名前のない怪物

雨有 数

名前のない怪物

 昔、昔そのまた昔。

 これはそのさらに昔の話です。


 その時代には、とっても強い。強い王国がありました。

 王国の名前はサイキョー王国。

 今、安直だと思いましたね? じゃあ、正式名称をはなしましょう。

 サイクレオブエンス=インビジブルインビジブル=キリレアレイション=ヨビンド王国がありました。


 サイクレオブエンス=インビジブルインビジブル=キリレアレイション=ヨビンド王国は――

 え? 一々長い?

 あぁ、はいはい。ね? 分かりやすく頭文字を取ってサイキョー王国としていきましょう。


 えーっと、どこまで話しましたっけ?

 そう、サイキョー王国がどうっていう話でしたね。


 サイキョー王国はとっても広い国です。

 人は多くて、文化も多様。

 食べるものも美味しくて、娯楽も多い。

 みんながみんな、幸せというわけではありませんが……まぁ、大抵の人は幸せな国でした。


 そんな国では、100人の人がいれば、90人の人間は基本笑顔で過ごします。朝も笑顔、昼は……ちょっと笑顔じゃない。夜は笑顔。寝る時も笑顔。

 はい、幸せ。

 これがサイキョー王国の人々です。


 国はいい。

 みんなも幸せ。

 誰がどう見たって、サイキョー王国は世界の王者でした。

 でも、そんな国にだって汚点は存在します。


 近年、サイキョー王国の人々の頭を悩ませている問題が一つありました。

 名前のない怪物。

 そう呼ばれる謎の怪物が、郊外で暴れ回っていました。

 王国騎士団でさえ歯が立ちません。


 怪物が恐れられている所以は、姿が定まらないこと。

 言葉を話さないこと。

 意味が不明。

 理屈も不明。

 ただ現れては、騎士団と争いそして消えていく。


 何がしたいのかも、何をしていったのかも分からない。

 ただ一つ確かなのは、怪物は七日に一度だけ姿を見せるということ。

 人々は怪物を恐れた。

 怪物が現れるとされている日には、人々は家に籠り穏やかな日を過ごす。


 本日もまた、そんな怪物が現れるその日でした。

 王国騎士団以外は、誰だって外出しません。王国は、静けさに包まれました。

 不夜城とさえ称される王国に、唯一夜が訪れます。


 そんな、犬も猫も赤ん坊だって外に出ないこの夜に、元気に駆け回る一人の少女がいました。


「今日はこの商店街を、貸し切りだーっ!」


 早々に片付けられた露天商。

 すっからかんとなった商店街。

 城下町でも有数の大通りを、一人の少女が駆けています。

 茶色の髪は、少し傷み。

 頬や白い肌は土や埃で黒く汚れ。

 そして、ズタズタになった服や靴は少女がそれと共に過ごした月日を思い出させます。


「んー? いつもここらはたっくさんの人がいるんだけど……商品も何もないなぁ。どうしてだろ?」


 少女は孤児です。

 孤児院に入れられていたこともありましたが、今日みたく度々夜中に出歩くこともままありました。

 特に好きなのは、この商店街。

 ただ歩くだけで、可愛がってくれる人も多かったからです。


「暇だなぁ。どうしようかなぁ」


 人っ子一人いない商店街を少女は独占していました。

 その珍しい光景に、少女は最初こそ胸を高鳴らせますがすぐに飽きてしまいます。

 今日はもう帰ろうか。

 せっかく厳しい戸締まりを抜け出して来たのにもう買えるのか。

 そんな思いが少女の頭を駆け巡りました。


 結局、少女の散歩は続きます。


「あ、そうだ!」


 少女は空を見上げました。

 大きな月と、無限に広がる夜空が美しい。


「オトナが絶対に近づいちゃいけないっていう森にいこーっかな!」


 サイキョー王国の郊外ほど近く。

 怪物がよく出現すると言われる森がありました。

 ですから、今は大人だって近づきません。人々は、その森を恐れました。

 以前はルミナと言われた森は恐ろしいものという意味のカオスという名前で呼ばれるようになります。

 怪物の姿が確認されて、半年くらいのことでした。


 少女は駆け出しました。

 その若さ故の元気を持って、走って、走って……そして走ります。

 数十分走ったところで、少女はやっと森の入り口にたどり着きました。

 月明かりは森にかかる黒の天幕を取り払うには、少しばかり力不足です。

 けれど少女は臆しません。


 彼女の身体を動かすのは、好奇心。


「どうしてオトナは入っちゃ駄目だなんて言うんだろうね? あ、もしかしたら美味しいお菓子を隠しているとか! じゃあ欲張りさんな大人の代わりに私が食べてあげよー!」


 なんて考えながら、少女は小さな人差し指を空に向けます。

 森に入ってはならない理由は、一重に怪物がいると噂されているためですが少女には関係ありませんでした。

 確実に、何かいいことが隠されていると少女は信じて疑わないのです。


「うーん、暗いなぁ。何もないかも?」


 森を駆け回って数分が経ったところで少女は立ち止まり首を傾げました。

 もしかして、期待外れだった?

