ある変質者との邂逅
@KBunBun
ある変質者との邂逅
ゴトン、と鈍い音を立て、電車の扉が開く。その向こうに、ブラジャーを着けた一人のおじさんが立っていた。
おじさんはおそらく五十代半ば。太っていて、ボタンがはち切れそうなズボンの上には脂肪の団塊がぼこんと乗っている。その腹は毛深く、胸も毛深い。その胸というのは薄いピンク色のレーシーなブラジャーに覆われているのだが、太っているせいで胸があり、ブラジャーが本来の役割を果たしているように見えた。
マジかよ、これっていわゆる変質者では?
初めて生の変態を見た俺は、内心おったまげつつ、そそくさと横を通りすぎた。他の乗客達も動揺しながら目を逸らし、あるいは軽蔑の念を込めてじろじろ眺めながら電車を降りていく。しかしおじさんはそれには構わず、眼鏡の奥の小さな瞳でじっと前を見据えているだけだった。電車に乗り込もうとする様子もない。
こういう場合、駅員とか警察に通報した方がいいんだろうか? いや、それは俺の仕事じゃないな。スマホはリュックに入れてしまったし、さっさと帰ってレポートを仕上げなければ。それに、彼の行為によって俺が何か被害を被ったわけでもない。そっとしておくのが良いだろう。そう考え、俺は人の波に乗って駅の階段を上り始めた。
これがおじさんと俺の出会いである。以降、彼と毎日顔を合わせることになるとは、この時の俺が知る由もない。
「え、ブラジャー着けたおっさん? それってヤバくね。どこの駅?」
「六甲。やっぱヤバいと思う? 通報とかした方が良かったのかな」
「でも、下半身露出とかじゃないんだろ? 隠すとこ隠してんだからいいんじゃね」
「確かに。もしかすると、あれがおっさんにとってのオシャレだったのかもしれんしな。アバンギャルドってやつ?」
「表現の自由は大事よな。てか、今日もいたりするかもよ?」
そんじゃまた明日、と付け足し、友人は特急電車に乗り込んだ。ガラス越しに手を振り合い、俺は小豆色の電車を見送る。
只今の時刻、午後四時半ちょっと過ぎ。四限が終わったため、本日の俺はこれから自宅に帰還できる。この時間に帰る大学生は多く、ホームはヌーの群れの如き学生の集団が占領してたが、その大部分は先ほどの特急に吸い込まれていった。ホームの人口密度は随分マシになっている。
俺は依然として人が密集している対岸のホームを眺めつつ、昨日の出来事について考え始めた。
あのおじさん、捕まったんだろうか。捕まるとしたら罪状はなんだろう? 「公然わいせつ罪」? いや、でも、下半身は露出してないしな。それに夏であれば、「もはやそれは下着だろ」みたいな服装をした女はいくらでもいる。彼女らが逮捕されないということは、あのおじさんも合法なのでは? いやいや、オッサンだぞ? あれはわいせつだろ。
まあなんでもいっか、もう会わないし。
そんなことを考えつつ、停車した普通電車に乗り込み、五分後には最寄り駅に到着。昨日と同じように、木目調の扉が開く。するとそこにはブラジャーを着けたおじさんが立っていた。
いや、おるんかい。しかも昨日と一緒のブラジャーじゃねーか。
やはり乗客は動揺し、あるいは軽蔑しながらおじさんを避け、俺もその波に乗ってそそくさ電車を降りた。その時ちらりとおじさんの様子を見たが、彼はやはりじっと前を見据えて立っており、電車に乗る気配はなかった。あの人、駅に降りるために電車代払ってんのかな。それか仕事の帰りとか? だとしたら大分ストレス溜まってんのかも。若干気の毒だ。
そう推測したが、おじさんは時間帯に関係なく立っていることが、後日判明した。
あの日以来、くだんの変質者は毎日その駅のホームに出没するようになったのだが、おかしなことに、四限終わりでなくてもそこにいる。俺が二限で帰る日もいるし、五限で帰る日もいる。つまり彼は正午以降ずっとそこに立っているということになり、露出はアフターワークの趣味などではなく、むしろそれが「本職」であると言えるわけだ。
一度、ベンチに座ってしばらくおじさんを観察したことがあるが、彼はどうも電車が停まっていない間は上着を着て待合室に座っているらしい。そうしていると、ただの地味な中年男性だ。そして電車が来るとおもむろに立ち上がって上着を脱ぎ、扉の数メートル手前に立つ。それを繰り返している。
