第5章ㅤ迷子の仔猫《居場所》2

「俺ら、いつまでここにいればいいんだろうな」

「……。さあ」


 快晴。だけど私たちの心は曇り。

 無数に広がる岩。

 その一つの上に座っている私たち。

 トーマは意外にもくつろいでいて、あぐらをかきながら後ろに手を置き遠くを見ている。それは私も同じ。膝を抱えながらいくあてもない視線を遠くの海へと向けている。


「つーかさ、こうなったのあいつのせいだよな」

「あいつ?」

「イヴァン」


 ああ、あの人か。

 後で言ってやる、と言っているトーマは果たしてイヴァンに何を言ってやるのか。


「そういえばレイさんは?」


 洞窟から出て、一番にここへ来たのは私だった。そこにトーマが来たのだ。


「ああ、まだ寝てる」


 まだ寝ているなんて。レイはよく寝る人。

 ……。

 ……。

 ……。

 何も喋ることがない。


「トーマさんはみんなのこと、どう思っていますか?」

「何だよ急に」


 本当に何なんだよって驚いた顔をしている。……だって話すことがないんだもん。


「理由がなければ駄目ですか?」


 ちゃんとした理由がなければ答えてくれないのか。じっと見つめていると彼は困ったかのように瞳を揺らしすぐに視線を外した。

 そして動揺を隠すように、自分の髪の毛をくしゃっとする。


「あいつらのことは……まあ、なんつーか、ちゃんと仲間だと思ってるよ」


 仲間……。

 その単語が私の心に突き刺さる。

 昨日、私も彼にお前は仲間だと言われた。

 でもそれは本当なのか。

 仲間と言われる基準がわからない。

 本当はあの時咄嗟に出た言葉じゃないんじゃないか。

 存在意義が分からず混乱している私へ向けた嘘のーー。


「つーか、そういうお前の方はどうなんだよ……」


 トーマが止まった。

 私を見て。

 俯く私を見て。

 気づかないうちに私は顔を下げていた。

 視界に綺麗な景色を映すことなく。それならば、彼も目に入れることなく。

 でもトーマは本当に嘘をつくような人か。船の上のみんなの仲で一番嘘が苦手で、嘘をついたとしても分かりやすく見える。

 それは彼の思惑か。

 考えれば考えるほど分からなくなる。


「お前、また余計なこと考えてるな」

(余計なこと……?)


 貴方に一体何がわかるのか。

 反射的に彼を見上げる。


「だから、俺に答えを求めるような目を向けてくるなよ」


 この人は意外に敏感。

 今まで鈍感だと思っていたのに。


「トーマさんて……」

「何だよ?」

「やっぱり何でもないです」


 思ったことを言おうとしたけど、正直に言ったら彼は絶対に怒ると思うから気持ちを途中でとどめ、話を変える。


「でも、ゼクスさんやイヴァンさんのことは少し苦手そうですよね、トーマさん」


 仲間だと言っていても、実際好き嫌いは存在するものだろうし。

 何だかあの二人には、他のみんなと少し接し方が違うような気もしていた。


「ああ、特にゼクスがな」


 やっぱり。


「……私も実は、あの人苦手です。でも、このネックレスを返してもらえたのはあの人のお陰でもあるんです」

「あいつの?」


 はい、と答えている間も胸元にあるネックレスを持ち、見続ける。

 彼ーーゼクスは、このネックレスが私のお母さまの遺品だと知っていた。それをさりげなくイヴァンに伝えて、イヴァンはそれを知ってすぐに返してくれた。

 売却するつもりは、なかったらしい。


「トーマさんが教えたんですか?」

「何を?」

「このネックレスが、私のお母さまの遺品だと」


 トーマは口の軽い人ではない。それは見て分かる。けれど私は言わないでと言っていないから話したのかもしれない。


「そんなこと言ってねえよ」


 一拍置いてからトーマは答えた。

 眉が寄っていて、何だか機嫌が悪そう?

