第6章 再びの夏

第52話 エース潰し(前編)

 そして、ついに「彼女たち」の2回目の夏が始まる。3年生になった羽生田と辻にとっては同時に「最後の夏」になる。


 結局、公式戦1回戦までに、正捕手の伊東の怪我は完治せず、代理で辻がキャッチャーを務めることになり、セカンドには1年生の田辺を起用するしかなくなった。


 課題になっていた、守備の連係こそようやくまともな形になったが、早くも一抹の不安を抱えながら、迎える1回戦。

 対戦相手は、ほとんど聞いたことがない無名校だった。


 川越かわごえ商業大付属高校。事実、昨年の秋大会では初戦負け、同じく夏でも2回戦負けのチームだった。


 誰もが警戒していないように見える中、試合まで数日となった迫った、ある日のミーティングで一人、マネージャーの鹿取だけは、難しい顔をして、対戦相手のデータを眺めていた。


 何かあるのかと聞いてみると。

「気をつけて下さい」

 とだけ口にした、彼女は再びデータと睨めっこをしていた。


「何がだ?」

「この川越商業大付属と当たった対戦校のエースが、全員、試合の途中で交代しています」


「はっ。んなもん、相手が弱くて話にならねえから、2番手を出しただけだろーが」

 いつも以上に強気な清原が吠えていたが。


「いえ。それが対戦校のエースが全員負傷退場してるんです。なんでも、『エース潰し』と言われる選手がいるそうです」

「『エース潰し』だあ? 上等じゃねえか。向こうがやる気なら、あたしが潰してやる」

 すっかり喧嘩モードになっている、清原が両拳を合わせて吠えるが。


 やはり鹿取の表情は浮かないように見えた。

 俺にはわからなかったが、彼女は本能的に「危険」を感じているのかもしれない。それは彼女がDVに遭ってきた過去に由来するのかもしれない。


 そして、その鹿取の「予感」が的中する。


 試合前。


 今回も、昨年と同じように埼玉県営大宮公園野球場で開会式を終えた後、2日目の第1試合が行われたが、場所は川越市になった。


 川越市営初雁はつかり公園野球場。中堅110メートル、両翼91メートルで、内野はクレー舗装、外野は天然芝、収容人数が10500人ほどの、比較的古い球場だ。


 その球場のベンチから相手チームを観察すると、相手校の選手はいずれも「普通」の女子高生に見えた。オーソドックスな黒と白のユニフォーム姿だが、どこにでもいるような高校生に見える。特段変わったところはないと思ったのだが。


「あいつ。ヤベーな」

 清原が相手ベンチの中央にいた女子生徒を睨みつけるように見つめていた。


「何がだ?」

「ああ。あれは『格闘家』の目に似てるんだよ」

「格闘家? 気のせいじゃないのか?」

「だといいけどな」


 清原の不気味なほどの静けさと、睨むような鋭い目つきが気になったが、もしかしたら、格闘家としての「野生の勘」が彼女をヤバいと感じるのかもしれない。


 清原の視線の先にいたその生徒は、確か「岸川きしかわ」という名前の3年生で、大柄な体躯、短髪を持ち、筋肉質の腕が目立つファーストの選手で、相手チームの主将であり、4番を打つ選手だった。