 そんな疑問に行き当たります。

 うぅん。

 やっぱりもう孤児院に帰ろうか。

 そんなことを思い始めて、背後を見た時でした。


「グゥルルル!」


 唸り声が響きます。

 そして姿を現したのは、まっ白なオオカミたち。

 鋭い牙が、月明かりに照らされました。


「うわっ! えーっと、これは……」


 自分を取り囲むように姿を見せたオオカミたちに少女は圧倒されてしまいます。

 森には野生動物も潜んでいました。

 近年みないと言われる魔物でさえ、森には少なからず存在しているという話もあります。


 子供が一人で足を踏み入れてはいけない場所。

 それが、カオスの森です。

 少女の顔が恐怖の色に染まります。飢えた様子のオオカミたちは、ダラダラとヨダレをまき散らして少女を眺めていました。


 もうダメだ。

 そんなことを少女が思い、まぶたを閉じた時でした。


「ガァオォォオオ!」


 少女の背後から、オオカミの唸り声が聞こえてきたのです。

 しかも、その唸り声は目の前にいたオオカミが鳴らしたそれよりも明らかに巨大なもの。


「キャウン」


 オオカミたちはそんな声を出して散り散りとなって少女の前から去って行きます。

 少女は、恐る恐る背後へ視線を向けました。

 その背後には、黒いモヤのような何かが。

 少女の何倍もあろうモヤの身体を持った何かは、そのままどこかに行こうとします。


 それを見て、少女はモヤの隣に立ちました。


「助けてくれたの? ありがとうっ!」


 その声で、モヤに波紋が広がります。

 ぶわりと、上空にモヤが飛び上がりました。それを見て、少女はクスリと笑います。


「驚かせちゃった? ごめんね! 私は……えーっと、名前はガキっていうの!」


 少女はそう言って、モヤに手を伸ばしました。

 上空に漂うモヤはふわりと集まり、巨大なオオカミの頭部を形作ります。


「ガァオォオオオ!」


 そして吠えました。

 咆哮によって、少女の髪がたおやかに揺れます。

 恐ろしい咆哮。ともすれば、先程のオオカミよりもずっとずっと。

 けれど、少女は怯えません。


「仕返しに驚かそうとしたの? でも、君は優しい子だって知ってるから驚かないよ!」


 少女にとっては、この黒いモヤは命の恩人です。

 だから恐れる必要もありませんでした。

 屈託のない笑顔を、モヤに向けた少女はこくりと首を縦に振ります。


「君の名前を教えて!」


 その言葉を理解したのか、モヤは姿を変えて文字を形成していきます。


 カ イ ブ ツ


 その四文字が空中に並べられました。

 少女はそれを見て、首を傾けます。


「えーっと、ごめんね。私、文字は読めないんだ……」


 少しバツが悪そうに、少女がそう言いました。

 普通であれば、少女の歳の頃であれば読み書きはできて当然です。ですが、彼女はそれができませんでした。


 モヤはまた集まり方を変え、元の姿に戻ります。


「うーん、じゃあ。君は私の前でだけはビーロット! うん、そう呼んでも良い?」


 モヤは少女のその言葉に頷いて返事をしてみせたように思えます。

 だから少女は目一杯の笑顔を見せて、両手を空に広げました。


「やったー! じゃあ、ビーロットね! うん、可愛くて素敵な名前! でも、私が文字を読めるようになったら、本当の名前も教えてね?」


 また、モヤが頷いてくれたように見えます。

 少女も笑顔で頷きました。

 黒いモヤ――改め、ビーロットと少女はこうして出会ったのです。



 *



「おい、ガキィ! 起きろ!」

「……はーい!」


 朝、怒号が響き渡りました。

 ここは彼女の家――と、表向きに呼ばれる場所ですが、その本質は養子を一人を集めて不当に労働をさせる違法施設でした。

 少女は――100人いれば、90人は幸せであるサイキョー王国の90の中からあぶれてしまった子供たちでした。

 誰も少女がそんな現状にあることすら知り得ません。


 狡猾な大人は、うまくそのことを隠すからです。

 そして、少女はそれに疑いを持ちません。

 いえ、疑いを持ってこの生活から抜け出そうとしても無駄だから、希望を捨てたのかもしれません。


 少女に与えられた一室は、それはそれは酷いものでした。

 岩の地面にそのまま寝転がされ、被りものを被ることさえ許されません。冬は寒く、夏は暑い。

 そんなおよそ人が住むとは思えない個室を少女は与えられました。

 けれど、少女はそれでも大喜びでした。

 壁に落書きをしては、頬をぶたれ続けましたがそれでも自分の部屋というのは輝かしく思えたのです。


 朝食はパン一個。

 家族たちはテーブルを使って食事をしますが、少女だけは地べたでした。

 父親のタイガーさんは少女に無関心です。

 母親のメルーさんは少女に当たり散らします。

 兄のデイブは少女にとても厳しい人でした。

 妹のハレンは少女を軽蔑しています。


 誰一人、少女を気にもとめませんでした。

 ペットかなにか。

 いや、それ以下の存在。

 ただ労働し、金を稼ぐだけの道具。

 それが少女でした。


 少女はパンを頬張りながら、昨日のことを思い出しました。

 今夜も会いに行く予定です。

 ビーロット、少女に初めて出来た友達。

 そのことを思えば、辛い仕事だってどうにか乗り越えられそうでした。


 なんて考えていると、一家の玄関からノック音が聞こえてきました。

 トン、トン、トン。

 三回のノック音。

 この国では、ノックの音の回数で簡単な身分証明も兼ねています。三回なら、王国騎士団です。


「おい! ガキを机につけろ!」


 タイガーさんがそんな風に言って、メルーさんが少女を抱えて、簡潔なイスに乗せました。

 そして、少女の前に差し出される暖かいスープと追加のパン。それとソーセージ。

 他の家族と同じ食事内容です。


「はいはーい」


 猫撫で声を響かせて、メルーさんが玄関に立ちました。

 少女にとっては不思議でしたが王国騎士団からの遣いが来ると、少女の朝食は豪華なものになります。


「失礼、怪物被害にあっていないかを確認しに着た王国騎士団のウィルケルズです。中に入っても?」

「ええ、つい七日ほど前もいらしましたわよね? そうみんな変わりませんわよ。ほほほ」

「いえ、国王陛下のご下命ですので。私としても、市民の皆様の安全をこの目で確認しなくてはなりませんから」

「そ、そうですわねぇ。ほほほ」


 まだ、食事に手をつけてはいけません。

 それが家のルールでした。

 メルーさんの薄ら笑いが聞こえたかと思えば、甲冑に身を包んだ男性が玄関から現れます。

 武骨な兜でその顔の下は見えませんが、それが逆にミステリアスでした。


「喰えよ」


 一家の兄であるデイブの耳打ちで、少女は一気に朝食を食べ始めました。


「皆様いらっしゃるようで……しかし、時にご主人」

「は、はい?」


 食卓に接近し、ウィルケルズは少女に目線をやりました。

 勢いよく食事を頬張る少女には知り得ぬことですが。


「随分と朝から元気な養女さんですね。まるで、まともに食事を食べていなかったみたいに」

「いやあ、それは昨日に作った料理がどうやらお気に召さなかったらしくて、義娘<ムスメ>の好き嫌いにはほとほと困り果てたものですよ」

「そうですか……それと、随分と泥だらけですね?」

「えぇ、朝から元気でね! 昨日は早くに寝かしつけた反動でしょうか? ほら、怪物騒ぎで困ったものですよ。それこそ、王国騎士団は何をしてらっしゃるんでしょうかねぇ?」

