第9話 命を懸けた、その場しのぎの猿芝居

「止まれ」

 命じる声があった。

 重武装から軽装まで様々に武装した、異国の兵士の中から聞こえた声である。

 ナレイは、おとなしく従った。

 シャハロも、何も言わないで馬の手綱を握っている。 

 どうやら隣国は、言葉の通じるところらしかった。

 だが、ナレイもシャハロも口を開かない。

 やがて、鎖帷子に身を固めた男たちが、兵士の群れの中から現れる。

 槍を手にして、ふたりを取り囲んだ。

 どの兵士も、すっかり目が座っている

 夜中に国境をこっそり越えて、感情が高ぶっているのだろう。

 その中でも恰幅のいい男が、穏やかな、しかし押しの利く声でナレイに尋ねた。

「何者か」

 ナレイが答えないでいると、槍の穂先がシャハロにも突きつけられる。

 男装しているとはいえ、つややかなうなじや喉元が、沈みかかった月に冷たく光っている。

 ひと突きで、いや、切っ先が軽く撫でただけでも、血の筋が流れることだろう。、

 だが、シャハロは毅然として答えた。

「ジュダイヤ王・ヘイリオルデの末子、第6王女シャハローミである」

 当然のことながら、国王はその国にひとりしかない。

 一方、名前とは、特定の人や物を他のものから区別するためのものだ。

 ひとりしかいないものに、名前はいらない道理である。

 したがって、国王の名を口にする者は、即位からこの30年ほど、ほとんどいなかった。

 だが、自分でもよく覚えていないその名を、他国の兵士たちが知っているかどうかなど、ナレイには大した問題ではなかった。

「ちょっと!」

 そこで慌てて振り向いたのは、国境を越えてきた兵士たちの前で王族の身分が明かされたからだろう。

 捕虜にしてくれと言っているようなものだ。

 見上げると、男装のシャハロが薄い胸を張って、異国の武装集団を見下ろしていた。

 いかに男装とはいえ、その姿はいかにもたおやかである。

 しかし、そこには何とも言えぬ。凛と張りつめた気品があった。

 その言葉を信じていいのか笑い飛ばしていいのか分からない、奇妙な雰囲気が辺りを包む。

 やがて、恰幅のいい、どれほどかの兵士をまとめる隊長と思しき男がナレイの腕を掴んだ。


 シャハロは厳しい声で、それを制した。

「ならぬ! その手を放せ! さもなくば、おぬしらの命はない!」

 兵士たちの間に、さわさわと噂話の波が広がっていく。

 この軍勢、いまひとつ、統制が取れていないようであった。

 だが、隊長はそれに構うことなく、腕をねじ上げられたナレイをその場に引き据える。

 そこでシャハロは、なおも叫んだ。

「国王の兵は既に放たれた! その者を放して速やかに汝らの国へ帰るがよい! 今、退かねば間に合わぬぞ!」

 噂話は次第に兵士たちの動揺を生んだ。

 先頭のざわめきは、街道沿いに続く隊列に沿って後ろへ後ろへと伝わっていく。

 それに慌てた様子もなく、隊長らしき男は落ち着いた口調でナレイに尋ねた。

「本当か」

 ナレイは首を横に振った。

 馬上のシャハロは、鋭く叱りつける。

「何を申すか! 無礼な!」

 だが、ナレイは卑屈に、しかし、はっきりと言い切った。

「あの娘は、そんなたいした身分じゃありませんで、へえ」

 声を荒らげて、シャハロは言い返す。

「黙って聞いて折れば放言三昧、もう我慢ならん!」

「我慢なんねえのはこっちだ、はあ」

 腕を掴まれたまま、ナレイは首を捻ってシャハロを見上げた。

 シャハロも睨み返す。

「その方、己の立場を弁えよ」

 他国の兵士たちが見守る中、馬上の姫と地面の使用人は、しばし沈黙した。

 更に低く傾いた月が、その顔を照らし出す。

 ほんの僅かの間ではあるが、互いに苦笑したようであった。

 そこでナレイは、悲痛な叫び声を上げた。

「お許しくだせえ、大将閣下!」

 使用人に過ぎないナレイが、軍隊の階級制度など知ろうはずもない。

 ナレイにしてみれば、少しでも高い階級で呼んでなだめようといったところだろう。

 隊長のような男も、悪い気はしなかったのか、口元を緩めて声をかけた。

「どうした?」


 地面に額を擦りつけようにもできないといった様子のナレイは、そこで深いため息をつくと、ひと息でまくしたてた。

「聞いてくだせえ、あれは、おいらの妹でやんす。何か悪いもんでも食ったのか、それとも悪魔にでもとりつかれたのか、自分をこの国のお姫様だと思い込んでますんで。黙ってりゃあいいんでやんすが、親兄弟どころかご近所にも、あの調子で食ってかかりまして。それが町中で噂になって、とてもとても、住んではおられんようになったんでごぜえやす。いっそのこと、お隣の国へ行って、ええ医者を探そうかと」

 兵士たちはお互いに、ガヤガヤと詮索を始める。

 だが、隊長がそれを手で制すると、辺りは再び静寂に包まれた。

 なおもナレイは泣き叫ぶ。

「どうか、通してくだせえ! この国に、頼れる者はもう誰もごぜえやせん。正気を失った妹とふたりで、どうやって生きていったらええんでがんしょう? そのくれえなら、おいらたちのことだど誰もしらねえ国に言ったほうがマシでやんす。どうか、どうかお助け下せえ!」

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