 俺から見れば、少し目つきが悪いだけの、普通の生徒に見えた。


 だが、不思議なことに、彼女は4番を打つ割にはあまり長打がなく、単打が多い。打率はそこそこ高かったが、ホームランがほとんどないのが不思議な選手だった。


「プレイボール!」

 すでに、公式戦にも慣れてきた彼女たちがフィールドに散って、試合が始まる。


 先攻が三塁側の川越商業大付属。後攻は一塁側の我が校だった。


 先発オーダーは、以下のように決めた。


1番(一) 吉竹

2番(捕) 辻

3番(右) 笘篠

4番(三) 清原

5番(中) 羽生田

6番(遊) 石毛

7番(左) 平野

8番(二) 田辺

9番(投) 潮崎


 控えの選手は、投手の工藤、外野手の佐々木、そして怪我をしている伊東だ。

 去年は、一人もベンチ入りできずに、ギリギリの人数だったことを考えれば、まだ希望が持てる。


 1年生より打順が下位の潮崎、そして先発から外れた工藤は、俺に対して不満そうに顔を向けてきたが、それをいちいち聞いてやる余裕は俺にはない。


 試合は順調な滑り出しに見えた。

 先発マウンドに立つ潮崎は、これが2年目だし、もちろん彼女に限らず、渡辺先生の強烈な「しごき」に耐えてきた上級生たちは、覚悟が違った。


 初回から、1、2番を得意の緩急をつけたピッチングと、決め球の2種類のシンカーでゴロに打ち取り、2アウト。


 3番には、珍しくボールが先行し、というよりも見極められて四球を与えるが、恐らくあれは伊東ほどの配球精度を持たない辻のミスだろう。


 そして、4番を迎える。


 岸川麻美きしかわあさみ。右投右打の3年生で、主将。守備位置はファースト。

 確かに目つきは鋭く、腕っぷしも清原に負けず劣らず強そうには見えた。


 ところが、彼女は初球から見てきた。

 というよりも、潮崎の変化球には手を出さなかった。追い込まれてからもカットで逃げていた。


 そして、7球目だった。


 潮崎のストレートに反応した岸川のバットから快音が響く。

 綺麗なセンター返しだった。正確にはピッチャー返しだ。


 だが、その打球が潮崎の足元に迫っており、彼女は慌てて軸足、つまり右足を上げてかろうじてボールをかわしていた。


 瞬間、岸川が苦々しい表情を浮かべているようにも見えた。


 しかもその打球の勢いが強く、鋭いライナー性で飛んでおり、二塁手の1年生、田辺が追い付けずにセンター前ヒット。


 2アウトながら、一・二塁となる。


「あいつ。もしかして、狙ってないっすか?」

 たまたま近くに座っていた工藤が呟く。


「えっ。狙ってって、ピッチャーを? そんなこと出来んですか?」

 マネージャーの鹿取が驚いて彼女の方を見る。


「まあ、センター返しってのは野球の基本だから珍しくはないが、ピッチャーを狙って打つには、相当な技術がいる」

 工藤の代わりに俺が答えると。


「それって反則じゃないんですか?」

「いや。ピッチャー返しがたまたま当たったところで、全然反則にはならないが」

 俺がそう説明すると、鹿取は黙ってしまったが、工藤や鹿取は何かを感じ取ったのかもしれない。


 結局、その回は後続を打ち取り、失点には繋がらなかった。

 戻ってきた潮崎に、あのピッチャー返しについて聞いてみると。


「いやー、たまたまですよ」

 と呑気のんきな顔をしていた。


 そのまま試合はしばらく動かなかった。

 というのも、相手校のピッチャーが意外にも曲者だったからだ。


 オーソドックスな投げ方とは少し違い、リリースポイントが見えにくい変則的な投球フォームをするピッチャーで、球種がわかりづらい。


 球種としては、スローカーブと、スライダー、ごくたまにフォークを投げる、珍しくはないタイプで、球速もそこまで速いものではなかったが。


 初物はつものとして、苦戦した我が校は0行進が続き、一方で潮崎もなんだかんだで、いつものようにのらりくらりとかわし、コーナーを突く投球で、相手を凡打に打ち取っていた。


 4回表の川越商業大付属の攻撃。

 先頭の3番バッターに、外角のストレートを逆らわずに流し打ちにされ、ノーアウト一塁。再び岸川を迎える。


 今度は初球だった。

 一瞬の出来事だった。


 ストレートを狙い打ちした岸川の打球が、初回と同じように、いや正確には初回よりも速いスピードで潮崎の足元を狙っていた。


 気がつくと、潮崎が右足を抑えたまま、マウンドにうずくまっていた。軸足の右足のすねの部分に打球が直撃していた。人体では弱い部類に入るし、ここに当たると想像以上に痛いものだ。


 キャッチャーの辻がマウンドに駆け寄る。

 当然ながら、俺も心配になる。実は野球において、球速というのは、投球よりも打球の方が速い。つまり、ノーバウンドのライナーの当たりがピッチャーに当たると、デッドボールを受ける時よりも、危険ということになる。


