百魔剣物語——聖女と魔導師と生命の魔剣——

せてぃ

序章

Breaking Dawn

第1話 明けの明星

『高度五千。当機の限界高度です。目標は雲海の下。天候の予想、調査通りです。こちらの位置は悟られていません』

『降下口開きますよ。装備の確認を』


 男女二つの声が、凍てつく空気を震わせ耳に届く。身に付けているものの確認を促された少女は、腰掛けていた鉄製の硬い椅子から立ち上がり、陽光色の髪を両の手でかき上げた。肩までの髪は緩く波打ち、鉄で覆われた部屋の、僅かな光源に反射して光輝く。ため息が出るほど整った顔立ちと合わさり、その容姿は美少女と呼ぶに足るものだったが、ひどく冷たく、近寄りがたい印象を放つ。それはこの『作戦』に対する緊張と、責任の重圧のせいだった。立ち上がり、声のする方に向けて、にこり、と見せた笑み。そこには伝声管しかなかったが、見るもの全てに幸福を分け与えるようなその微笑みこそが、『聖女』と呼ばれる彼女の常の表情だった。


『降下中は基本的にシホ様のお力でどうとでもなるでしょうから。ただ今次作戦の性質上いつもの重い鎧と言うわけにもいかないだろうと思いまして』


 早口な上にはっきりとした句読点も抑揚もない、特徴的な男の声に従い、シホと呼ばれた少女は、身を包む衣服を確認した。身体に密着する黒い衣服は革製で、断熱性が非常に高く、内張りに使われた薄い毛織物のおかげで、着ていてとても温かい。防具、という面では確かに鎧には劣るものの、今回の『作戦』には最適の品といえた。


「問題ないわ。ありがとう、クレマン」

『……シホ様、本当に行かれるのですか?』


 心配そうな声を出したのは、女性の方だ。彼女は十以上歳上であるが、シホはいつも彼女に愛らしさを感じる。ある専門知識の天才的才能を持つが、その声はいつもどこか頼りなく、子どものように愛らしい。


「ノエル。心配してくれてありがとう。あなたとこの『鉄の処女アイアンメイデン』がなければ、この作戦は立てられなかった。改めて感謝するわ」

『あ、ええと……あ、ありがとうございます。ですけどその……こんな危ないことを、シホ様がなさるのは……』

『……降下位置に到着。シホ様準備よろしいか?』


 シホはクレマンの言葉に答え、腰に巻き付けた短剣に手を伸ばした。淡い光が短剣から発し、シホの全身が光を放ち始める。


光の障壁バリア・ルミヌズ


『力ある言葉』をシホが紡ぐと、淡い光はシホを包んで強い輝きを放つ。同時にシホの鳶色の瞳が、


装着プロフト

『それではよろしいですねシホ様。降下口、開口』


 早口のクレマンは、シホの返事も待たずに所定の操作を行ったらしい。途端、鉄で覆われた部屋に警告音が鳴り響き、シホが向き合っていた壁が、外に向かって倒れ始める。僅かに壁と天井に隙間が出来たその瞬間、雪崩れ込んできた外の空気と内の空気がぶつかり合い、暴風と言っていい風が起こって、シホをなぶった。だが、光の魔力の障壁を自身に纏ったシホには、外気の冷たさも、強い風の衝撃も、何も感じられなかった。いや、正確に言うならば、それが起こっていることはわかるが、気温も衝撃も、実際よりは遥かに少ない変化でしかなかった。シホの金色の髪は揺れていたが、それはそよ風の中にいる程度のものだ。

 ゆっくりと倒れていく壁の向こうから、強い光が差し込む。シホは目を細めた。壁の向こうは、眩しい光に溢れていた。


『夜明けです』


 壁が倒れ切る。床と同義になった壁の向こうに見えるのは、いままさに顔を出した日の燃えるような光と、それに照らし出され、強い陰影を刻む真白な雲海が足元の広がる景色。

 これが空の上、雲の上の世界。


「……きれい」


 感嘆を漏らしながらも、シホは一歩ずつ踏み出していく。部屋の中から倒れた壁の上へ。倒れた壁の先端へ。歩くほどに、雲海は近づき、シホが想像した以上の、世界の美しさを伝える。

 これ以上前に進めない、限界の位置で立ち止まったシホは、そこで視線を頭上に向けた。そこには船の船首の下面があり、さらにその背後には、その船を遥かに凌駕する巨大さで膨らんだ、筒状の何かがそこにあるはずの蒼天を覆い隠していた。シホはそれが何かを知っているので、すぐに想像出来るが、それが特殊な布によって作られたものであり、その中身は魔力によって制御される『空気よりも軽い空気』で満たされていて、元々はただの船舶でしかなかった『鉄の処女』と接続することで、大空高く浮かび上がらせているなどと、正確に理解出来るものはこの世界でも数限られた人数しかいないだろう。

 空中飛行艦船『鉄の処女アイアンメイデン

 シホが新たに手にした、強大な敵と戦うための戦力である。


「さて、と……」


 シホは正面に向き直る。背後、『鉄の処女』の下層甲板に当たる一室に設けられた伝声管から、クレマンかノエルか、どちらかの声がしていたが、吹き付ける風にかき乱されて、もう聞き取ることは出来なかった。だからここで、自分が何かを言ったとしても、二人に届くこともないだろう。後は事前の手筈通り。遅滞なく立案通りに進行させるからこそ、作戦は最大の効果を発揮する。大丈夫。上手く行く。わたしにはそう信じられる人たちがいる。シホは自身が信じ、自身を信じてくれる人たちの顔をひとりひとり、思い浮かべて目を閉じると、次に開いた時には表情から一切の感情を消した。この空の同じ、何人にも近づかせない、冷たい空気を再び纏うと、呟いた。


「これより『明けの明星作戦』を開始する」


 強く、『力ある者』の声で紡いだシホは、床となった壁の先端で、前のめりに身体を倒した。傾斜はそのまま戻ることなく、シホの身体は『鉄の処女』を離れた。瞬時に雲海が眼前に迫り、シホは頭から真っ逆さまに落ちていった。

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