「……ええ、我々も全力で対処にあたっております。近いうちに、安息が皆様に訪れることでしょう。では、失礼します」


 深々と一礼をして見せたウィルケルズは去り際に、少女を見ます。

 たまたま、少女もウィルケルズを見ました。

 少女も彼のことは好きでした。

 彼が来ると、必ず朝食は豪華になりますし、何よりとても優しげな人だったからです。


 でも、少女は会話を禁じられていました。

 大人たちは少女が会話をすることでボロが出ることを恐れたのです。


 人と喋るな。


 それが少女に課せられたルールでした。

 なんとも身勝手で理不尽なルールです。

 ですが、少女はそれを律儀に守ります。


 ウィルケルズが退出し、朝食はなだらかに終わりを告げました。



「でね、今日はとーっても美味しいご飯を食べられたんだよ! 幸せだったなぁ。ウィルケルズさんも来てね、お陰でその後の仕事も力が入っちゃった!」


 夜。

 少女はビーロットに語りかけました。

 木陰に腰を降ろし、今日の出来事を少女は語り続けます。

 ビーロットは黙って少女の話を聞いていました。

 多分、相づちを打ってくれているのです。


「ん? 仕事はなにをしてるのかって? そーだなぁ。簡単な仕事だよ、毎日同じようなものを手作業で縫っていくの。で、下手なのがあったらメルーさんに怒られちゃうんだぁ。中々大変だよぉ~」