知れば知るほど気になってくる。どうしてあの人はあんなことをするのだろうか。楽しんでいる様子もなく、ただじっとそこに立つのは何故なのだろう。
何かが解読できるかもしれないという期待を乗せ、俺は毎日必ず振り返り、ホックの食い込んだ背中のぜい肉を数秒見詰めるようにした。その背中には心なしか哀愁があり、俺の胸の奥に触れる何かを持っていた。しかし、そこからはっきりとした意図を読み取ることはできなかった。
珍妙なものでも、見慣れてしまえばなんてことない。おじさんが駅に現れるようになってから数か月経った頃には、俺も他の乗客もおじさんを気にしなくなっていた。むしろ、肌を刺すような北風の中で突っ立っているおじさんが、俺は若干心配である。待合室には厚手のジャンパーが置いてあるようだが、下があれでは上着を着ても寒かろう。ご自愛してほしいものだ。
こんな風に感じるのは、彼に対する愛着のようなもののせいかもしれない。おじさんにとって俺は降りてくる乗客の一人に過ぎないが、俺にとっておじさんはオンリーワンである。気にかけざるを得ない。
それを友人に話すと、案の定ゲラゲラ笑われた。
「恋かよ。ほんとクレイジーだわー、いくらなんでもストライクゾーン広すぎだろ」
「違うって、ずっと見てるとなんでも親しみ湧くもんじゃん。ほら、いっつも見かける警備員さんが雨の日も傘もささずに立ってたら、『お疲れ様です』って思うだろ?」
「あー、それは確かに。でも、差し入れするほどではなくね? やっぱお前変わってんな」
「だってクリスマスだよ? 寒空の下でブラジャー着けたオッサンがクリぼっちとか、考えただけで涙出る」
「出ねえよ。ま、とにかく良いお年を」
「うっす、良いお年を」
友人は手を振って特急電車に乗り込み、俺はそれを見送った。
本日は今年の授業の最後の日で、これから二週間ほど大学は休みになる。ちなみに、今日はクリスマスだ。友人が言っていた「差し入れ」とは、帰り道で買ってきたケーキと自販機のココアのこと。おじさんが今日も出勤していたら、勇気を出して声をかけてみようと思う。
そして俺は乗車、数分後に降車、続けておじさんの姿を確認した。やはり彼はおなじみのピンク色のブラジャー姿で、寒さに小刻みに震えながらも突っ立っている。
俺はおじさんの数メートル後ろで電車と人波が去るのを待ってから、手袋越しに彼の肩を軽く叩いた。
「はい?」
眼鏡を直しながら振り返るおじさん。
初めて聞く彼の声が案外普通であることに驚きつつ、俺は軽く会釈した。
「あの、初めまして。俺、いつもこの駅で降りてる者です」
「あ、はい。毎日お見掛けしてます」
「俺もです」
おじさんが俺を認識していた事実にもびっくりだが、まさかこんなに一般的な会話が成り立つとは。てか、今の光景シュールじゃね? 男子大学生とブラジャーのおじさんが普通に話してるとか、これはもはやアートの域じゃん。俺には理解できん。
そう思いながらも、俺はケーキの箱を掲げる。
「クリスマスケーキあるんですけど、良かったら一緒にどうですか」
おじさんはあぜんとして俺を見詰めた。
しかし数秒後、照れたように眼鏡を直しつつ、「それではお言葉に甘えて」と頷いたのだった。
やれやれ。顔しか知らない人に、突然「ケーキどうですか」とか、一歩間違えれば変質者だよ。おじさんが寛容な心の持ち主で助かった。
なんて完全に感覚が麻痺した感想を頭の中で呟きつつ、現在俺は駅の待合室でおじさんとケーキを食っている。待合室は、狭いためか暖房が効いており、かなりポカポカしていた。それに明るい。冬の午後六時半はすっかり夜の帳に包まれているが、ここにいれば夜闇の物寂しさも幾分マシだ。おじさんがここをベース基地にするのも納得である。
「すみません、色々用意していただいて。これ、わざわざ私のために?」
できるだけ暖房に当たろうともぞもぞ移動していた俺に、おじさんはフォークに突き刺した苺を掲げて見せた。俺は頷く。
「せっかくクリスマスですし、ほっこりしてもらいたくて」
「ありがとうございます、おかげさまであったまりました。いや、嬉しくなっちゃうなあ、誰かと過ごすクリスマスなんて久しぶりなんですよ。ほんと、嬉しくなっちゃうなあ」
