに、ヨファが駆け寄ってきた。

「何やってるんですか!」

 そのひと言と共に、ナレイの頭の真上を、冷たく光る刃が旋風のような凄まじい音を立てて通り過ぎた。

 何か大きな塊が、高く昇った月まで高々と中を舞う。

 やがて、それはナレイのすぐそばへ、どさりと音を立てて落ちてきた。

「これは……」

 大蛇の頭から目をそらすナレイの傍らで、それを剣の一撃で斬って落としたヨファが、荒い息の下で答えた。

「アナフサギヘビ……地の底の洞穴なんかに棲む蛇です。大きなものになると、洞穴そのものを塞ぐようになります。昼間は眠っていて、夜中に動きだすといいます。」

 なぜ、ケイファドキャの兵士は、夜中にこの抜け道を使って、要塞に忍び込んでこなかったのか、これで明らかになった。

 この大蛇が棲んでいたからだ。

 おそらく、途中で枝分かれしていた、もう一方の横道のほうだろう。

 それは、ヨファも気づいていたようだった。

「こういうわけでしたか……」

 ケイファドキャの兵士たちは、それを知っていたのだ。

 ナレイは安堵の息を押し隠して、無言で立ち上がろうとする。

 だが、そこでヨファが警告した。

「気を付けて!」

 ハッとするナレイの目の前で、大蛇の長い胴体が井戸の中から這い出てくる。 

 慌てて逃げようとする身体は、既に言うことを聞かなくなっていた。

「足が……」

 すくんでしまっていた。

 地面についた尻を動かして、なんとか後ずさる。

 その足元に、輪切りにされた大蛇の身体の、片方が落ちてきた。

 胴体だけで、その辺りをのたうち回る。

 それをしばらく見つめていたナレイは、ようやくのことで言葉を口にした。

「……ありがとうございます」

 素直な礼にも、返事はない。

 王様が決めたシャハロの婚約者で、自分で買って出た斬り込み隊長のヨファは、ただ首を傾げただけだった。

「あそこでなぜ斬り捨てなかったんですか? サイレアの勇者を名乗るならできたでしょう……逃げるより早いのに」

 ナレイは答えなかった。

 答えようがない。

 そもそも、こんな大蛇を倒すことなど、一介に使用人にできるわけがなかった。

 余裕たっぷりに知らん顔をしてみせたナレイは、さっさと涸れ井戸のハシゴに足を掛けた。 

 だが、ヨファは後ろから、微かな笑い声と共に語り続ける。

「私だって、最初からこんなことができたわけではありません……この5年の間、剣の腕を磨き、戦場という戦場を駆け回ってきたからです」

 ナレイは口も利かずに、ハシゴを掴んで抜け道へと降りていく。

 だが、井戸の上から聞こえてきた最後のひと言には、手が止まった。

「生まれて初めて出た城の宴で、シャハローミ様の舞い姿を心の底に焼き付けれられてから」 

 ヨファの声には、いつもとは違って、どこか切ないものがあった。 

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