 いつもやっている風な手の動かし方をビーロットにしてみせる少女。

 それを見て、ビーロットは己の身体を巨大な両手に模して、同じ動きをして見せました。


「わぁ! 凄い!」


 それを見て、少女はキラキラと目を輝かせました。

 今度は、細かい手を無数に作り同じような動きをして見せます。


「わぁ! そんなこともできるんだ、ビーロットは!」


 心の底からの賞賛を行い、少女は夢想します。


「ビーロットみたいなことが出来たら、お昼も外に出られるようになるかもしれないのになぁ」


 大人たちは少女を抑えつけるために、到底叶うはずのないノルマを少女に課したのでした。

 それさえこなせば外に出てもいいと大人たちは話します。もちろん、それが少女にこなせないものだと知りながら。


 その言葉を聞いたビーロットの一部が少女の服の内に潜り込んでいきます。


「あはは! ちょっとくすぐったいよ?」


 バタバタと笑って暴れる少女ですが、やがてビーロットの意図を理解します。

 顎に手を当てて少し考えた少女は、ポンと両手を合わせました。


「もしかして、手伝ってくれるの!?」


 空に浮かぶ残った手たちが、同時に親指を立てました。

 少女はうーんと、まぶたを閉じます。


「なんだか悪い気もするなぁ~」


 その返答を聞いて、親指を立てた拳はそのまま高速でシェイクされました。

 ビーロットの言葉を意訳するならば、いいよいいよ、遠慮すんなって! ってところでしょうか。……こんなにもフレンドリーかは分かりませんがね。


「うーん、そこまで言ってくれるなら……お世話になろかっなぁ」


 少し照れた様子で少女は頷きます。

 ビーロットも嬉しそうにもう一度力強く親指を立てました。こうして、少女はビーロットの一部を家に持って帰ることになりました。



 *



 その日から、少女の生活は一変しました。

 朝起きてみると、少女の身体に何か暖かいものが被さっているではありませんか。

 なんと、毛布に形を変えたビーロットでした。

 枕と、柔らかな布団だってあります。


「ガキィ! 起きろ!」


 毎朝と同じようにデイブの言葉が響けば、ビーロットは胡散して少女の服の内へと入っていきます。

 それがどうにもくすぐったくて、少女から笑みがこぼれます。


「ふふっ……はーい!」



 いつものように朝食を食べれば、仕事の時間です。

 彼女の仕事は小物の裁縫。

 子供でもできるような簡単な仕事ですが、それでも彼女に課せられた仕事量は大人だって苦労するような量です。

 ですが、今の少女にとってはもはやそんな仕事量ですらもどうってことはありませんでした。


 たくさんの手と共に効率よく小物を縫っていきます。

 あっという間に材料は消費され、今日のノルマと課せられた分が消え失せるのに、そう時間はかかりませんでした。


「メルーさん! できたよーっ!」

「はぁ、嘘をつくんじゃ……は!?」


 少女の言葉で部屋の中を確認しに来たメルーは眼前に広がる光景を信じられていないようでした。

 それもそのはずです、到底こなせると思わなかった仕事量を課したのにもかかわらず、信じられない速度でそれが終わっていたのですから。


「じゃあ、外に出てもいいよね!」

「……一日できたくらいで調子に乗るんじゃないよ! 一週間連続でノルマを達成出来たら! 外に出てもいいわ」

「本当に!?」

「ええ、本当よ」


 日が昇っている間は仕事など。

 日が沈めばビーロットに会いに行き話す。

 こんな毎日が一日、二日、そんな風に過ぎ去って行きました。


 一週間と言っていたノルマは二週間に伸びた頃の話です。


 随分と仲を深めたビーロットと少女ですが、この時二人の仲を更に進展させるとある出来事が起こるのです。


「カリ……」

「ん? ビーロット、もしかして今喋った!?」


 そう、ビーロットが喋り始めたのです。

 つたない言葉でそう言いました。

 それは、なんの意味も持たない言葉のように聞こえます。

 けれど、少女はその意味を理解しました。


「もしかして、私の名前? ふふっ、カリじゃなくて、ガキ! だけどね!」

「……?」


 どうやら、まだまだしっかりと発音はできないみたいでした。

 けれど、少女にとってはそれがとても嬉しかったのです。

 一番の親友が、自分の名前を呼ぼうとしてくれたのですから。

 だから……。


「そうだね。うん、私もビーロットのことは好き勝手呼んでるし! うん、ビーロットの前にいる私はカリでいいよっ!」


 少女はニッコリと笑ってそう言いました。

 初めて少女――いえ、カリに名前が与えられた時です。


「うん、お互い素敵な名前になった気がするね! ……それに、二人でいる時しか呼ばない名前ってなんだかとっても素敵」


 木々の合間から顔をのぞかせる星空を眺めて、カリはそう告げます。

 この時、二人は本当の意味で友達になれたのかもしれません。



 *



 丁度二週間。

 今日も今日とて課せられたノルマを達成したカリはメルーさんを呼びました。

 同じように、また期限を伸ばそうとするメルーさんでしたが……。


「材料が……ない」


 そうです。

 彼女の異様な速度により、今や完全に材料を切らしていました。

 ただでさえ、カリを縛り付けるために不必要な速度で量産されたそれは当然まだ売り切れておりません。

 これ以上生産するのは、完全に儲けを度外視することになります。

 と、なれば……もはやカリに仕事をさせる意味もありません。


「あ、そうなんだ! じゃあ、約束通りお外に行ってきまーす!」


 それに、二週間も待っていたカリの好奇心を抑えつけることはもう誰にもできないでしょう。

 メルーさんの制止を振りほどき、カリは外に駆け出しました。

 いつもは遠い窓から眺めるだけの明るい外の景色。

 心が躍らないわけがありません。

 だから、ルールだって頭から飛んでいっていました。


「こんにちは! お兄さん! こんにちは! お姉さん! 今日ってとっても、いい天気!」


 町行く全ての人に手を振りながら、カリは飛び跳ねます。

 太陽がきらめいて、白い雲だって見えます。青い空はとっても気持ちがいい。

 道のど真ん中で、太陽の光をうんと浴びた少女は満面の笑顔でくるくると回転します。

 あぁ、こんなにも外を走るって楽しかったっけ?

 カリはこの幸せを噛みしめます。


 少女の散歩は始まったばかり。



「……確か、君は」


 丁度、王国騎士団の駐屯所をカリが過ぎ去って行ったときです。

 聞き覚えのある声が聞こえてきました。

 くるりと振り返って声の主を探すカリ。

 そこに立っているのは、これまた見覚えのある甲冑に身を包んだ男が一人。


「ウィルケルズさん!」


 初めて、カリがウィルケルズの前でその名前を呼びました。

 普段はルールを守っていたので、喋ることはなかったのです。これにはウィルケルズさんも驚いた様子を見せます。


「人見知りが強い子だと思っていたけれど、元気な子だね。今日は外でお散歩かな?」

「そう! メルーさんがお外に出ていいって言ってくれたんだぁ」

「一人で?」

「うん!」

「そうか……そういえば、君の名前を聞いてなかったね」


 カリの視線に合わせるように、ウィルケルズは姿勢を低くします。

 背負った槍の穂先が、キラリと輝きました。


「えーっと、名前はガキっていうんだ!」

「……」


 ウィルケルズの表情は兜に隠れて見えませんが、いいものではなさそうです。

 ガキ。

 それが少女の名前ではないことくらい、ウィルケルズには分かっていました。

 ですが、自分ではどうすることもできません。

 確かに、やろうと思えばこの少女を劣悪な環境から救うことだってできましょう。

 しかしそれは自分のエゴでしかないのかもしれません。

 この国では、100人いれば90人は幸せなのです。


 裏を返せば……10人は必ず不幸な人間がこの国にはいます。

 少女を救うということは、少なからずあぶれた10人の救済を行うことだとウィルケルズは考えていました。


「そうか……君はどこか行きたいことはある?」

「えーっと、お城を見に行きたいかな!」

「それはいい、じゃあ一緒に行こうか。案内くらいはできるよ」

「本当!? 嬉しいっ!」


 手甲を取り外して、ウィルケルズは少女の手を取りました。



「あれが、国王様の私室。あそこが、騎士団長の部屋。あっちは多分会議室だね」

「大きいなぁ! いつかは私も、こんなに大きな城に住みたい!」

「そうだね」


 お城がよく見える場所に座り込んで、ウィルケルズは指を指して城について教えます。

 カリは何度も頷いてウィルケルズの説明を聞きました。

 そして考えます、自分もあんなに大きくて素敵なお城に住めたならどんなに幸せかと。

 でも、中々掃除が大変そうです。

 あんなに広いと、中を歩くのも一苦労でしょう。……うぅん。

 もう少し小さくてもいいかも?


「ありがとうウィルケルズさん!」

「ううん、気にしないでね。あ、そうだ……君さえよければ――」

「おやおやおや。ウィルケルズ殿、責務をサボり薄汚れた少女と逢引きですかぁ?」


 ウィルケルズが何かを言いかけたところで、その言葉は背後から聞こえてきた台詞によって中断されます。

 最後まで嫌味がたっぷりと入ったその言の葉は、振り返らずとも声の主の下品な顔が思い浮かぶでしょう。


「ダガー殿か、守るべき市民……それも年端のいかない子供を薄汚れたと宣う貴殿の発言は聞かなかったことにしよう」


 ゆっくりと立ち上がり、ウィルケルズは振り返る。

 カリもその動きに合わせて視線を背後に向けました。

 そこに立っていたのは、王国騎士団の甲冑を身につけた男でした。兜は今は置いてきているのか、顔を向きだしにしてそこに立っています。

 ニタリニタリと不気味な笑みがなんとも恐ろしいじゃないですか。


「なら、お前の怠慢も見逃せと? おやおやおや、清廉潔白なウィルケルズ殿にしては随分と、ねぇ?」

「はぁ。ダガー殿。誰もそんなことを話してはいない。貴殿がこのことを告げ口したくば、国王様にでも騎士団長にでも、誰でもそうすればいいだろう……もっとも、そうしたところでこの程度の些事、相手にもされぬだろうな」

「ほほう。ウィルケルズ殿もご乱心か。その言葉を借り受けるならば、些事ならば罪を犯してもよいとさえ聞こえますぞ?」

「ダガー殿、貴殿の口八丁減らず口に付き合う方こそ怠慢であろう。極論化に主語の巨大化、悪意のある語彙の変換は……貴殿の悪い癖だ」

「これは手厳しい」


 ウィルケルズはスッパリとダガーの言葉を切り捨てて、少女の手を引きました。

 カリが理解するには、少し難しい会話が続きます。


「それと、既に与えられた責務はこなしたうえだ。これでも城下町のパトロールも兼ねている」

「おやおやおや。それは失礼をば。ウィルケルズ殿と違い、このダガーは王国直属の精鋭ですので……何分、宮廷から追い出された有象無象の仕事内容などは流石のダガーめにも理解の及ばぬところでして!」