 早速、タイムを告げて、控えの佐々木にコールドスプレーを持たせ、マウンドに向かわせる。


 場内が騒然とする中、潮崎はコールドスプレーを浴びていたが、やがてその佐々木の肩に捕まりながら、苦しそうな表情でゆっくりとベンチに戻ってきた。


「大丈夫か?」

 さすがにエースの負傷に、真っ先に声をかける。


「だ、大丈夫です。多分、骨には行ってないと思います」

 潮崎はそう答えていたが、顔面が真っ青になっており、足を見せてもらうと、当たった部分が紫色になっていた。


 これはさすがに投球を続けさせるわけにはいかない。


 俺は、仕方がないから工藤に声をかける。

「工藤。行けるか?」


 だが、当の工藤は、エースの負傷を目の当たりにして、むしろ気合いが入ったように、目を輝かせていた。


「当たり前っすよ。むしろ面白いっすね。向こうが喧嘩吹っ掛けてくるなら、あたしにもやり方があるっすよ」

 いつものように、というよりいつも以上に強気な眼光が鋭いように感じた。


「工藤さん。気をつけて。あいつ、狙ってくる」

 その潮崎の言葉にも、


「わかってるっすよ、先輩。任せて下さいっす」

 それだけ言って、さっさとマウンドに向かってしまった。


 「エース潰し」。その由来がようやくわかったのだった。あの岸川という選手は、こうやって相手チームのエースを狙って「潰して」きたのだろう。


 だが、それは恐らく血のにじむような特訓を積まないと、普通はできない。単なるセンター返しではなく、相手ピッチャーの足をわざと狙うなどというのは、普通では出来ない。


 それを本当に寸分の狂いもなく出来るとしたら、厄介な相手だった。


 だが、面白いことに、マウンドに上がった工藤は、一塁ベースにいる、その岸川を鋭い目つきで睨みつけていた。


 岸川は岸川で、不敵な笑みを浮かべながら、挑発するかのように、工藤を睨み返している有り様。


 場内は、女子高校野球らしからぬ、「喧嘩」モードに突入していく雰囲気があった。


 工藤にとって、これが公式戦初マウンドだったが、いきなりランナーを得点圏に背負った場面になった。


 彼女の投球は「冴えて」いた。少なくとも俺の目にはそう見えた。

 続く5番に対し、強気にインコースを攻め、相手は速球に詰まり、引っ張った打球がレフトへ飛ぶ。


 だが、ここでレフトの平野が落球でエラーをしてしまう。やはり「守備」に関しては、まだまだのところがある彼女だった。


 マウンドの工藤は、苦々しげにレフトの平野を睨んでいたが、気を取り直したのか、続く6番に対峙する。


 ノーアウト満塁の大ピンチになる。


 6番には、速球で押した後、決め球にフォークボールを使った。速球とほとんど変わらないフォーム、速度で急に落ちるボール。普通は打てない。


 だが、6番バッターは、これにかろうじて食らいつき、ボールの上を叩いた。


 ショートゴロになり、ショートの石毛がキャッチし、セカンドの田辺に送る。

 田辺は慣れた手つきで、キャッチして二塁ベースを踏み、一塁に送って、吉竹が掴み、ダブルプレー。


 田辺は、1年生ながらソフトボール経験者であるためか、動きには無駄がなく、フィールディングもキャッチもスローも淀みがなかった。


 その間に三塁ランナーが還って、失点となる。

 もっとも、この失点は、自責点としては潮崎のものになるから、工藤にはつかない。


 ところが。三塁手の清原が右足を抑えてうずくまっていた。

 審判が試合を止める。


 俺はベンチにいたから、聞こえなかったが、後で聞いた話だと、三塁付近では以下のようなやり取りがあったという。


「悪ぃ悪ぃ。足が当たっちまったわ」

 三塁に滑り込んだ岸川のスライディングした足が清原の右足首に当たっていた。このラフプレーに反応したのは、当然、サードの清原だ。


 蹲ったまま右足を抑え、鬼のような形相で、睨みつけ、

「てめえ。わざとやりやがったな」

 岸川に詰め寄る。さすがにヤンキーと言われるだけのことはあり、ドスの利いた声と迫力があった。


 が、

「あん? わざとだ? 何の証拠があんだよ。野球ってのは、『激しい』スポーツなんだよ」

 岸川も怯む様子を見せなかった。


「てめえ」

「なんだよ?」

 睨み合う二人。

 塁審が二人をなだめるように、間に入って止める。


 清原の元にはショートの石毛が駆け寄っていた。


 改めて岸川の恐ろしさを実感する。恐らく、あれはわざとやったプレーだろう。高校生らしくないと言えば、それまでだが、意地でも勝ちに行くチームなのかもしれない。


 清原が立ち上がり、プレーは再開された。


 続く7番を例の癖球気味の、ムービングファストで追い込み、フォークボールで三振に切って取り、この回は最低失点で切り抜ける。


 戻ってきた清原に声をかけると、苦々しげな表情で、

「あの野郎、ふざけやがって」

 目が完全に座っていた。


 現状、サードの清原の代わりの選手はいない。かろうじて、田辺が出来そうだが、そうするとセカンドがいなくなる。


 人数が少ないチームの欠点でもあった。


 試合は、意外な方向に進んで行くことになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る