 トーマはゼクスに言っていなかった。このネックレスは私のお母さまの遺品だと。

 あれ? だったらどうしてあんなことーー


『それはこいつの母親の形見だそうだ』


 ゼクスは「遺品」ではなく、「形見」だとはっきりと言い切った。だからトーマが言ったと思ったんだ。最初にこのネックレスを形見だと言い表したのは、トーマだから。

 それにトーマが言っていないのなら、ゼクスはいつこのネックレスが私のお母さまの遺品だと気づいたのか。

 知らないうちに私が自分で喋ってた?

 ううん、そんなことはしていない、と隣にいるトーマを何となく窺う。

 ……?


「トーマさん、何か怒ってます?」


 彼はそっぽを向いていて、何だかまだ不機嫌そうで。私は何か悪い事を言ってしまったんじゃないかと思えてくる。


「……別に」


 いや、怒ってますよね?

 と、伺いたい気持ちを止めた。

 サラーっと流れる風。

 静かに髪を揺らす。

 彼が黙って数分。

 ここに彼といるのも慣れてきた気がする。

 二人きりは嫌だった。いつもより気を使わなければいけないから。

 でも今は、こうしている事が少し心地良い。


「お前さ」


 気まずそうに、少し遠くにいたら聞こえないくらいの声の大きさで彼は私を呼ぶ。

 正確に言えば、私の名前は『お前』ではないけれど。

 何を言ってくるのか、私から顔を背け俯きぎみの彼を見つめる。

 するとゆっくりこちらに顔を向けてきて。


「さん付けやめろよ」


 それは真剣な顔で言ってきた。

 とても不愉快そうに。


「……はい?」


 全くもって突拍子もない話。一体何を思ってそんな事を言ってきたのだろう。私たちは今までどんな話をしていたのだろうか。

 そもそもいきなりそんな事を言われても困る。さん付けやめろよと。

 話の内容が理解できない。


「だから、トーマさん、って」


 それは分かる。さん付けやめろよという意味は分かるんだ。さん付けやめろよ、と言ってきた意味が分からないだけであって。

 そんな事は訊いていない。


「どうして、ですか?」

「……?」


 私の声が小さかったのか、彼ーートーマは答えてくれない。


「どうしてそんなこと言うんですか?」


 彼と話すたび、『どうして』が広がっていく。どうしてあの時、私を救ってくれたのか。どうしてあの時、私の大事な物を奪い返そうとしてくれたのか。

 もっと他にいろいろあるけれど。それはたぶん、『女』という単語に深い意味はないんだと思い知らされ、片付けられてしまう。

 そう分かっているならどうして訊こうとするのか。わざわざ分かっている事を。

 ……ほら、また『どうして』ーー。

 もう、やだな。彼の事でこんなに頭を使って考えるの。

 考えなければ一番良い事なんだろうけど、考えたくなくても考えてしまうというやつだ。きっと。


「どうしてって、前にも言っただろ……。あ、言ってなかったか。俺はさん付けされんの好きじゃねえんだよ」


 ああ、聞いた。確か初めて船の上でとる昼食の時だったけ。彼が小声で言っていた。

 隣だから聞こえていたけど、私は聞こえないふりをしたんだ。

 だって……。


「それって、身内に、ですよね?」


 私は『身内』ではないから。

 ナギくんから聞いたのは、彼ーートーマは身内からのさん付けを嫌う事。

 でも私は身内ではないから、どういう対処をしたらいいか困る。

 ここは無視をした方が良いのかと考えてしまう。


「お前、ほんと分かってないよな」


 分かって、いない?


「お前は仲間だって言っただろ。嫌でも、同じ船の上にいるんだから嫌とは言わせねえ」


 昨日、言われた。でも。


「嫌なのは、トーマさんなんじゃ……?」

「ああ、かもな」


 かもな、って。

 心配して見上げていた目が点になり、ついでに頭がポカン……となる。


「ーーまだ」

「まだ?」

「好きになれねーだけかもしれないだろ」


 それって……。


「つまり、私をいつか好きになるかもしれない、という事ですか?」


 私の問いたものに彼は、はあ?とすごい顔を向けてきた。

 ……トーマ本人が言ってきた事なのに。


「ばっ、そういうことじゃねえよ」


 ーーば? 今この人、‘馬鹿’って言いそうになった?

