【後編】_the Blue

Section5 / Tamaki

// 紫陽花

 たまに、あの日の夢を見る。

 監禁され、狭いアパートの一室で紫陽しようくんと共同生活を送っていた頃の、その最後の日の夢。


 八丈島でスミレと過ごしたあの時のように、うちは紫陽しようくんと一緒にご飯を食べて、テレビを見て、家からは出られなかったけれど、紫陽しようくんの部屋で快適に過ごしていた。

 紫陽しようくんの家に唯一あった小説、『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』。当時のうちには少し難しかったけど、紫陽しようくんとその本の意図を考察したり、いつかの未来の話をした。楽しかった。


 紫陽しようくんはデッサンも好きで、よくうちに可愛らしい服を着せて絵を描いていた。本当は美大に行きたかったとつぶやく紫陽しようくんの声には、怒りも悲しみも悔しさもなくて、それがひどく印象的だった。その絵はいつも白黒で色を塗られることはなかったけど、白黒の濃淡だけで造られた世界は綺麗で、木炭が紙を擦る音を聞くのが好きだった。


 紫陽しようくんが作ってくれるトマト缶と鯖の煮物はすごく美味しくて、「美味しい!」って言うと、紫陽しようくんはものすごく嬉しそうに笑ってガッツポーズをしていたっけ。うちは本気で料理人になって店でも開けばいいのにと思っていたほどだ。そうしたら、あの素敵な白黒の絵もたくさんの人に見てもらえるのに、と。


 ——あの日々の場面が切り取られ、切り替わり、そして、紫陽しようくんの最期の日がやってくる。

 監禁生活が終わり告げるその日。


 うちが、人を殺した日。


 その日起きると、いつも締め切られている窓が開いていた。アパートの窓から久しぶりに青空を見る。窓から顔を出すと、薄紫色の紫陽花あじさいが綺麗に咲いていた。いつの間にか梅雨の時期になっていることに驚いた。

 紫陽花。紫陽しようくんと同じ、「紫」と「陽」を持つ花。紫陽花の花びらのような蟹足腫ケロイド紫陽しようくんの顔に舞っていて、彼はそれにものすごくコンプレックスを抱いていた。


 久しぶりの外の眩しい世界。新鮮な空気。雨上がりの匂い。

 それを感じて、唐突に家に帰りたくなった。

 監禁されてすぐは叫んだり、床や壁をダンダン慣らしたものだったけど、いつしかそれもしなくなった。うちの監禁状態も緩くなって、その気になればきっと抜け出すチャンスは何度もあったんだろうけど、うちはそうしなかった。

 だって、うちがいなくなったら紫陽しようくんはきっと死んでしまうと思ったからだ。

 自殺未遂も頻繁にして、何度それを止めたか覚えていない。状況を考えればそのまま死なせれば良かったけど、そうはできなかった。今思えば、彼は死ぬ気なんてなかったんだと思う。それでもうちは彼を止めた。そうして欲しいのだと思ったからだ。

 最初こそ憎んでいたけれど、紫陽しようくんは可哀想な人だった。幼いながら、うちは彼を同情していた。彼はうちを必要としていた。何よりもうちを優先して、大切にしてくれた。誰かに必要とされているという実感が心地良かった。

 その心情は、ストックホルム症候群——誘拐事件や監禁事件などの被害者が、犯人と長い時間を共にすることにより、犯人に過度の連帯感や好意的な感情を抱く現象のことを指す——を発症させていたことによる紛い物だったのかもしれないけれど、出会うタイミングさえ違ったら、と、そう思わなくもない。


 うちは窓から紫陽花を眺めていた。

 助けは呼ばなかった。

 けれど、涙がでた。


「帰りたいな……」

「そうだよね」

「!」


 眠っていた紫陽しようくんはゆっくりと起き上がると、ものすごい勢いで窓を閉めた。暴力的な音が響き、久しぶりに背筋が寒くなる。

 久々に外の世界を見たことで、実感してしまったのだ。紫陽しようくんは誘拐・監禁する犯罪者で、異常者だということを。


「どうしてそんな目でボクを見るの」

「し、よう、くん」

「ボクのこと、そんな、怪物を見るみたいな目で見るな……」


 紫陽しようくんは、自らの顔に咲いた紫陽花を引っ掻く。内出血を起こし、花びらは薄紫色に染められ、より一層紫陽花のようになった。


「ち、ちが」

「帰らないでよ、いなくならないでよ。楽しいって言ってたじゃないか、ボクはキミにそばにいて欲しくて、だから、だからぼくはキミのために、お金だって、時間だってたくさん使った。ボクはキミが必要なんだよ、誰よりもキミのことを必要としている」

「怖いよ、紫陽しようくん、怒らないで」

「キミだって、ボクのことを必要としているはずだ!!」

「ッ————!!」


 台所にある包丁が目に入る。うちは咄嗟にそれを手に取った。


「ボクを殺すの!? ボクが怪物だから!? だからやっつけるの!? ひどいじゃないか! 許さない、赦さない!!」

「うわぁああああ!!」


 紫陽しようくんの心臓を、包丁でひとつき。

 うまいこと骨の間をすり抜けたのか、包丁は容易く紫陽しようくんの体の中へとその身をうずめる。ちょうど、鳥のモモ肉に包丁を入れたような感じがした。実際には違うのかもしれないけど、当時の私の記憶ではそんな感じがして、だから今でも料理は、というより、肉を切ることがひどく苦手だ。


 ゴリっという音がしたあと、一泊おいて、静かに血が滲み出る。時代劇のようにブシャっと返り血を浴びることはなかった。


「血だ……」


 紫陽しようくんが傷口に触れると、その大きな手は一瞬で真っ赤になった。

 心臓から噴き出る血の量は凄まじく、服もあっという間に真っ赤になる。


紫陽しようくん! ああ、どうしよう、ごめんね、うち……」


 よせばいいのに、うちはその真っ赤になった紫陽しようくんの手に触れて、自らの服でぬぐった。汚れを無かったことにするように、紫陽しようくんの赤くなった手を必死に元に戻そうとしていた。

 紫陽しようくんは微笑むと、うちの目から溢れたものをすくった。


「泣かないで、キミは悪くないよ。ボクの方こそ、キミを怖がらせてごめんね。ううん、それだけじゃない、ボクは、キミに……」


 包丁はいまだ紫陽しようくんの胸に留まったままだ。

 紫陽しようくんは包丁のつかを握るとそのまま引き抜き、そしてもう一度包丁を胸に突き刺し、口から血を吐き出した。


「今まで、怖くてできなかったのに、キミのためだと思うと簡単にできたよ」

「う、うちの、ため……?」

「人を呼ぶ前に、手と、顔を洗って、血を流すんだ。服も着替えて。そうしないと、キミがボクを刺したことがバレてしまう」

「し、紫陽しようくん……」

「これで、大丈夫。ボクは自殺したと言うんだよ。今までありがとう、たまきちゃん。ごめんね」






 そして、うちは紫陽しようくんの言う通り血を洗い流し、服を着替え、玄関を開けて助けを求めた。


 紫陽しようくんがうちを誘拐監禁した理由は最後までわからなかったけれど、きっと誰でも良かったんだろう。彼はただ寂しくて、寂しくて、誰かと一緒に居たかった。その相手として、たまたま捕まえやすそうなうちが選ばれただけ。

 当時は華奢で、外遊びせずに稽古漬けだったうちは、色白だった母の遺伝を遺憾なく発揮して、病的なほどに真っ白だったのだ。その反動で、今は海で真っ黒に日焼けしてしまったわけだけど。


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