第9話 ある村での出来事 ー5ー
あれは夜だった。そう夜だった。
あの日、僕は冬ごもりの準備のためにくたくたに疲れ果て、泥のような眠りの中にいた。
冬ごもりというのはその名の通り、冬を越す準備のことだ。
ねじまき村では秋は短い季節と考えられていたので、夏が終わり、風が涼しくなり、肌寒い空気が辺りに満ちると、皆冬を越す準備をはじめる。
だから僕はいつもと違う作業に疲れ果て深い眠りについていたのだ。
あの時、どんな夢をみただろう……
そうだ。たしか僕は夢の中で床に散らばった本を整理していたのではないかと思う。そう、きっと僕は夢の中で黒の館にいたのだ。そして、丸椅子に座り、僕の隣で本を読みふけるクアドラに尋ねた。
いつになったら本の片付けを学んでくれるのか、と。
すると、クアドラの口がおもむろに動き、こう答えるのだ。
「ねぇユーリ、それは散らばっているのではないの。読みかけなの。だからそれはそこにそのまま置いておくのよ」
無理な相談だと思った。黒の館は常に整理整頓されていなければならない場所なのだ。だからそんなことなど許されない。
「ねぇユーリ。こう考えてはどうかしら。物事には深いわけがあるの。
例えばここに落ちている本たちだって、きっとここにこのように散らばる理由があるの。
私やあなただってそう。私たちはきっと何か理由があってここにいるの。
私たちの仕事はそれを考えることよ。
どうしてこの世界には天があり、雄大な大地があり、そしてそこに私とあなたがいるのか。どうして私とあなたは同じ時間を共有しているのか、もっと私たちは知らなければならない」
クアドラの手にかかれば、ただ本を片付けたくないという怠惰な欲求がおかしな運命論に化けてしまうのだから不思議なものだ。
僕は鼻で笑いながら床に散らばった本を拾い上げてゆく。
すると、突然クアドラが僕の腕をつかんだ。
「いいことユーリ。考えるの。すべてのはじまりを。私とあなたがここで出会った意味を。あなたは薄々感じているはずよ。
この出会いはただの出会いではない、と。
私たちはもっと深く暗いところでつながっているの。きっと私たちはそうなるために出会ってしまったの」
僕の腕をつかんだクアドラの体が黒く変色し、更にヘドロ状になり段々と形が崩れてゆく。僕は必死にそのヘドロから腕を剥がそうとするのだが、ヘドロが掴んで放さない。
「欲しいんでしょう理由が。私じゃなければならない理由が。……あなたはめんどくさい男の子だから、しっかりとした理由がほしいのよね?」
床にヘドロが沈んでゆき、僕の体もそこに引きずられるように沈んでゆく。助けて、と声をあげようと思っても声がでない。
「ならばあげるわ。とびっきりの理由を。どうしても私じゃなければならない理由をね。……さぁ起きて。ユーリ起きるのよ。そこにきっとあなたが欲した理由があるわ」
本棚がぐにゃりと左右に曲がり、床が盛り上がり、トロトロのチーズが垂れてくるように、天井が垂れ下がってきた。
世界の全てが歪み、揺れ、僕の肩が強烈に揺さぶられているような気がした。
肩が揺らされ、揺らされ、揺らされた。
僕は現実に引き戻され、目をあけた。
僕の家の茅葺の天井と父さんと母さんの顔が見えた。
父さんの両腕が僕の肩をゆすっていた。
「父さん?」と僕が言うと、父さんは自分の人差し指を唇にたて、静かにしろ、というジェスチャーをしてきた。
意味が分からなかった。
どうして喋べっちゃいけないんだ?
父さんの顔つきが尋常ではなかった。
目が赤く充血し、顔全体が緊張に包まれ、ただ事ではない空気を醸し出していた。そして、それは背後に佇む母さんも同じであった。
視線があたりをさまよう。まだ暗かった。夜なのか? と思った。
窓越しに赤い光が見え、その赤い光が揺れているように見えた。
それに何故か真夏の昼ように部屋中が暑く感じる。
赤い光? 火? 火事か? どこかの家が燃えているのか?