 私は馬鹿発言なんてしていないはず。どちらかというと馬鹿なのは彼のほうだ。

 自分の言った事にいきなり慌て出して、今は少し顔を赤くしている。

 一体どこに顔を赤くする要素が含まれていたというのか。

 というより、自分の発言した事に否定を入れるとは、どういう心境の変わりようだ。


「トーマさんて、意外と優柔不断なんですね」


 嫌味で言ったことに、彼は思った通り突っかかってくる。


「だから、さん付けやめろって言ってるだろ」


 あれ? そっち?

 彼の事だから『優柔不断』を否定してくるかと思っていたのに。また意外。


「……」

「……」


 ーーちょっとした睨み合い。私は彼の本当の気持ちが分からないというやっかみの視線だが、彼はさん付けやめろ光線。


「トーマさん」

「……馬鹿にしてるのか?」

「トーマさん、かける三」

「……おい」


 見る見るうちに機嫌の悪くなっていくトーマ。だがそれを煽てる様に、段々と顔が険しくなっていく彼に負けじとさん付けをする。


「トーマ……さん」


 言えない。呼び捨てでトーマと。

 心の中では十分呼び捨てにしてきたのに。

 本人を前にすると……。

 はあー、と溜め息を吐く彼。

 これでも頑張っているのに。

 嫌味のように彼をさん付けして連呼したのは、さん付けしないと恥ずかしくて呼べないという事を隠すため。

 どうやら彼は、自分を呼び捨てで呼ぶのが嫌なんだと思っている様。これで良い。

 これで……。

 よく、ない。


「トーマ……ーー」


 必死にさんを付けまいとして成功。彼は、え?というような驚いた顔をした。


「トーマ?」


 言ったよ?と彼を見上げる。

 彼は口を噤んでいて何も言ってくれない様子。良くできたとか、恋愛ものの小説の中の人みたいに言ってくれれば良いのに。

 一応、恋愛ものの小説は一冊だけ読んだ事がある。騎士と姫が登場人物として出て、確か今と逆だった。騎士が姫のことを様付けしていて、姫が呼び捨てで良いと言って……。


「トーマさんも私を呼ぶ時、『お前』ではなくちゃんと名前で呼んで下さい」


 もしこのまま無人島で暮らす事になって、『お前』と呼ばれ続けられたら自分の名前を忘れてしまう。

 レイはあまり私に用がないらしく、名前を呼んでもらう機会すらないから。


「ユリウス……。ーーって、前にも呼んだ事あるだろ」


 照れくさそうに視線を外しながら言う。そっぽを向いてしまった彼。


「一度、だけなら」

「一度……」


 ええ。少ないでしょう。

 私の言った言葉を復唱するトーマはこれで分かっただろうか。いつも自分は目の前にいる人(私)の事を名前で呼ばずに『お前』呼ばわりという酷い事をしていたと。


「これからはちゃんと、名前で呼びーー」

「あ」


 一体何なのだろう。トーマの視線をたどり海の方に目をやる。すると視界に映ったのは、少し遠くにある船だった。

 港近くを進んでいる。


「あれって、もしかして……」

「あいつらだ」


 私の隣にいたトーマは立ち上がる。

 どこからか私の名を呼ぶ声がして、よく船の上を見ればそこにはナギくんがいた。離れているから彼の姿は小さく瞳に映り。ぶんぶんと音がなりそうなほど両手を振っている。


(助かった……)