そう言いながらおじさんはココアを口に含み、頬を緩めた。肩に羽織ったジャンパーがずり落ちそうになるのを引っ張って止め、もう一口ココアを飲む。そしてまた頬を緩める。俺は今まで真顔で仁王立ちしているおじさんしか見てこなかったので、この光景が不思議に思えた。そもそもブラジャー着けたオッサンが駅でケーキを食ってることを不思議に思えよって話だが、そんなものは慣れてしまえばどうにでもなる。
しかし、考えてみれば、確かに俺はおじさんのことをほとんど知らないようだ。座ったところもほとんど見たことがなかったし、笑ったところも見たことがなかった。そもそもこの人、どうしてこんな恰好してるんだ? 気になり始めると止まらなくなる。
よって俺は、おじさんがケーキを食べ終わったのを見計らって尋ねてみた。
「あの、おじさんはどうしてそんな恰好でホームに立ってるんですか? それも、ほとんど日がな一日」
おじさんは、「ああ、それはですね」と、なんでもない風に答えた。
「勿論、沢山の人の目につくようにするためですよ。この駅は人が多いと思って」
「それってつまり、おじさんは変態ってことですか?」
「いや、違うんです。私は下着姿を見られたいわけではなく、気持ち悪がられたいだけなんです」
「やっぱり変態じゃないですか」
「違う違う、そうじゃないんですよ。なんというかですね……、私は別に、見られることで興奮したりするわけじゃないんです。これには理由があって、理性じゃどうにもならないんですよ。いわゆる『罪の意識』が私を突き動かすんです」
罪の意識?
意外なワードに、俺はケーキの箱を畳む手を止めた。おじさんは暗い表情をしてココアの缶を弄んでいる。いつも背中に滲んでいるもの悲しさが、彼の全身を包んでいた。
そしておじさんは、ぱっと俺の方を向き、眼鏡の奥の瞳でじっとこちらを見詰めた。
「ずっと昔、友達が自殺したんです。ほんとに昔……、今の君くらい若い時、友達が首を吊ったんですよ。私の言葉が原因で」
俺はぎょっとしておじさんの瞳を見詰め返した。あんまりにも突然の話で頭が追いつかないが、少なくともこの人が他人を傷つけるような言葉を発するようには見えない。
「それって、ほんとにそうなんですか? おじさんが勝手にそう思ってるだけじゃなくて?」
「本当にそうなんです。本人が死ぬ前にそう言ったんですから、間違いありません」
「でも、それが今のおじさんの恰好とどう関係するんですか」
そこで踏切警報機が鳴る音が聞こえ、俺とおじさんは一旦黙った。特急電車が通り過ぎる。間もなく駅は静寂を取り戻し、おじさんは再び口を開いた。
「その友達、私の幼馴染だったんですよ。彼は小学校の低学年の時に事故で両親を亡くしたんですが、それからは私が彼の家族のようなものだったんです。兄弟みたいにずっと一緒にいました。小中高も同じで、大学まで同じ。それでも見抜けないことがあって……。あの日、彼が私の家に遊びに来たんです。そんなこと日常茶飯事で、私はいつも通りに彼にお茶を出しました。しかし、彼はいつも通りではなかったんです。いきなり真面目な顔になって、何を言い出すのかと思えば、その……」
「なんて言ったんです?」
「彼、本当は自分は女だって言い出したんです」
「『女』?」
「そう、『女』です。私は、こいつは何を言ってるんだって思いました。水泳の時間やら銭湯に行くときやらに見た彼の身体は、間違いなく男でした。だけど彼は、違うと言ったんです。そう、確か……、『身体は男で生まれたけれど、心はずっと女だった。本当は女の身体になりたいし、女っぽく話して、女の服を着たい』。そんなようなことを言ってから、彼は勢いよくシャツを脱いで見せました。その時、彼はブラジャーを着けていたんです。そしてもう一度、『私は女だ』って言ったんです」
おじさんは苦しそうに俯き、床を見詰めた。
「今思えば、そんなこと、私にとってはなんでもないことだったんです。彼が『彼』だろうが『彼女』だろうが、友達ならそれで良かったんです。でも、あの時はそう思えなかった。若くて無知だったから。それに、今ほどそういう問題が一般的ではなかったから。それで私、『気持ち悪い』と言ってしまったんです。『気持ち悪い』ですよ? そんな残酷なこと、よく口に出せたもんです。それで、彼は……、彼女は、ぼろぼろ泣き始めました。そしてまたシャツを着て、私に言ったんです。『あんたが受け入れなくて、他に誰が私を受け入れるの?』。そして次の日、彼女が自分の部屋で首を吊っているのを、彼女の祖父母が見つけたんです。遺書はありませんでした。私が受け取ったあの言葉が、彼女の遺書だったんです……」
