第36話 憧れの人

 最後の9人目。9番を打つ、潮崎唯。ポジションはピッチャー、たまにライト。


 潮崎は、ラフな黄色いパジャマのような上下のスウェット姿で現れた。セミロングの綺麗な髪の毛が少し濡れていた。


 恐らく、面談が最後になるため、他のメンバーが面談をしている間に、シャワーにでも入っていたのだろう。

 妙にかぐわしい、シャンプーの匂いを漂わせながら、入ってきて、俺の顔を見て、笑顔を見せた。


「お前の場合は、聞くまでもないと思うが、やっぱりお兄さんの影響か?」

 彼女の兄がプロ野球選手であるため、先手を打って、聞いたつもりだったが。


「そうですね。もちろん、それが直接のきっかけですけど」

 そう言ってから、彼女はゆっくりと過去を紐解くように話し始めた。


「最初に野球を始めたのは、小学校低学年の頃です。すでに兄はリトルリーグで活躍してました」

「やっぱりそうか。身近に最大のお手本、というか目標みたいな奴がいればな」

 俺としては、そう思っていた。


 つまり、人間にとって、生まれてきてから数年間は一番「家族」と接する時間が長い。その家族に、「野球」をやっている人間がいて、しかもそれが一流なら、なおさら強い影響力を受けるだろう、と。


 ところが、彼女が次に発した言葉が、俺にはあまりにも意外なものだった。

「きっかけは、確かに兄ですよ。私は兄に追いつこうと必死になり、ピッチャーを目指しました」

 それは容易に想像できたのだが。


「でも、私が本当の意味で、野球好きになったきっかけを与えてくれたのは、森先生ですよ」

「えっ? 俺?」

 驚いて、目を丸くしていた俺に対し、彼女は微笑みながらも、昔を懐かしむように遠い目をしてから、静かに口を開いた。


「6年前。あの夏の甲子園のことは忘れられません」

 そこからは、潮崎唯の回想が語られた。



 2056年、8月。

 全国高等学校野球選手権大会。


 そこで俺は、地元の高校野球チームのエースとして、甲子園に出場していた。当時、高校3年生。最後の夏だった。

 その時の俺は、スタミナもあったし、最速150キロを超える速球と、スライダー、カーブ、そしてフォークを武器にしていた。


 試合は順調に進み、いよいよ決勝戦。


 相手は強豪として名高い、九州の高校だった。

 エースとして、それまでの試合をほぼ一人で投げてきた俺は、この最後の試合も先発を任される。


 6回まで相手の強力打線を1失点に抑えながらも、味方が得点を取れず、結局、最終的に試合は0-1。


 最小得点差で、相手チームに負けて、準優勝となった。

 あの時の悔しさは、一生忘れられない。


 同時に、たった1球の「失投」が打たれたことで、自分の投球を責めていた。悔しくて仕方がなく、悔し涙を浮かべながら、最初で最後の夏の甲子園を終えた。


 それでも、見ていてくれる人はいて、試合が終わってからプロのスカウトが実際に家に来たこともあったが、俺は自分の技術の拙さと練習不足を深く後悔しており、大学野球の道を選んだ。


 だが、その時に潮崎の姿などどこにもなかったと思う。

 というよりも、俺が彼女に会ったのは2年前が初めてだから、まだ俺たちは「出逢い」すら果たしていなかった。いたとしても当然、気づくはずがないのだが。



「バックネット裏。一番ピッチャーの投球がよく見える場所。そこで私は兄と一緒に観戦していたんですよ」

 潮崎の口から語られた衝撃的な真実だった。


 当時、彼女はまだ10歳。小学4年生の潮崎は、兄の影響で野球を始めてからまだ1年ほどだったという。


 だが、決勝戦で盛り上がる甲子園の熱狂的なアルプススタンド、そしてその大観衆の中で、投げる俺の投球が、とても印象に残ったという。


「カッコよかったなあ、森先生。あ、まだ森先生じゃないから、森投手かなあ」

 照れ笑いを浮かべながら、遠い目で回顧する潮崎。


 だが、面と向かって、いきなり「カッコいい」と言われれば、嬉しい反面、やはり照れ臭くて仕方がないのだった。


「改めて言われると、なんか恥ずいんだが……」

 頭を掻きながら答えると、


「先生が恥ずかしがらないで下さい。私まで恥ずかしくなります」

 目を伏せてしまった。


 何だか気まずいような、照れ臭いような、微妙な空気感がその場に漂っていた。


「とにかくです」

 ようやくその空気感を打ち破るように、元気な声が彼女から聞こえてきた。


「私の野球好きの原点は、ある意味、森先生。あなたですよ。だから、ちゃんと責任取って下さいね」

 責任を取れ、というその一言。

 女性が男性にそう言う時は、大抵、「結婚」を連想させてしまうと思うのだが。


 俺は、そう考えると、無性に恥ずかしくなってきていた。もちろん、彼女はそんなつもりで言ったわけではないだろうが。

 傍から見てても、彼女は容姿で言えば、笘篠ほどではないが、可愛らしいところがあるから、なおさらだった。


「責任って、どうするの?」

「ちゃんと私を甲子園に連れて行って下さい」

 予想通りというべきか、彼女の答えはそれだったが。


「そういうのは、自分の力で行かないと意味ないんだぞ」

 少しいじわるにそう告げると、彼女は頬を膨らませて、


「わかってますよー。言葉の綾じゃないですか」

 と不満そうだった。


 ようやく、場の空気が少しだけ、和んだところで、潮崎は急にもじもじと恥ずかしそうに下を向き、そして次の瞬間、すがるような上目遣いで、


「あの……。森先生。また昔みたいに、私のこと、下の名前で呼んで下さい」

 と言ってきたから、俺は一瞬、胸が高鳴るのを感じていた。


(悔しいけど、可愛い)