 あ、でも。


「私、レイさん呼んできますね」




「こんな島で、迷子になる馬鹿がどこにいる?」


 腕を組み、威圧感ばりばり出している彼は私たちの前に仁王立ちするかの如く立ち、半端ない視線を向けてくる。ーーゼクス。

 それは私たちに、自分ですと言わせようとしているのですか。と、思ってしまう。


「ここにいまー……す」


 びっくりした。隣にいるトーマがぎこちなく手を挙げている。いつも素直じゃないのに。特に彼に対しては。


「馬鹿共が」


 ゼクスの容赦ない一言。

 今は罵倒に聞こえないのが不思議。

 白い浜。私とトーマの目の前には不機嫌度合いの高いゼクスがいて。白い浜との境にある岩の上にレイが立ち。

 唯一船の上にいたのがイヴァン。手すりに片肘をつけ頬杖をつきながら私たちを見ていた。他人事のように。

 ナギくんは「お帰りー」と私たちの帰りを祝福してくれたようで。ミサトさんも続いて「お帰り」と言ってくれた。






 昨日の夜は焼き魚だけ。朝はまだ食べていない。という事でミサトさんが作ってくれた料理をダイニングルームで堪能中。


「ゼスーーこれでもみんなのこと心配してたんだよ?」

「そうなんですか?」


 ミサトさんが真実味のない事を言う。

 反射的に事実かどうかを確かめようとしたが、しなかった方が良かっただろうか。


「ミサト……」


 何も言わないのにこの威圧感。

 私の向かいにいるゼクス。さっきよりも不機嫌度合いが増しているような気がする。

 慣れているのだろうか。それ以上言うなというゼクスの視線が向けられているにも関わらず、ミサトさんは話を続ける。


「馬鹿共が、あいつらは馬鹿かーーって言いながら船を操縦してみんなのこと必死で探してたんだよ」


 それって……どうなんだろう? 嫌味言われながら心配されてたとか、少し微妙な気が……。本当に心配してくれていたのかな。

 ちょろっとゼクスを見る。


「……」


 顔を顰めていて何だか居心地悪そう。


「まあ、そんな話はさておき。ーーどうだったの? 姫」


 イヴァンが急に話の間に入ってきて、唐突な事を言う。皆が、誰宛に言っているのだろうと一斉にイヴァンの事を見る。ゼクス以外の、私を入れて六人が。

 面積で言うと、テーブルの縦に置いてある椅子。そこに座っているイヴァンは皆の視線が集まっているにも関わらず、一点に私の事を見ている。……勘違いかもしれないけど。

 そしてもう一度。


「ヒーメ」

「……私、ですか?」

「そうだよ。ユリウス以外に誰がいるの? 女の子」


 そういえばあの時もこう呼ばれたっけ。とネックレスを返してもらった時の事を思い出し、今度は皆が私に視線を集めてきたところでああ、と何となく一応納得する。


「ーーって、何が……ですか?」

「無人島で過ごした一日はどうでしたか? と、訊いてるんだけど」


 半端面倒くさそうに言いきり、ストローに口を付けるイヴァン。それでも真っ直ぐとした赤い瞳は私をしっかりと捉えていて。

 今日はいつもと違う彼。ふざけている要素もなければ楽しんでいる要素もない。ただ、本当にどうだったのか聞きたい様子。

 ちゃんとした答えを出そうと昨日の、無人島での出来事を思い出す。


 最初はトーマがお腹空いていて機嫌が悪くて。機嫌が悪いのは自分のせいだという思い込みは消え去ったけど、自分がいけないんだという気持ちがあった。

 私がいなければ、イヴァンはふざけて無人島で一日過ごす、なんてものは出さなかったと思うし……。


 で、その次はハブ。木の棒を目で追う蛇が面白くてつい遊んでいたらトーマが激怒してきて。でもそれは私のためだった。私が毒蛇……ハブに噛まれでもしたら、という感情が彼を奮い立たせて。