ねぇ、と口を開けかけると、父さんがまた人差し指をたてた。
もう、本当になんなのだ? 火事なら急いで逃げなきゃならないし、もしくはこれ以上火が燃え広がらないように消しに行かなければならない。
なのに、父さんも母さんもこんなところで何をしてるんだ。
そう思った次の瞬間、誰かの叫び声が聞こえた。
「きゃあああああああああああああああああああああ」
僕は布団から体を起こした。
「誰かぁああああああ助けてぇえええええええ!!」
キャルの声だった。僕は布団を放りなげ、助けに向かおうと立ち上がると、父さんに羽交い絞めにして止められた。そして、口を手で押さえられた。
何をするんだ父さん! と僕は父さんの手の中で叫び声をあげた。
キャルが火事に巻き込まれてるっていうのに、こんなところに黙って隠れている父さんと母さんの気が知れなかった。
すると、父さんが緊張感のこもった小さな声で僕に耳打ちしてきた。
「外には化け物がいるんだ。だから家の外に出ることはゆるさん」
――!? 化け物? は?
なにをいっているのだろう? と思った。
正気ではない。父さんも母さんも。
キャルが苦しんでいるのに。それなのに。
だが、僕の正面にまわりこんだ母さんの目は真剣そのものであった。母さんは瞳に涙を溜めながら首を左右にふった。
でも……、でも……キャルが――
その瞬間、ものすごい爆発音が鳴った。
家全体が衝撃でガタガタと揺れ、窓の外に見える赤い光が更に大きくなり、次に熊とも狼ともつかない動物の唸り声が聞こえた。
その声はかなりの重低音で、巨大で獰猛な動物を連想させた。
今の爆発音はなんだ? あの動物の唸り声は? なんだ? 一体なにがおこなわれているんだ?
頭の中が混乱と焦燥感によりグルグルとかき乱されてゆく。
息が苦しくなり、ドクンドクンと脈打つ心臓の音がハッキリと聞こえた。あまりの訳の分からなさと恐怖で全身から冷汗が流れ始める。
すると、また父さんが耳打ちしてきた。
「修行者様だ。修行者様が狂ったんだ……」
僕は大きく息をのんだ。
父さんは小さな声で話をつづけた。
「すでに俺が中央広場に着いたときには何かが始まっていたんだ。誰かの死体が広場に転がり、酷い有様で……、村長の家が燃えていた。修行者様が燃やしていたんだ。あちこちから悲鳴が聞こえ、修行者様は逃げ惑う人々に次々と炎の魔法をあびせていった。すると、その炎の中からアイツは現れたんだ。見たこともない大きな化け物だ。目は4つあり、足は8本か9本。体はうちの家より大きくて……。とにかく――」というところで父さんの口が止まった。
どうしたのだろう? と思っていると、ドン、ドン、という何かの足音が聞こえた。たぶん近くだ。振動が僕らにまで伝わってきたのだから。
僕はへたり込み、布団の上にうずくまった。
それは父さんと母さんも同じで、僕らは寄り添うようにして肩を震わせた。
僕は何かに導かれるように黙って窓の外を見た。窓の隙間から火が轟々と立ち上っているのが見えた。やがて、何者かの荒々しい息遣いまで聞こえてきた。
「ぎゅゅゅ、ひゅるひゅるひゅる」
それは明らかに人間の息遣いの音ではなかった。だからといって、熊もこんな息遣いはしないだろう。
足音が段々近づいてくる。
僕らはベビに睨まれたカエルのように微動だにできなかった。すると、突然足音が早くなり、僕の家のすぐそばで止まった。
バクンバクンバクン、心臓が早くなりすぎて壊れてしまいそうだった。
次の瞬間、建物が壊れるような大きな音と声が聞こえた。
「やめろおおおおおおおおおおお!」
それは隣に住むダンおじさんの声だった。
窓の隙間から沢山の毛が見えた。それはまるで熊のような、毛むくじゃらの何かであった。
窓の隙間からダンおじさんが見えた。
叫ぶおじさんは大きな怪物に掴まれると、いくつかの触覚により逆方向に体を引っ張られ、弾け飛ぶように体がバラバラに引き裂かれた。
腸や胃が地面にぼとぼと落ち、骨は触覚にこびりついた。
息ができなかった。いつの間にか膝が震え始めていた。
すると、ちょうどその怪物の脇からダンおじさんの奥さんが逃げてゆくのが見えた。僕の家から遠ざかるように、遠くへ、遠くへ走ってゆく。早く、もっと早く逃げて! と思ったその時、奥さんの前に立ちふさがったのは白い肌と漆黒の衣服で身を固めたクアドラだった。