おじさんの話はこんな風に続いた。
彼はその後罪悪感を抱き続けてきたが、何十年も経つうちに、それは記憶が薄れるのと同じようにだんだんと消えていったかのように思えた。しかし数年前、奥さんを亡くしたことをきっかけに、何故だかあの時の友達の記憶が思い出されるようになったそうだ。おじさんは毎晩友達の夢を見て、再び罪の意識を感じるようになっていった。そして、一年ほど前、衝動的にブラジャーを買い、それを着けて駅のホームに立つようになった。そうすることで、彼はあの友達と同じ種類の痛みを体験できる。そうしているとき、心が安らいだ。そしてそれがやめられなくなり、通報されそうになると別の駅に移ることを繰り返し、この駅に立つようになったのだと言う。
「こんなことしたって意味がないことは分かっているんですよ。きっと、妻が死んだ後の孤独が私にこんなことをさせるんですね。一人でいるから、一人でなかった頃のことを考えてしまうんです」
「他に友達とか親戚とか、一緒にいてくれる人はいないんですか?」
「私には子どもがいませんし、兄弟もいませんでした。それに、学生時代の友達とも疎遠になってしまって……。でも、きっとこれでいいんです。今はちゃんと彼女の気持ちが分かるんですよ。受け入れられるとか、優しくされるとか、そういうありふれたことを渇望するようになって、彼女がそういうものの価値をどれだけはっきり認識していたのかを知ることができました。ですから、さっき君が声をかけてくれた時、私は本当に嬉しかったんです。ほんとのほんとなんですよ、私、嬉しかったんですから……」
そう言っておじさんは、眼鏡を外して目頭を押さえた。やがて彼は肩を震わせ、鼻をすすり、嗚咽を漏らし始めた。大の大人が声を上げて泣いている。それも、「優しくされた」というだけの理由で。しかし、なんだか、おじさんの気持ちが分かるような気がした。優しい人は世の中に沢山いるが、その中で、自分に優しくしてくれる人がどれだけいるだろう?
俺はおじさんの肩からずり落ちたジャンパーを拾い、もう一度掛けなおして彼の背中を撫でた。
「じゃあ俺、おじさんのマブダチになりますね。ズッ友です。ニコイチかも」
我ながらアホな言葉だ。どういう風に声を掛ければ良いのか分からなかった。しかし、おじさんはいよいよ号泣し始め、俺はどうすることもできずにその大きな背中をずっと撫で続けた。
その日以来、おじさんが駅に姿を現すことはなかった。そして数年後のある日、スーツ姿の男が俺の家にやってきて、かのおじさんの遺産を俺が相続したという旨の話を伝えたのだ。
「まさかおじさんが富豪だったなんて。なんでいつも同じブラジャーだったんですか? お金があるなら買いかえれば良かったのに」
そんなことをぶつぶつ呟きながら、俺は一人でケーキを食っている。前の席にはくだんのブラジャーとワインの注がれたグラス、それにショートケーキが。つまり俺は、目の前にいると想定したおじさんとクリスマスを過ごしているわけだ。
おじさんが突然現れ、突然去った年から何年も経ち、俺は三十路になってしまった。おじさんの弁護士が俺に会いに来たのも、もうずっと前の話だ。あの日来た弁護士は、おじさんが遺書で俺を遺産相続人に指名し、他に親戚もいないため、俺が正式におじさんの莫大な遺産と豪邸を相続することになったと告げた。
「いやいや、んなわけないです。俺はしがない大学生ですし、おじさんと話したのは一回きりですよ。しかも、おじさんに名前すら教えてないし、あの人の名前も知らないくらいなんですから。もしかして詐欺とかですか……?」
「いいや、違いますよ。噛み砕いて言うと、彼、財力を駆使してあなたの個人情報を調べ上げたんです。あなたと会話したクリスマスからしばらくして、あの方が病気であることが発覚しましてね。長い間検査していなかったので、なかなか重い病気になっていたそうで。それで、急いであなたのことを調査したみたいですよ」
「駄目だ、何聞いても胡散臭く感じちゃいます」
「これを見ても同じことが言えますか?」