 ーー何も知らない。

 そんな自分が嫌になった。私は皆が普通に知っていることを何も知らないんだって。私が知らない事で周りの人に迷惑をかける。何も知らない、知人のような人に。


 ーーそう、劣等感を感じた。


 でもーー。

 ハブから助けてくれた彼。トーマは、足を滑らせた私の事も助けてくれて。内面的にもいろいろ気にかけてくれて。

 彼が私に向けて言ってくれた数々の言葉は、心にまで響いた。


『思ってもなきゃ口からは出ないだろ』


 思わず口から滑った本音をなかった事にしようと惚けたら、そう言ってきて。私が黙り込んだら今度は弱味を言ってきて。


『今日、お前馬鹿みたいに言いたい放題言ってただろ。あんな風に今も喋れねえのかよ、黙り込んでちゃ分かんねーだろ』


 最後のトドメは……。


『最初から伝わらないんだって諦めてたら、何も伝わんねえんだよ』


 とても感心させられた。分かっていなかった部分をこの一言で分からせられたようで。彼は私の心を読めるのかと本気で思った。


『お前は嫌かもしんねえけど、俺たちはもう仲間なんだよ』


 この言葉はとても信じがたくて。


『お前、ほんと分かってないよな』


 小首を傾げる私に。


『お前は仲間だって言っただろ。嫌でも、同じ船の上にいるんだから嫌とは言わせねえ』


 そう言った。

 けれど正直なトーマは私の問いに。


『嫌なのは、トーマさんなんじゃ……?』

『ああ、かもな』


 潔く、どっちつかずの答えを言放った。

 でも、トーマは。


『ーーまだ』

『まだ?』

『好きになれねーだけかもしれないだろ』


 私に可能性を持たせてくれた。

 何より、仲間だと言ってくれたんだ。

 大変だった。とても。

 でもそれ以上に感じるのはーー。




「良かった、です」


 何の飾りもない率直な感想。私のこの気持ちを伝えるにはどうしたらいいか。


「いろいろあって大変でした。けど」

「けど?」

「それ以上に色々な体験や話ができて。無人島で過ごした一日は貴重な一日でした」


 本当に色々な事を体験した。今までしたことのない事をたくさん。それに、トーマとも仲良くなれた……かも。なんて。


「だって。良かったね、トーマ」


 私の隣、イヴァンの視線からして手前にいるトーマに向けられる目。それには何か別の意味が含まれているような気がしたのか。


「俺は別に……」


 食事の手を止め、俯き加減になるトーマ。その横顔はどことなく迷いのある表情。


「あれ? 楽しくなかったんだ」

「……」


 当たり前だろ。あんな地獄みたいな場所。ーーそう思って言おうとして、喉元で止めたように見えたのは私の気のせいだろうか。

 一息ついたところで食事が始まる。

 一つ、訂正しなかった事がある。私の「良かった」は、イヴァンの言う「楽しかった」という意味ではなかったこと。

 あの出来事があって、トーマと距離を縮められた気がしたから。それにレイ相手とだって、いつものような余計な気を使うことなく、違和感なく喋れて実は少し浮き立った。


『レイさん、起きて下さい』

『……』


 私が洞窟に着いた時もまだレイは寝ていた。でも寝起きはいいのかむくっと起き上がり。そしてもう一度名前を呼ぼうとすると。


『レイさーー』

『レイでいい』


 わけ分からぬ訂正をしてきて。

 そう呼んでますけど?と、頭にクエスチョンマークを浮かべながら今の状況を伝えた。


『皆さんが迎えに来てくれましたよ。レイさんも早く行きましょう』