 隣を通り過ぎていくウィルケルズに嫌らしい視線を向けて、ダガーはくるりと踵を返します。


「ならば、私のような小物に突っかかる必要もないだろう?」

「ふふ、ふふふ、ふふふふ」


 不気味かつ不快な笑みを残して、ダガーは二人から離れていきました。

 彼が目指すのは、もちろんお城です。


「今のは? なんだか感じが悪いね……?」


 手を引かれるカリが、ウィルケルズを見上げてそう言いました。

 何を言っていたかは分からないけれど。

 なんだか自分が原因かもしれないな、ということは分かりました。

 ですから、少女の顔色は優れません。


「古い友人かな。以前はお互い同じところを見ていたけど……今となっては随分と違うものを見ているらしいよ」

「……?」


 これも、また何を言っているかは分かりませんでした。

 ですがそうやって語るウィルケルズの声はとても悲しそうなものです。

 だからカリも、分からないなりにウィルケルズを応援しました。


「でも、いつかは仲直りできるかも!」

「……そんな日が来るといいかもしれないな」



 そんな風な言葉を残して、二人はカリの自宅を目指します。

 去り際に、ウィルケルズが暇だったら自分の駐屯所においでと言ってくれました。

 それがカリにとって、どれほど嬉しいことだったかは今さら語るまでもありません。



 *



「ウィルケルズさんってば、優しいんだぁ。お菓子もくれるし! 読み書きも教えてくれてさ!」


 夜。

 いつものように家を抜け出したカリはビーロットと話しています。


「ソレハ ヨカッタナ……」


 ビーロットも随分と言葉を話せるようになっていました。

 家を飛び出したあの日から、少女の生活はまた様変わりしました。

 昼からはウィルケルズさんのところに行って遊び、夜はビーロットとお話をします。

 つい一ヶ月前からすれば、彼女の生活は信じられないくらいに楽しいものになりました。


「ビーロットも喋れるようになって偉いね!」

「エライ、エライ」


 ビーロットは相変わらず黒いモヤみたいでしたが、カリはもうそれをなんとも思っていませんでした。

 それがビーロットなのですから。

 最初こそ、少しはそれを不気味に思ったこともあるでしょう。

 けれどやっぱりビーロットが自分の命の恩人であることに変わりありません。


 最近、どうしてか怪物が姿を現さなくなったという話が国では囁かれ始めました。

 事実、前回の出現から一ヶ月近くの時間が過ぎ去って行きましたが怪物は現れません。

 怪物は死んだという人もいました。

 でも、多くの人は信じていません。

 まだどこかにいるはずだと、力を蓄えて機をうかがっているのだと人々は言いました。


 でも、やっぱり怪物は姿を見せませんでした。



「これは友達、そう読むんだ」

「友達! 私も好き!」

「あぁ、みんな好きだろうね」


 昼。

 駐屯所の休憩室でウィルケルズとカリは話しています。

 彼が自腹で用意した教材を使ってカリは読み書きについて学んでいました。彼女の飲み込みは凄まじく、様々な言葉を覚えていきました。

 ウィルケルズにとっても、昼下がりに少女と勉強するこの時間が楽しみでした。


 駐屯所にあるお古の服を渡したり、仲間内から靴などを貰ったりして少女の身なりもうんとマシなものになります。


 そうして今日も教材を解いていく少女でしたが……ふと、とある言葉が目につきました。


「この文字は?」

「怪物……だな」

「怪物?」

「あぁ、恐ろしいものだよ。今、この王国を悩ませているのと同じ」


 初めて、カリが怪物の噂を耳にしました。

 誰も彼女の前ではそんな話をしてくれなかったのです。

 だからカリは興味津々でした。


「どう恐ろしいの?」

「それも分からない。ただ、町に現れては王国騎士団と戦って帰っていく。危険な怪物だよ」

「分からないのに、危ないって決めつけるの?」

「……」


 ウィルケルズは顎に手を当てました。

 若く、端正な顔立ちをした彼は大層難しそうな顔をします。

 カリの言葉が彼の内に響いたのです。


「確かに、君の言う通りだなぁ」


 こくりと頷いて、ウィルケルズは納得したように話しました。

 そんなことを話して、今日のところは解散になります。

 いつもより早いのは、今日が怪物が出現されるとされている日だからです。

 姿を見せなくなったとしても、油断はできません。

 いつ現れ、そして暴れて民に被害を出すか。

 ですから、王国騎士団が日が暮れた後からパトロールを始めます。



「うぅん、七日に一回くらい家を抜けだすのが大変な日があるんだよねぇ。今日とか! お陰で時間がちょっとかかっちゃった! 待たせてごめんね? ビーロット」


 夜。

 今日も今日とてカリはビーロットの前に姿を現します。

 いつもの場所、いつもの時間、いつもの風景。

 毎度違うのは、話す内容だけ。

 いえ、だんだんと少女の姿も変わっていきました。


 薄汚れた肌は白く綺麗なものを取り戻し。

 茶色の髪は艶めき。

 そして衣服もしっかりしたものになりました。


 ビーロットもまた会話ができるようになりました。

 二人は、二人が出会った頃よりもうんと素敵になったのです。


「最近はビーロットのお陰で朝ご飯もお腹いっぱい食べられるしね! タイガーさんたちには、ちょっと悪いと思うけれど」


 分割されたビーロットが、常に少女の服に潜んでいます。

 手芸をしたり、時にはいじわるな家族から朝食を奪ったり。あるいは家を抜け出すお手伝いをしたり。

 ビーロットはカリと協力して、カリの置かれた不遇な環境をどうにかしたいと考えていたのです。


「アノカゾク、スキジャナイ」

「えー? そうかなぁ。私は好きだよ! タイガーさんもメルーさんもデイブさんにハレンさんもね!」

「ソウカ。ナラ……イイガ」


 ビーロットも随分と流暢に言葉を話すようになりました。

 簡単かつ簡潔な言葉しか話せませんが、それでも話せるようになったことがカリにとっては何よりも嬉しいことです。


「あ、今日はね――」


 と、カリがウィルケルズから教えて貰った怪物の話を繰り出そうとした時です。


「君! 離れろ!」


 そんな声が二人の耳をつんざきました。

 この声は間違うはずもありません。

