第2話:思いがけない災難に降りかかられると、そりゃ、あわてるよね〜

 そんなことを考えていると。


 ヒィヒーン!


 突然、幌馬車を牽くメヘルガル馬がいなないた。

 「!?」

 鳴き声がおかしい。

 何か、異常を感じた時の声だ。

 獣は人間よりも感覚が鋭い。

 何か、不測の事態が起きたのか。

 商人は周囲を見渡した。

 さざ波を立てる草原に異常は見当たらない。

 ミュルミドーンの畑はずっと前に過ぎており、左も草原だ。ヒトよりも大きな働きアリは見当たらないが、草むらに潜むオオカミの気配も感じない。

 赤毛とコボルト、護衛の冒険者は評判の腕利きだ。モンスターや盗賊のたぐいであってもよほどの規模でない限り、この2人が後れを取ることはないだろう。

 空は清々すがすがしく晴れて、わずかな雲が流れるのみ。雨模様は見えない。

 では、何が…と案じたが後ろは大きな幌で見えない。

 「何か、起きましたか?」

 高い御者台から見下ろして問う。

 「いや、あたりには何も……」

 「くぅ〜ん」

 赤毛の冒険者も犬男(犬女かもしれない)も当惑するばかりだ。

 「父さん…」

 愛息が腕にしがみついてきた。

 「おいおい…」

 大型の幌馬車が3台だ。護衛もいる。瓦礫街リュッダへ通じる道は治安が良く、悪い噂を聞かない。

 何を恐れることがあるか。

 「な…」

 息子にそう言いかけて商人は口をつぐんだ。

 おかしい。

 何かがおかしい。

 感覚が異常を告げている。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、それらのどれでもない。だが、おかしいのだ。

 「父さん!」

 息子が叫んだ。

 「くぅ〜ん!」

 コボルトが鳴く。

 「これは! あり得ない! あり得ないぃぃぃっ!!」

 赤毛が手綱を握りしめて目を見開いている。

 商人は懸命に左右を見渡した。

 目に見える異常はない。

 だが。

 「からだが…ヘンだよ!」

 息子の悲鳴が突き刺さる。

 「!」

 理解した。

 軽いのだ。

 身体が。

 浮くのだ。

 腰が御者台から。

 「ああああああああ…ああああああああああああ……」

 護衛の冒険者が空中で手足をばたつかせて泣き叫んでいる。顔は真っ赤で目から滂沱ぼうだの涙を流している。

 大の男が、いい年の大人が泣いているのだ。あまりのショックに。

 「おぅっ!」

 泣き声を上げる冒険者を責める気にはならなかった。商人が泣かずに済んだのは息子がいるからだ。息子の前で自分が我を失ったら絶望させてしまう。

 だから、冷静でなければいけない。

 それでも周囲の物質が重さを失い、浮きそうになっている。この異常事態をどう説明付ければいいのかわからず、商人は何とか悲鳴をこらえるしかなかった。


 ヒヒーン! ヒヒーン!!


 馬車馬も浮いている。はるかメヘルガル亜大陸で育った巨大馬が四脚を空中で掻いている。その蹄が蹴るべき地面はずっと下だ。

 「闇が来るっ!!」

 赤毛の男が叫んだ。

 そして…

 みるみるうちに世界が暗くなった。

 「うわぁっ!!」

 あまりの異常事態についに商人は耐えられなくなった。愛息の前でも叫び声を抑えられない。

 視界のすべてが影に覆われる。

 「これはっ!? この現象はっ!?」

 話には聞いていた。

 警告も受けていた。

 それでも自分はだいじょうぶだと思っていた。

 何の根拠で?

 何の根拠もない。

 只、自分は問題ないと思いこんでいた。

 只、モンスターや盗賊、街道を脅かすゴブリンの群れさえ警戒していればだいじょうぶだと高をくくっていた。

 商人は後悔した。

 だが、これを警戒してどうなる?

 これに対してはどうすることもできない。

 商人は商売繁盛を祈願していろいろな神殿、教会へおもむいた。いろいろな神に祈った。

 だから、知っている。

 豊穣神マァルトの巫女が、光明神ブジュッミの神父が、博打の神ズバッドの司祭が、そして、暗黒神ゲローマーの背教者さえ説いた。

 この世の恐怖そのもの。

 世界征服をくわだてる魔王ですら恐れおののく。

 この、周囲の物体が重さを失う不可思議な現象は、唯一、特別な、規格外の存在だけが引き起こす。

 商人はそれを知っていて、その可能性を頭から排除していただけなのだ。

 ようやくそれを承知して覚悟を決めた。

 商人は上を見た。

 空を見上げてしまったのだ。

 そして。

 「うわぁぁぁぁぁぁっ! うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 喉をつんざく絶叫は誰が発しているのか。