そう言って弁護士は例のブラジャーを鞄から取り出し、俺を仰天させた。
結果から言えば、それは間違いでも詐欺でもなく、現在俺は広い屋敷で悠々自適に暮らしている。
おじさんの遺産は俺が三回は人生を送れるほどの額で、就職する気も失せたことは言うまでもない。よって大学を卒業してからすることがなくなり、毎日近所の図書館に通い詰めた結果、そこの司書と親しくなった。俺より六つ年上の生真面目な変人で、ハリウッドで映画化するならメリル・ストリープが配役されるだろう。ヘップバーン風アップヘアとフォックス型眼鏡がトレードマーク。で、最近その人と結婚した。彼女が仕事へ行っている間、俺は庭を改造して作った畑を耕し、お手伝いさんが家事をしてくれる。夜になれば彼女と夕食を取り、今日あった出来事や次の海外旅行について話す。毎日が幸せだ。充たされ過ぎている。俺はおじさんが残したものを大樹のようなものだと思っていたが、それは実のところ種であり、もっと沢山の枝や実を持っていたのだ。
そして現在俺は、最初に貰った種であるブラジャーを見詰めている。これはおじさんの遺品の一つだ。普段は箪笥にしまって保管してあるが、クリスマスが来る度にこうして持ち出し、話しかけることにしている。これを着けたおじさんしか知らない俺にとっては、このブラジャーがおじさんそのものだった。
弁護士が持ってきた、遺書とは別の手紙を読み返した。
前略 驚かせてしまって申し訳ございません、駅に立つ変質者です。失敬極まることとは存じつつ、ご住所等の個人情報を調べさせていただきました。深くお詫び申し上げます。
さて、ケーキとココア、そしてあなたからいただいた並々ならぬ温もりのお返しとして、私の持つ、つまらないものの数々をお渡しします。どうぞお受け取り下さい。言うまでもございませんが、これは死なせてしまった友人の代わりにあなたを幸せにしようなどという投げやりな考えの結果ではなく、あなたのご厚意に対する純粋なお礼なのです。本当の本当にそうなのです。
死にかけのオッサンでありますので、取り急ぎ書面を持ってお礼申し上げます。優しいあなたの健康と幸せを願って……。
草々
あなたのマブダチ
こんな短い手紙では何も分からない。俺の胸は痛むばかりだ。
「おじさん。俺、なんでおじさんがこんなに良くしてくれてるのかさっぱり分かりません。ケーキ代のお返しにしては過剰じゃないですか? そりゃ、俺はおじさんのマブダチですよ。ズッ友でニコイチです。でも、おじさんにとっての『あんた』になるにしては、俺はあんまりにもおじさんのことを知らなかったじゃないですか。どうしてまた会いに来てくれなかったんです? 黙って俺を甘やかしたりして……。おじさんは優しすぎます。俺がおじさんに何をしてあげたって言うんですか? 何もしてませんよ。ほんと、おじさんは優しすぎます」
俺はフォークを皿に置き、机に突っ伏して泣き始めた。彼から与えられた無条件の愛情が未だに持続していること、そしておそらく俺が死ぬまで持続することが、波のように心の深い部分を揺さぶることがある。クリスマスは特にそうだ。今年もあと六日か、良い年だったな、おじさんのおかげで。毎年そう思い、ガキみたいに泣いてしまう。そしてブラジャーにぼそぼそ話しかけながら泣いている俺を見て、妻とお手伝いさんが気味悪そうにする。
やれやれ、まるであの時のおじさんだ。こうしてブラジャーは受け継がれていくのか。
俺は妻を呼び寄せ、隣の席に座らせた。俺にとっての「あんた」である妻に、この壮大な秘密を話して聞かせるために。俺が生まれる前に発せられた、「あんたが受け入れなくて、他に誰が私を受け入れるの?」という言葉は、おじさんの中で生き、俺の中に移された。それをまた別の人に移す。言葉の力は衰えず、繰り返される。「あんたが受け入れなくて、他に誰が私を受け入れるの?」
その晩、俺は夢を見た。俺と妻、特急電車のあいつ、お手伝いさん、おじさん、そして俺の想像上の姿をしたおじさんの友達。その六人で、賑やかに談笑しながらケーキを食う夢だ。おじさんとその友達はブラジャーをしていた。そしてみんな幸せそう。優しい人間ばかり。まったくもって、クリスマスにはうってつけの夢だった。
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