 ウィルケルズです。


「え?」


 戸惑うカリの前に姿を見せたのは、槍を構えたウィルケルズでした。


「怪物……幼い子供に何をするつもりだ」


 今までの優しいウィルケルズからは考えることもできない敵意がビーロットに向けられていました。

 カリは、どうしてウィルケルズがビーロットに槍を向けるのか理解できません。


「早くこっちに来てくれ! 君が森に入っていく姿を見たから追いかけてみれば――まさか怪物がいるとは」


 ウィルケルズはそう言って槍を振り降ろします。

 ビュンと、風を切る音が響きました。


「ちょ、ちょっと待ってウィルケルズさん! ビーロットは何も悪いことはしてないし、怖くもないよ! 私の友達なの!」

「……」


 ビーロットは黒いモヤみたいな状態のまま、少しずつ引き下がっていきます。

 ゆっくりと、カリから離れていこうとするのですが……。


「待って、ビーロット! ウィルケルズさんは優しい人だから!」


 それをカリは呼び止めました。

 二人の間を取り持つように、中央に立ってカリはそれぞれに視線を向けます。

 ウィルケルズにも、ビーロットにも、自分の思いを伝えるように。


「ウィルケルズさんも、槍を下げて? ビーロットが怯えちゃうよ!」

「……」

「ビーロットはね、私の命の恩人なんだから! 怖いオオカミさんから私を守ってくれたんだよ?」

「……」


 カリの必死の説得に応じたのか、ウィルケルズは槍を投げ捨てました。

 大人数人分の離れた距離に、槍が転がります。

 これでウィルケルズは自分に敵意はないことを示しました。


「ウィルケルズさん!」

「そこまで言われると、どうにも攻撃できないな。そもそも、ビーロットとやらがその気なら、既にこの場は戦場になっているか……」


 暗闇に潜むビーロットを見て、ウィルケルズはそう言いました。

 彼の言った通り、ビーロットがやる気であるならばもう既に二人の争いは始まっていたでしょう。

 そうならないということは、少なくともビーロットには争う気がないということです。


「ただ、夜の森に一人で足を踏み込むのは感心しないぞ」

「……はぁい」


 人差し指を立て、ウィルケルズはカリに注意を促しました。

 彼の言う通り、この森は少女が一人で足を踏み入れていい場所ではないのです。

 カリはうつむいて返事をしました。

 やっぱり、怒られることは好きじゃありません。


「それと、聞かせてくれないか。君と――ビーロットのことについてさ」

「うん!」


 それならお安い御用でした。

 少女は話します。

 どうやってビーロットと出会ったか。

 それからビーロットとの毎日を。


 ビーロットのお陰で厳しいノルマをどうにかできたことも。

 ビーロットの前では自分はガキではなくカリになるのだと。

 初めて出来た友達であることも伝えました。


「そうかぁ。仲がいいんだな」

「うん! ね、ビーロット!」

「アァ……」


 頷いてウィルケルズがそう言いました。

 そして、ウィルケルズは兜を脱ぎカリとビーロットに微笑みかけます。


「そうだな、カリ。うん、いい名前だ。私も、君をそう呼ぶ仲間に加えてくれるかな?」

「……」


 少女にとってウィルケルズの真意など知り得ようもありません。

 けれど、彼の申し出はとても嬉しいものでした。

 ビーロットに加えて、ウィルケルズも友達になるということなのですから。


「うんっ! もちろん!」

「……」

「どーしたの? ビーロット」

「イヤ、ナンデモ」

「もしかして、ヤキモチ?」


 カリの言葉で、モヤに波紋が広がります。


「チガウゾ!」

「ふふ」


 ウィルケルズはその様子を暖かく見守ります。

 しかし、実際のところ夜の森にカリが一人で足を運ぶことは認めることはできませんでした。

 だから、ウィルケルズはある提案を二人に投げかけました。


「夜、森に行く時は私も同行する。いいね?」

「私はいいけれど、ビーロットは?」

「カマワナイ」


 ビーロットの同意を持って、これからの夜はウィルケルズと共にやって来ることが決定しました。



 *



 そんな毎日が一週間ほど続いたある日でした。

 今日も今日とて、少女は家からそっと抜け出していきます。

 ですが、一つ違いがあるとすれば……。

 それを背後から眺める誰かがいたということ。


「ったく、なぜ俺がこんなことをせねばならんのだ」


 タイガーさんです。

 年の割には屈強な身体を持ったタイガーさんは、少女が家から出たことを確認すると自分もまた家を出ました。

 どうしてかというと、少女が夜な夜などこかに言っていることにメルーさんが気がついたからです。


 メルーさんは少女のその行動が酷く心配でした。

 もしかして、夜な夜などこかに言っているのは自分たち一家の不当な扱いをどうにかするためなのでは……と。

 彼らのやっていることは紛れもない犯罪でした。

 もし明るみに出るようなことがあれば……。


「あんなガキに何かが出来るとは思えんがなぁ」


 のそのそと少女の後をつけて、タイガーさんはボヤきます。

 所詮は子供。

 最近は、どうやってかは知りませんが凄まじい速度でメルーさんが課したノルマを達成しているという話を聞きましたが、何をしていても金になるならなんでもよかったのです。

 今回も、どうせ外で遊んでいるだけだろうとタイガーさんは睨んでいました。


 しかし、歩くこと十分ほどでタイガーさんは己の考えの浅はかさに気がつくのです。

 少女が接触したのは、王国騎士団のウィルケルズじゃありませんか。

 今すぐに怒鳴り散らし、少女を引き留めようともしますがここはグッと堪えます。

 まずは、あの二人がどこにいって何をしているのかを見届けなければなりません。


 しかし相手は王国騎士団の手練れです。

 タイガーさんでは、気付かれてしまうかもしれません。

 そうなれば、全てが水の泡。

 だから、ここは慎重に……慎重に二人の背後を歩きました。

 息を殺し、足音を殺し。


 幸いにも、ウィルケルズは少女との会話に夢中になっているようで油断しきっているようでした。

 ですから、タイガーさんもどうにかこうにかバレずに二人の後を追うことができています。

 そうして歩くこと二十分程度でしょうか。