 自分の声だとさえわからなかった。

 それほどまでに混乱していた。

 混乱するしかなかった。

 見上げた先に空がなかったのだ。

 つい先ほどまで流れていた雲が失せていた。

 さわやかに晴れていた青空が失せていた。

 初夏の、まぶしい太陽が失せていた。

 草原を撫でていた風が失せていた。

 るのは金属光沢を輝かせる紫色のうろこの群れ。

 大空を覆って飛翔する超巨体。

 その左右に延びる翼はやはり紫に輝く2対。

 はるか遠く伸びる首の付け根に小さな翼が更に1対。

 街道の先を往く頭にちらり見える牙だけで幌馬車の何倍あろうか。

 それは天空の覇者…

 六翼の、大空を覆うほどに、とてつもなく巨大なドラゴンだった。

 「父さん…父さん、あれは何? あれは何なの? あれは…あんなの…見たこと…な…い…よ……」

 泣き声の息子に答えてやらねばならない。

 それが今、父親にできる唯一の役割だ。

 「あれは……」

 ごくり息をみこみ、何とか言葉を絞り出す。

 「唯一無二の、大いなるアストライアー……」

 頭上の超存在に呼びかけた。

 絶対者。

 この世でもっとも恐るべき者。

 いつの日にか、世界を喰らい滅ぼし尽くすであろう、最強にして最大のドラゴン。

 世に恐ろしいものは多々ある。幽霊だとか、疫病だとか、戦争とか、それら恐ろしいものが恐ろしいのは名前がないからだ。名前があればそれについて語れる、それについて語ればわかる、否、わかったような気分になれる。

 だから、名前を言えば怖さが薄れる。

 そんな理屈が思い浮かんだ。

 只の理屈だ。

 何の意味もない理屈だと今、思い知らされた。

 「神殺しの怪物……」

 見開かれた眼の下でポカンと口を開ける、そんな馬鹿面の息子をとがめる口は持っていない。

 このとてつもない、恐るべきドラゴンを表す言葉は数多あまたある。

 “暁光帝ぎょうこうてい”、

 “この世の真の支配者”、

 “あかつきの女帝”、

 “忍び寄る天災”、

 …そして、光明神ブジュッミの教会で声を潜めて囁かれる“あの女帝様”という呼び名も忘れてはならない。

 だが、もっとも知られている呼称が“神殺しの怪物”だろう。

 かつて地上を闊歩かっぽしていた神々を殺して追い払った、それは神話ではなく事実だとされる。

 なぜなら、追放された当の神々が預言者を通じて愚痴をこぼしているからだ。それも現在進行形で。

 だいたい、“唯一無二の、大いなるアストライアー”などという大層な呼称そのものがみずからの命乞いのちごいのために神々がけんじた尊称なのだ。

 “アストライアー”、それだけが本人の名前らしい。

 「ああ…」

 もう身体の重さがほとんど無い。

 自分の身が大地から離れて浮いてゆく。その心もとない感じは耐え難い、未知の恐怖だ。

 何もかもが浮いてしまっている。

 懸命に木靴のかかとを引っ掛けて身体を支えているが、すでに幌馬車自体が地面から浮いてしまっている。

 太陽が見えない。

 巨体で日光が遮られて周囲は夜のように暗くなっている。

 更に異常な風が吹き始めている。それは周辺から吹き込んで馬車と自分達を浮かそうとしているように思え、心臓をつかみ上げられるような恐怖を感じる。

 これもまたよく語られる現象で、軽くなった大気が浮力を得て上昇気流を起こすらしい。

 そのせいでどんどん浮いていく、ドラゴンがもたらした暗闇の中で。

 その龍は徐々に下降しているようにも見えて。

 この超巨大ドラゴンが着地すれば自分達はき者にされる。間違いなく。

 押しつぶされて血肉のかたまり、いや、地面と紫の鱗にり潰されて赤いみになって終わる。

 「父さん……」

 腕にしがみつく息子も商人自身も、その運命は風前の灯火ともしびだ。

 「ぐむぅ…」

 馬と一緒に浮いている手綱を握りしめて商人は必死に考える。

 周囲の物体すべてが重さを失って浮いている。これは暁光帝の重力魔法というものだろう。

 それは理解できる。

 では、なぜ、この超巨大ドラゴンはここにいるのか。

 この問いは無意味だ。

 暁光帝は海洋を越えて大陸間を行き来する、神出鬼没の存在、“忍び寄る天災”である。

 ここにいるのも単に気が向いただけだろう。

 『つぶした国は百を下らず、あやめた敵は万を下らず』

 古来より“暁光帝”というドラゴンをおそうやまい、おびえ続けた人間が唱えた言葉だ。しかし、これは嘘だと思う。この言葉が生まれてからだいぶつ。もう潰した国は百で数え切れないし、殺めた敵も万で数えられるわけがない。