 一緒に船のある港まで歩いて行ったけど、何と無くレイがむすっとした顔をしていたように見えた。たぶん気のせいだと思う。

 彼はずっと無表情だし。彼の変化に気づけるほどのものは、私と彼の間には無い。


「私、初めて釣りというものをしたんです」

「ああ、ユリウス、魚食べたんだ?」

「はい」


 自分から無人島でのエピソードを切り出すと、すぐにイヴァンが相槌を入れてくれる。


「魚の丸焼き、どうだった?」

「少し抵抗感ありましたけど、美味しかったです」


 イヴァンの訊き方からして抵抗感あるけど。お腹が空いていたせいもあってか、本当に美味しかった。

 ーー空腹は調味料。やっとその言葉の意味が分かったような気がする。


「ユリウスとイヴァン、何か仲良さそう」


 悲しそうな声音で言ったナギくんを見れば、悲しげな顔をしていた。

 どうしてだろう、仲良くしてはいけないのかな。そもそも会話しただけで仲良さげに見えるって、私たち今までどんな関係に見られていたんだろう。

 確かに、食事中はナギくん以外の人とまともに喋った事ないけど。悲しげに言うほどでもないと思うけどな。良い事だよ、きっと。


「僕となんかよりトーマとの方が仲良いんじゃない? 今回の事で更に友情が深まったみたいだし。友情以上の感情も芽生えちゃったりして」


 否定要素を入れたイヴァン。

 誰からも返答なし。


「……ちょっと、ガツガツご飯食べてないで僕の話聞いてよ」


 イヴァンの視線は私の隣にいるトーマに向けられている。トーマ自身はお腹が減っているのか、一言も喋らず食べ続けていた。


「メシくらい食わせろよ。てかお前、俺たちを殺す気か。ハブのいっぱいいる無人島で一日過ごせなんて冗談じゃねえよ」


 食べながら反発するトーマ。


「こりゃダメだね」


 呆れて諦めたイヴァン。

 食事を進める中、一人考えていた。


(……なんか、今の会話の中で違和感のあるものがあった、はず)


 んー、と考え気づく。

 イヴァンが自分の事を「俺」ではなく、「僕」と言っていた事に。

 どうして、かな。そんな対した事じゃないと思うけど、一人称を変えるなんて。

 例えるならば、私が自分の事を僕と言っているようなものだ。






 屋上の甲板。イヴァンと二人、何をしようというでもなくここにいる。……本当は彼に呼ばれてここに来たのだけれど。


「ねえ。君の母親って、どうして亡くなっちゃったの?」


 手すりに座り、海の遠くを見ている彼の髪が、見えない風によってそよぐ。


「不慮の事故で、亡くなったんです」


 どうしてそんな事を訊いてきたのかは知らない。でも今日はなぜか彼からおふざけ要素が抜けていて、何でも真剣そうに訊いてくるからちゃんと答えていた。

 初めてだ。この事を教えたのは。


「誰かに殺されたとかじゃなくて?」

「え?」


 私に向けられた顔と目。

 目は真っ直ぐとしたもので、顔と掛け合わせると少し信じがたいような、驚いているような表情をしていた。

 

 どうしてそんな事を言ってくるのだろう。

 まさか私のお母さまが誰かに殺されたとでも思ってたの。


「お母さまは、誰かに殺されるような恨みを持たれたりする人じゃありません」


 そんなふうに思われていた事に少し腹が立ち、きつめに言い放った。

 だって、お母さまは根から優しくて良い人だ。人によって態度を変える事をしなければ、威張ったりした事なんて一度もない。

 困っている人がいたらすぐに駆け寄って。自分より相手の事を大切にするような人だった。


 ……て、あれ?