 二人はどんどんと郊外の方へと行きます。


「一体こんな場所になんの用なんだ……」


 それだけじゃありません。

 二人はどんどんとカオスの森に入っていくではありませんか。

 信じられませんでした。

 今や大人でさえも近づかないあの森に、一人の王国騎士団と少女が入っていくのですから。

 タイガーさんも、躊躇いましたがそれよりも二人が何をするつもりなのかを見届けようと思いました。


 そうして黙ってついていくこと数分。

 二人が止まったかと思えば……。

 そこでタイガーさんは信じられないものを目撃します。


「待った? ビーロット!」

「イイヤ」

「今日も元気そうだな」

「オマエモナ」


「……!?」


 声を押し殺しました。

 二人が、謎の怪物と親しげに話をしているではありませんか。

 タイガーさんの人生においても、あんなに正体が分からない生物は見たことがありません。

 魔物だって、もう少し可愛げがあります。


 タイガーさんはゆっくりとその場を離れました。

 このことを、急いでメルーさんに伝えるためです。




「メルー! 起きろ、大変だぞ!?」


 大声で叫びながら、タイガーさんは扉を蹴破る勢いで家に帰ってきました。

 当然、誰もが眠っている時間です。

 その騒がしい声と動作で安眠を妨害されたメルーさんが不機嫌そうな顔で姿を見せました。


「うるさいわねっ!」


 枕がタイガーさんにあたります。

 小枝のように痩せ細ったメルーさんはタイガーさんを睨み付けます。


「いや、大変なんだ。お前に言われてあのガキを追いかけていったんだが、誰と行動してたと思う?」

「さぁねぇ。同じくらい薄汚れた野犬じゃないの?」

「違う。ウィルケルズだったんだよ!」

「はぁ!?」


 タイガーさんの声に負けないくらいの大声が家に響きました。


「ウィルケルズって、あの王国騎士団の!?」

「ああ、そうなんだ」

「不味い、それは不味いわね……」


 トントントンと机を指で叩き始めました。

 何かを考える時のメルーさんの癖でした。


「それだけじゃないんだ。いや、ウィルケルズなんてどうでもいい」

「どういうこと?」

「あのガキとウィルケルズ……怪物と連んでたんだよ!」

「怪物?」


 突如現れた素っ頓狂な存在に、メルーさんは首を傾げました。

 まさか、ウィルケルズと少女が怪物に繋がっているなんて、誰が考えるでしょうか。


「あの怪物だよ、名前のない!」

「本当かい?」


 しかし、メルーさんはそう驚いた様子を見せませんでした。

 むしろ、それを聞いて不敵な笑みを浮かべます。


「あ、あぁ。不味いだろう?」

「はぁ? 何が不味いっていうんだい。むしろ、これはチャンスだよタイガー!」


 机を叩いて、メルーさんはタイガーさんの顎を掴みます。

 そしてくるりとその場で踵を返しました。

 両手を合わせて指を動かします。


「どうチャンスなんだ?」

「考えてもみなさいよ、アンタ! 怪物と連んでいようがなんだってんだい。一番恐ろしいのは?」

「……」

「あたしらの悪事がウィルケルズを通じて王国騎士団に伝わることだろう!? そうすりゃ何もかもおしまいだよ?」

「あぁ、ああ、それもそうか」


 台所に向かい、メルーさんは包丁をまな板に突き刺します。


「ウィルケルズだけなら、対処に困っていたけれど……怪物がいてよかったよ。アンタ、明日は仕事を休みな」

「まぁ、構わないが……何をするつもりなんだ?」

「あたしにいい考えがある……うふふ、ふはははははははは!」

「……」


 包丁に自分の顔を映し、メルーさんは笑い始めました。

 しかし、タイガーさんが何もしていないことに気がついたのか、振り向いて肩を竦めます。


「こういうときはアンタも笑うんだよ、ったく連れないねぇ」


 包丁を無造作に投げ捨てて、メルーさんは寝室に戻っていきました。

 空をくるくると回転した包丁は、再びまな板に突き刺さります。

 その刀身に映るのは、なんなのでしょうか。



 *



 翌朝、タイガーさんとメルーさんはお城の中にいました。

 王国騎士団、その中でも誰よりも偉い人。

 騎士団長の私室です。


「ふむ。では、ご婦人は誉れ高き我ら王国騎士団の中に怪物と内通している裏切り者がいると?」


 眼帯を身につけた男性が、メルーさんを眺めてそう話しました。

 碧眼白髪の男性は、それなりに歳を重ねているようです。彼の表情が少し動く度に、皺も波を打ちました。

 この男こそが、サイキョー王国の騎士団を束ねる大物、ログレアです。


「え、ええ。そうなんですよログレアさん」


 ログレアが放つ重苦しい雰囲気に気圧されながらもタイガーさんがそう言いました。


「これは大問題じゃあないのかねぇ?」

「……」


 メルーさんは一歩も引かずにニヤリと笑います。

 ログレアはその言葉を吟味しているようでした。メルーさんはこう語ったのです。

 王国騎士団のウィルケルズが養女をかどわかし怪物と内通しているのだと。つまり、ウィルケルズを告発したのでした。


「団長殿、何か疑問でも? このダガーめに言わせれば善良なる市民がわざわざ嘘を申す必要はないのでは?」

「ダガーの言葉にも一理ある。しかし、儂もウィルケルズの人柄を知らぬわけではない。故に、あの男が斯様な悪事を働くかと案じていたのだ」

「おやおやおや」


 やわらかな椅子に腰掛けるログレアの隣に立つのは、金のセンスをはためかせるダガー。

 彼はパタパタとセンスを扇ぎ、そのまま続けます。


「団長殿にしては判断が遅い――このお二人が語ることが偽にせよ、真にせよ……どちらでもよろしいのでは?」


 カツン、カツンと歩き始めたダガーは部屋全体に視線を向けました。

 そして、ねっとりとなめ回すような声色でさらに続けます。


「偽であると看過した場合、真である時にどうしようもできませぬ。真であると動いた場合、偽であっても大して害はない。故に、我々はこの申し出が出た時点で――動かねばならない。違いますか?」

「うむ。ダガーの言うことに相違はないだろう。そこまで申したのだ……」

「ええ、ええ、ええっ! このダガーめにお任せください。直ちに調査をし、これが真なれば王国の害となるであろう怪物とウィルケルズめの首をここに打ち立てて見せましょうぞ!」