 更に言えば殺された者は“敵”ではないのだ。

 真に恐るべき事実。

 それはあの超巨大ドラゴンが憎しみや敵意を抱いて殺した人間は只の一人もいないことである。

 殺された者はいずれも何かしでかして暁の女帝に敵対したわけではなく。

 単純に暁光帝がたまたまそこにいたから、暁光帝がたまたまそこを通ったから、只、それだけで大勢の人々が殺され、数多の国々が滅ぼされた。

 歴史を紐解ひもとけば民や臣下を虐殺した暴君は数あれど、無意識に殺して忘れる為政者はいない。

 だが、暁光帝は違う。

 『暁の女帝の御前では王も乞食こじきもない。誰もが等しく平等で、誰もが等しく無意味なんだよ。暁光帝から見れば人間など小指の爪ほどもない羽虫、いや、パウンドケーキに入ってるゴマ粒ていどの生き物だ』

 以前に酒を酌み交わした博物学者の言葉が思い出される。

 かつて、暁の女帝がこのエレーウォン大陸を東西に駆けたことがあった。何を思ったのか、曲がらず、飛ばず、潜らず、定規じょうぎで引いたかのようにまっすぐに。

 その結果、山脈に大穴が空き、大森林が消し飛ばされ、大国の首都が踏み潰され、東方の小国家群が壊滅し、恐怖に駆り立てられた北ゴブリン族の大移動が起きた。

 やがて、その大穴は軍隊も通れる巨大トンネルとして、その足跡は街道として利用され、大陸の流通をいちじるしく改善した。

 移動しながら大繁殖を繰り返した北ゴブリンの大群は行く手の国々を滅ぼして暴威を奮ったが、最終的にエルフとヒトの連合軍に駆逐されて絶滅した。これは『アールヴ森林の大虐殺』として記録され、ゴブリン族とヒト族の間に今も暗い影を落としている。

 東方の小国家群は空位になった玉座ぎょくざと新たに生まれた空っぽの領土を巡って殺し合いを始めた。

 滅亡した国々、犠牲者の数、影響を受けた国際貿易、流通の大変革、大陸全土を巻き込んで激化した戦争、そして、大虐殺…それらをすべて記録するためだけにどれほど労力が費やされたのか。

 一説には計算尺の生産だけで一財産を築き上げた者がいたらしい。

 ヒト族の歴史、いや、世界史に残る大事件だった。

 しかし、なぜ、暁光帝があのような所業に及んだのか、それについては謎が多い。

 そもそも、何人なんぴとがその神秘にてる超神の意思をはかり知ろうか。

 只、事実として記録されていることは。

 かの超巨大ドラゴンが月の初めからきっかり23日間、毎日、昼の間だけ走ったこと。(古来より暁光帝は23という数にこだわることが知られている)

 日が昇るとともに起き出し、日没とともに眠ったこと。(本来、上級の幻獣は眠らない)

 進路上の湖に立ち寄るか、なければ自力で湖を創って、きっちり水分補給を行っていたこと。(本来、上級の幻獣は水を必要としない)

 起床と就眠に必ず伸びを繰り返していたこと。(おそらくはストレッチ体操だと思われる)

 これらの事実から『何者かにそそのかされた暁の女帝が健康のために走り込んだ』という説が有力なのである。

 そうだ。

 暁光帝は人間が憎くて走ったわけではない。

 貧者ひんじゃを苦しめる政治の腐敗を正すために罰を下したわけでもない。

 仮説が正しければ、単純に『日頃の運動不足を感じて走り込みにはげんでみた』だけなのである。

 その結果が『潰した国は百を下らず、殺めた敵は万を下らず』だ。

 そうだ。

 人間は歩いていて足元のゴマ粒をわざわざ避けるだろうか。

 人間は今まで生きてきて踏み潰したアリを数えるだろうか。

 商人は絶望した。

 金属光沢で輝く紫の鱗が徐々に下がってきている。

 背後に伸びる、長大な尾、あれが触れるだけで幌馬車は微塵みじんに粉砕されることだろう。

 手綱を引こうが緩めようが、馬は地に足を着けていない。

 どうあがいても逃げられない。

 「ああ…もうダメだ…おしまいだ……」

 息子が聞いている。話してはいけない、怖がらせるとわかっていた言葉が自然と口を衝いて出てしまう。

 つい先ほどまでは息子とコボルト奴隷を買う話をしていたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 神の怒りか、はたまた呪いか。

 否。

 その神々をもはるかに超える、世界の破壊者、“暁光帝”だ。

 神が怒ろうが、呪おうが、どうしようもない絶対者なのだ。

 それが今、目の前にる。

 光が龍の鱗に反射してキラキラ、キラキラ。それは暗闇の中でみがき上げた鏡、鋳造されたばかりの金貨を思わせて紫色に輝いている。

 あれ一枚で幾らになるだろう。

 巨体が大空を覆っていなければ数えてみたくなるところだ。

 「ん…」

 そこまで考えて商人は自分がもう生をあきらめていることに気づいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る