 不覚にもそう思ってしまうほどの破壊力が、その表情と仕草にはあったが、相手は教え子で、しかも女子高生だ。


 さすがにこれ以上はマズい。

「いや、それはさすがに。お前だけ下の名前なら、他の生徒と差別してしまう」

 仕方がないから、正論で逃げることにした。実際に、俺はいつの間にか、彼女のことを「潮崎」と呼ぶようになっていた。

 もちろん、建前上は他の生徒と差別してしまうことを恐れてだったが、単純に、下の名前で呼ぶのが恥ずかしいという気持ちもあった。


 だが、

「えーっ! だって再会した時、呼んでくれたじゃないですか!」

 大袈裟に声を上げた後、彼女は、


「どうしてですか? 私は、森先生が私の家庭教師になってくれるって聞いて、すっごく嬉しかったんですよ。あの1年のことは絶対、忘れられません」

 力強い眼差しを向けて、訴えるように、畳みかけてきた。


 ある意味で、女子高生というのは、パワーがあって、勢いがある。「若さ」とは怖い物知らずと同義でもある。


「いや、しかしだな……」

 たじたじになり、俺は目を逸らして、話題を変えようと模索していた。頭の中に、彼女との思い出と、同時に、代替テーマとすべき、別の話題が駆け巡っていた。


「じゃあ、せめて二人きりの時は、そう呼んで下さい」

 その潤んだような瞳を向けて、捨てられた子犬のように、必死に懇願してくる彼女の仕草が、不覚にも可愛らしくて仕方がなかった。


 ついこの間まで、子供だと思っていたのに、子供の成長は早いと感じる。しかも、女子は男子より精神的に早く成長する。


 潮崎は、元々持って生まれた、容姿の可愛らしさでは、笘篠には劣る。だが、笘篠のような「計算」高い、あざとさのような物がなかった。


 どこか、純粋で、世間知らずで、屈託のない笑顔を浮かべ、少女と大人の境目にいるような、危ういような可愛らしさを持っている。

 言い換えれば「性格」の可愛らしさと言ってもいい。


 もちろん、その特徴的な、大きな目や細い手足を見る限り、容姿の面でも十分に可愛い部類には入るのだろうが。


「……唯ちゃん」

 仕方がないから、押し負ける形になった俺が、渋々、そう呟くと、


「何ですか、森先生?」

 露骨に嬉しそうに、まるで犬が尻尾を振って表現するかのように、満面の笑顔を浮かべる彼女。


(これは、二人きりになるとヤバい)

 ある意味で、俺は「身の危険」すら感じているのだった。


 天然で、破壊力もあり、しかも彼女の中では、俺はずっと「憧れの人」になっているわけだ。

 彼女のことは、嫌いではなかったが、いきなり女子高生と深い関係になるのも、さすがに憚られる。


 というより、そんなものが発覚すれば即クビで、俺は社会的に終わって、人生を棒に振ることになる。


 昔から、教師と生徒は「禁断の愛」をはぐくんできたが、初めての教師としての赴任先で、いきなりこんな展開が待っているとは思っていなかった。


 それに絡んで、俺はもう一つ、聞いておくべきことがあったのを思い出していた。


 それは、彼女の家のことだった。

 2年前。家庭教師として彼女の家に行った時は、所沢市に住んでいたはずだ。


 だからこそ、俺は秩父のこの学校への赴任が決まった時、まさか彼女と再会するとは思っていなかったのだが。


 理由を聞くと、

「中学卒業のタイミングで、一家で引っ越したんですよ。この秩父市に」

 という意外な答えが返ってきた。


「なんで?」

「うーん。お父さんが言うには、『自然が溢れてる場所で子供たちを伸び伸び育てたい』だそうです。まあ、私にはよくわらかないですけどね」


 つまり、たまたま彼女の家が所沢市から秩父市に引っ越しをし、たまたま俺がその秩父市にある、武州中川高校に教師として赴任したから、再会したわけだ。


 ある意味では、奇跡的な偶然の再会とも言えるのだが。


 人生とはわからない物であり、同時に「人」と「人」との出会いは、「一期一会いちごいちえ」でもあり、「必然」であるともいう。


 そう考えると、俺と彼女の「再会」も必然だったのか。

 結局、二人の微妙な関係はそのままになり、二人きりの時だけ「唯ちゃん」と呼べ、と半ば強制的に約束させられたようなものだった。


 もっとも、俺は多分、恥ずかしくて今さら「唯ちゃん」とは呼べないと思うのだが。



 ちなみに、余談だが、最後にマネージャーの鹿取とも面談をやった。

 彼女の場合、野球を好きな理由よりも、「男性恐怖症」の原因を聞きだすのが目的だった。


 そして、どうやら彼女は幼少期に、父親によって「虐待」を受けていたことがわかった。その父親はすでに母親と離婚したらしいが。


(重いな)

 どちらかというと、明るい生徒が多い我がチームの中で、彼女が一番、ツラい過去を背負っているようだった。


(しょうがない。優しくしてやるか)

 さすがに少しかわいそうになって、俺は鹿取には同情するのだった。


 そして、秋季大会が始まる。

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