クアドラはまず右手をあげた。
すると、その右手の指先から糸のような細く長い紐が現れ、地を這うように奥さんの片足に絡みつき、つんのめる形で奥さんは地面に倒れ込んだ。
次にクアドラは奥さんにむかって左のてのひらを広げた。
奥さんは急いで立ち上がろうとするが、細長い紐が一瞬のうちに両足に巻き付き、どうすることもできないようだった。
奥さんのか細い声が聞こえた。
「やめて……やめて修行者様。私たちが何をしたというの、私たちが――」と言いかけたところでクアドラのてのひらから炎が放たれた。
奥さんの体は一瞬のうちに炎に包まれ、耳鳴りがするほどの悲鳴が辺りに満ちた。
信じられなかった。
僕はクアドラがこんなことをするだなんて到底信じられなかった。
全然分からなかった。
なぜクアドラがこんなことをしているのかも、
なぜクアドラがこんなことをしなければならないのかも、
何もかもが分からなかった。
開いた口を閉じることができなかった。
ドン、ドンという足音と振動と共に化け物がまた歩きはじめる。
クアドラがいる方向とは別の方向に……。
それはとても奇妙な光景だった。
恐らく化け物には確実にクアドラが見えているはずなのに、まるでそれが見えていないかの如く、化け物はゆったりとした足取りで別の獲物を物色し始めたようだった。
ここに至り僕はようやく召喚獣を思い出した。
クアドラが地面に絵を描き呼び寄せたという召喚獣だ。
アレは主人であるクアドラに従順であった。
この化け物と行動が似ている、と思った。
大きな唾が僕の喉を通り抜けた。
クアドラなのだ。やはり、こんなことをしているのはクアドラなのだ。
でも……なんでクアドラはこんなことを……
全然分からなかった。
クアドラがなぜこんなことをするのか。
村の人々は彼女に暖かく接していたはずだ。
どうして……、どうしてなんだ……クアドラ。
また大きな爆発音が聞こえ、家全体がその爆風に揺れる。
遠くで化け物らしき動物の獰猛な唸り声が聞こえた。
僕は父さんを見た。これ以上ここに留まるべきじゃない、と思い、今度は父さんにむかって耳打ちした。
「なんでここから逃げないんだ父さん」
「逃げられない」と父さんは小さく言った。
つまり、こういうことらしい。
まるで城壁のような炎がねじまき村をぐるりと取り囲んでおり、この村から一歩も外にでることができないのだそうだ。
それで納得がいった。
父さんと母さんがここに留まり続けた理由も、窓から見える赤い光の正体も、何故この部屋が真夏のように暑いのかも……。
妹のフィーナはまだ自分の布団で寝ていた。
寝ている理由はわかる。恐らく起こしたら僕と違い感情のコントロールができずに叫んでしまうからだろう。だから、父さんも母さんもフィーナを起こさなかったのだ。
ここで母さんが小さな声で提案した。
ダンおじさんとレンブラーおじさんと僕の家で共同で使っている物置が、ちょうど 僕の家の裏手にあるのだが、そこに逃げ込むのはどうだろう、と。
今は冬ごもりのための色々な荷物をあそこから出して村長の家に置いてきたばかりなので、たしかあそこは4人が身を隠せるだけのスペースがあるはずだ。
僕はうなずいた。というより、それしかない、と思った。
だって、ダンおじさんは家に籠っていてもやられたのだ。ならば、もうそうするしかない。
ダンおじさんの四散する姿が僕の目に焼きついて離れなかった。
あれは嫌だ。
ああなるのだけは嫌だ。
くそう、くそう、くそう、くそう! あいつ、あの女! クアドラめ!
父さんが眠るフィーナを背中におぶり、大きくうなずいた。
心臓が張り裂けそうなぐらい大きくなっていた。
膝が震えていたので、ちゃんと走ることが出来るか分からなかった。
こんなところで死にたくなかった。みんなで生き残りたかった。
やるしかない。やるしかないんだ。しっかりしろ、ユーリ。
僕は太ももにまで達した震えを抑え込むように手で力強く膝を抑え込み、窓を睨みつけた。向いの家が赤い光に照らされ、やけに明るく見えた。
外に出ていくのが怖かった。でもやるしかないのだ。
僕は大きく深呼吸をし、立てかけてあった斧を握りしめた。
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