 イヴァンは「そう」と小さく答えていた。でも私は、私は。

 どうしてお母さまの事をこんなにもよく知っているのだろう。

 と、ふと思った。

 だって私は、小さい頃にお母さまを亡くして。それもどうして亡くなったのか詳しく知らなくて。それでいて何かがポッカリと空いてしまっている気がするんだ。


 お母さまとの記憶が曖昧で。

 今にも消えてしまいそうで。

 正直、本当に私にお母さまがいたのか不安になる自分がいる。


 ……お母さま。


 記憶なんてものは戻らない。自分の体験してきた事を記録しているんだから。消えてしまえば戻る事はない。消えてそこでお終い。


 ……私はどうしたらいいの。


 深く考えずにいたこと。

 今日までずっと。

 でもいつからか気づき始めていた。

 お城にいる時から。


「イヴァンさん。私……」


 目の前にいる彼に頼るしかなかった。

 今はまだ真剣そうな彼に。


「ーー何してんだよ」


 え……。

 振り返ればそこにはトーマがいた。

 少し険しそうな顔。

 ネックレスの事でイヴァンのことを警戒しているのかもしれない。


「トーマ、これは……」


 ただ話をしていただけ、と弁解しようとしたところ。感心したような声が。


「へえー。お姫様が誰かを呼び捨てにするほど仲良くなったんだ」


 雰囲気ががらりと変わった。

 瞳の奥が黒く光る。


「俺、妬いちゃうな」


 ……あ、イヴァンの一人称変わった。というより元に戻った。僕じゃなく、俺、って。

 何を境目に変わるのだろう。


「ユリウス、行くぞ」

「えーー」


 ぼけーっとイヴァンの事を眺めていると、グイッと引かれた腕。

 一瞬揺らぐ視界。

 行くってどこへ。と問う間もないまま階段を下りていく事になった。

 

「あの……。トーマ」


 機嫌の悪そうな彼は、私の手首を掴んだまま乱暴に階段を下りる。


「あいつにはもう絶対近づくなーーあいつといても良い事なんてねえから。それにまた、そのネックレス取られるぞ」


 トーマ。イヴァンの存在を否定している?

 私の事を思って言ってくれるのは嬉しいけど、イヴァンはトーマの仲間なんでしょ?

 そこまで強く言わなくても。


「トーマ」


 階段を下りきった所で、さっきよりも強く彼の事を呼ぶ。

 ーー手を離して。という気持ちも込め。

 ああ?と不機嫌そうに振り向くトーマ。

 意外にも迫力があって。


「えっと……その、手を」


 ぎらっとした目から逃れるように、自分の手首のところを見つめる。

 するとそこでようやく気づく。


「あ、ああ」


 ぱっとぎこちなく離された手。

 ……。


「トーマ、何か変」


 率直に、思った通りの気持ちを伝える。

 自分でもその事を分かっているのか、彼は言い返すことなく静かに聞いている。


「イヴァンは、トーマの仲間の一人なんですよね。それなのにそんな言い方ないです」


 私のせいで皆の仲を、仲間というものをこじらせたくない。気持ちからそういうものは壊れてしまうのだと、何となく分かるから。


「私のために言ってくれているという事は分かります。でも、そんなに心配されなくても私は大丈夫ですよ?」


 あなたがいなくても一人でやっていける。

 彼にはそう聞こえただろう。


「あっそ……」


 小さな声。背を向けて行ってしまった。

 少し、剣のある言い方だっただろうか。心配してくれている彼に失礼な態度をとってしまっただろうか。

 でも、私は子供ではないから。

 危ない人だと決めつけて、避けるような事はしたくない。そもそも彼は、イヴァンは悪い人ではないと思うんだ。


 最初は悪い人だと思っていた。お城からネックレスを盗んだ海賊ーー私の物だと分かってもただ面白がって返してくれない人だと。

 けれどこれもまた違う。


 内容は違うけれど、彼ーーイヴァンは私を、少しの間自由にしてくれた。


 島に降りたいか訊かれた事がある。少しの間、自由になりたくはないかと。

 素直でない私は、そんな事どうでもいいというような態度をとってしまったけれど。


 結局、島に降りる事になって。急にイヴァンが「じゃあ、くじ引きってことで。先端の赤い棒を引いた人が今日一日、無人島でユリウスと過ごす特権を貰えまーす」なんてゲームみたいな真似事して。

 無人島で一日、一緒に過ごす事になったのはトーマとレイの二人だった。


 個人的に、トーマとは仲良くなれたと思う。レイとは、普通に喋れるような仲に。

 私の考えすぎかもしれないけど。彼ーーイヴァンはそこまで考えておかしな提案を出してくれたのだと思う。


 私を思って。私と彼等とのぎこちない関係を見破っていて、してくれたのだと。

 ……そう、思いたい。

 現に、トーマと普通に喋れているのはイヴァンのおかげだから。


 イヴァンにお礼を言った方がいいのかな。

 屋上の甲板を見上げる。

 ここからは見えない姿。

 でも彼は気づかれないようさりげなくフォローしてくれたのかもしれない。そう思い、階段に向けていた体を半回転する。


 ……後でトーマにもお礼言わなきゃ。


 ちょっと変な空気になってしまったけど。

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