第23話 サイレアの勇者まかりとおる

 無礼講の夜が明けると、ジュダイヤの軍勢の中には再び、階層と階級の秩序が戻ってくる。

 部下たちは上官の前を厚く守り、庶民は貴族たちの盾として歩かされた。

 ケイファドキャの要塞は、丘のふもとから見上げても大きかった。

 要塞というより、高くそびえ立つ壁そのものといったほうがよかったのかもしれない。

 それが、丘の上からナレイたちを見下ろしていた。

 兵士たちの間に、ざわめきが広がる。 

「これ落とせってのかよ」

「無理だろ……」

「どんだけいんだよ、こん中に……」

 それでも、隊長の命令一下、ジュダイヤの軍勢は陣形を整えた。

 もちろん、先頭に立たされるのは庶民の新兵たちである。

 その後ろに控えているのは、ヨファの率いる斬り込み部隊であった。

「では、前進しましょう、新兵の皆さん」

 だが、誰ひとりとして動こうとする者はない。

 ひそひそと囁き交わすばかりである。

「冗談じゃねえ……死ねってのかよ」

「だいたい、近づけるのか? あそこに」

「たどり着く前に、矢が飛んできたらどうすんだよ」

 それが聞こえたのか聞こえないのか、馬上のヨファはそらぞらしい励ましの言葉を並べ立てる。

「大丈夫です。ここから要塞まで、誰もいないというのは斥候が調べてきました。中で様子を見ているのでしょう」

 しばらく、新兵たちは何も答えなかった。

 お互いに顔を見合わせて、すっかりすくみ上がっている。

 ヨファは、困り果てたように告げた。

「大丈夫、開いた要塞の門から軍勢が繰り出されてきたら、道を空けてください。私たちが斬り込みます」


 そこで、初めてナレイが口を開いた。

「相手を誘いだせ、ってことですか?」

「そういうこと言いますかね、今」

 ヨファが冷やかな眼で見渡した庶民の新兵たちは、顔を伏せて目を合わせようともしない。

 ナレイだけが、顔を挙げて見つめ返していた。

「命が懸かるんなら懸かると、はっきり言ってください」

「言ったら、命懸けで戦ってくれますか?」

 それまで穏やかだった口調が、急に険しくなった。

 ナレイも、きっぱりと言い切った。

「断れば、その場でなくなる命でしょう?」

 ヨファは、微かに身体を震わせながら、深いため息と共に答えた。

「私たちは、いつだって命懸けです。生まれたときから、誰に命じられるわけでもなく……」

 あからさまに庶民の新兵たちを見下した口の利き方だった。

 だが、その中から抗議の声が上がることはなかった。

 ナレイひとりが、微かな声で答えただけである。

「僕が……僕が行きます。ひとりで」

 新兵たちが、一斉に顔を上げた。

 ヨファは、ほう、という顔をしてみせる。

「まあ、開けばいいわけですが……ナレイ君がそれでいいなら、ご自由に」


 ヨファがどう申し出たのかは分からないが、隊長はナレイの単独行動にあっさりと許可を出した。

 ひとり要塞に向かうナレイの後ろから、馬上のヨファが声をかける。

「要塞の門は重くて、なかなか開くものではありません。ですが、その分、閉めるのも手間がかかります」

 ナレイは、振り向きもしないで答えた。

「どうします? あっちが僕なんか鼻にも引っかけなかったら」

 そんなことは何でもないという口調で、ヨファは答えた。

「ひとりで引き受けたのはナレイ君です。何もできないで生きて帰ったら、それなりの罰は受けてもらいますよ……お仲間とご一緒に」

 たちまち、庶民の新兵たちが騒ぎ出した。

「何でだよ! じゃあ、死んでこいってのかよ! ナレイは!」

「生きて帰れたら、それはそれですごいだろ! 褒美ぐらいやれよ!」

「どうせ無理だって思ってんじゃないのか?」

 するとヨファは、うるさげに言い捨てた。

「誰でしたか? 黙っていたのは? 小隊長がひとりで行くと言ったとき……」

 ナレイの部下たちは、恥ずかしげに口を閉ざした。

 もう口を開くのも面倒臭いといった態度で、ヨファは追い討ちをかける。

「君たちの命だけは保証しましょう……もしナレイ君が死んでも、その命懸けの勇気に免じて」

 そこで初めて、ナレイは振り向いた。

「門を開けさせればいいんでしょう?」

 命が懸かっているとは思えないほどの、穏やかな口調だった。 


 ジュダイヤの軍勢を後に残して、ナレイはひとり、丘の斜面を歩く。

 そう大した高さの丘ではないので、そのてっぺんにたどり着くにも時間はかからないように見える。

 これがただの山登りであれば、である。

 今は、戦の最中であった。

 丘のてっぺんにある要塞は、大昔の遺跡などではない。

 麓にひしめき合う他国の軍勢を、どれほどの兵士が見下ろしているか分かったものではなかった。

 ヨファに大見得を切ったナレイが身体をすくめて歩くのも、無理のないことである。

 しかも、陽当たりのよい斜面には、身を隠せるような草の茂みひとつないのだった。

 ないない尽くしの、何とも情けない単独行であった。

 だが、自分で買って出た任務の惨めさも、命あってのことである。

 風を切る音が、ナレイの足元で止まった。

「ひっ……」

 それまで堅く引き結ばれていた唇から、悲鳴が漏れた。

 すぐ爪先の地面に、要塞から飛んできたものと思しき矢が突き刺さっている。

 要塞の弓兵は、いい腕をしているようだった。

 丸めていた背中をまっすぐに伸ばしたナレイは、いい的である。

 たちまちのうちに、次から次へと遠矢が頭上から襲いかかってきた。

「ちょっと! ちょっと! ちょっと! ちょっと!」

 右へ左へとじたばたと踊ったナレイは、地面へと伏せる。

 要塞のほうではその姿を見失ったのか、遠矢は止んだ。

 ナレイは丘の斜面に張り付いて、じりじりと這って進む。

 斜面が要塞から見えるか見えないかのうちは、それが安全であった。

 だが、それにも限界がある。

 いきなり横へ転がったナレイのすぐそばに、高々と放たれた矢が垂直に降ってきた。

 斜面を滑り降りる背中をかすめて、続けざまに矢が並ぶ。

 それが止まったところで、ナレイはゆっくりと立ち上がった。

 たいして立派ではない体格からは信じられないような声が、辺りに響き渡る。

「サイレアの勇者、まかり通る!」

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