 大仰な仕草と白々しい台詞を立て並べて、ダガーはその場に跪き頭を垂れました。

 そこに浮かぶ表情は満面の笑み。

 今、一人の男が王国騎士団から放たれたのです。



 *



「今日は何を話そうかなぁ」

「カリが話したいことを話せばいいんじゃないか。それか、ビーロットの話したいことを聞いてみるとか」

「ビーロットは恥ずかしがり屋さんだから、あんまり自分のことを話してくれないの」

「辛抱よく聞けば大丈夫さ」


 夜。

 もうウィルケルズと一緒にビーロットの元へ行くことがカリの日課になっていました。

 そして、一日でもっとも楽しみな時間なのです。


「ビーロットも町に来ればいいのにね」

「そうだなぁ……」


 カリの無邪気な言葉にウィルケルズは頷きますが、どうしてビーロットが町に来ないのか、その理由を知っていました。

 ですが、それをカリに教える気にはなれません。

 だから、適当な相づちを打ってウィルケルズはカリの手を引いて森に足を踏み入れました。


 今日も同じようにビーロットと話すために。


「お待たせビーロット!」


 そう少女が言った時のことです。

 ウィルケルズが叫びます。


「伏せろっ!」


 カリを庇い、身を屈めるウィルケルズの頭上を矢が過ぎ去って行きました。


「おやおやおや。これでも、殺気は消したつもりなのですが……流石はウィルケルズ殿」


 草木を踏みわり姿を見せるのは、甲冑に身を包んだダガーでした。

 今回は趣味の悪い兜のオマケつきです。


「……?」


 カリは何が起きたのか分かりませんでした。

 視界はウィルケルズに覆われていましたし、会話も少し難しい内容だったからです。

 ですが、何かよくないことが起きているというのは理解できました。


「オマエ、ナニモノダ?」


 ビーロットは巨大なオオカミに姿を変え、ダガーを威嚇します。

 しかし当のダガーはまったく怯みません。


「怪物と通じ合っていたというのは事実でしたか。ふふ、ふふふ、ふふふふ! 非常に残念ですよ、残念ですよぉ! ウィルケルズ殿!」

「……そう嬉しそうな顔で宣っても説得力に欠けるぞ、ダガー殿」


 槍を構えると同時に立ち上がり、ダガーの方へ振り返るウィルケルズ。

 対するダガーは弓を背負い、腰に差した剣を引き抜く。

 紅く染まった刀身が、男の凶暴性を表わしているようでした。


「な、なんで喧嘩してるの?」

「あのドブネズミのような子供が、随分と小綺麗に……。知りたいですか? お嬢さん、それはですね……」


 ダガーはその場で剣を切り上げる。

 刹那、炎が舞った。

 暗闇を照らすには十分過ぎるほどの熱量で、炎は一つの意志を持った生物のようにうねり、蠢く。

 そしてそのままカリに向かって飛翔した。


「貴方たちのような咎人……その首を国王陛下並びに騎士団長殿に献上するためですよぉお!」

「……!」


 少女は迫る炎に怯みまぶたを閉じて身構えました。

 炎が真っ直ぐに迫り、幼い少女の身を焼き尽くそうとします。


「――」


 しかし、炎はウィルケルズが振るった槍によって消し飛ばされました。

 微動だにせず、ただダガーを睨み槍を振るうウィルケルズ。

 二人の間には、文字通り火花が散っているようでした。


「正気か? ダガー」


 今までのウィルケルズの声色と同じなのに、どうしてかその重みは幾分にも増しています。

 しかし、それでもなおダガーの態度は余裕綽々としたものでした。


「ガァオオオォ!」


 ビーロットが吠えました。

 ビリビリと、肌が震えます。


「ふふ。正気か? 正気か、ですかぁ。無論、どこまでも正気ですよこのダガーめは。むしろ、そう問うのはこちらの役目だ」


 ゆっくりと、まるで呼吸をするように言葉を連ねるダガー。

 カリ、ウィルケルズ、ビーロット。

 それぞれに視線を向けて、彼は続けます。


「怪物と通じた少女を庇い、己もまた怪物の肩を持つ。もはや、お前は王国騎士団ではないぞ。ただの咎人……ウィルケルズだ」

「貴殿の目論見など透けて見える。だが、大義名分はそちらにあるか……」

「ええ、ええ、ええ! このダガーはお前たちの討伐を仰せつかっていますので!」

「カリ、下がっていてくれ」


 槍を持たぬ左手をカリの方に向けて、彼女に優しく語りかけました。

 そして、唸るビーロットを槍で制止します。


「ビーロット、ここは私に任せてくれ。手を出せば、奴の思うつぼだろう」

「……ワカッタ」


 ビーロットは黒いモヤの姿に戻りました。

 そしてカリを守るように、彼女の傍らに立ちます。


「名前のない怪物などと囃し立てるものですから、どんなものかと思って見れば実際のところはそう恐ろしいものにも見えませんねぇ?」

「あぁ、恐ろしくない。貴殿の方がよほど恐ろしいよ」


 静かに、二人が剣と槍を構えました。

 しんと静寂が支配する夜の森。そこに小さな金属音だけが響きます。

 先に動いたのは、ダガーでした。

 重い甲冑を身につけているとは思えない身のこなしでダガーは急速にウィルケルズに迫りました。

 振り上げられる刃を、槍で防ぎます。

 リーチはウィルケルズの方に分がありました。


 甲高い金属音が、何度も何度も鳴ります。

 それでも、二人の騎士の攻撃は止まりません。

 むしろ加速しているようでした。

 無数の火花が、暗闇を照らします。


「ふふ。ふふふ。ふふふふふふ! 流石はウィルケルズ! 俺と同じく、王国騎士団の未来を担うと言われた遣い手ではあります――」

「そんな私を、貴殿は疎んだんだろう。知っているよ」

「ええ、ええ! 正直に申すと、凄まじく疎みました。人望、才能、それらがお前にはあるのですから。このダガーめは凡骨非才の身なれば! 権謀術数を用いて上を目指す以外に道はなく! 故にウィルケルズ、お前は本当に! 邪魔でした!」


 二人の会話は徐々に熱を帯び始めます。

 言葉に力が込められるにつれて、ダガーの剣にもその熱が伝うように刀身がさらに紅く、赤く染まっていきます。

 瞬きの間に、炎の壁がウィルケルズの前方に現れました。


「小癪っ!」


 そう言って、ウィルケルズは炎の壁に槍を突き立てます。

 するとどうでしょうか。

 たちまちに壁は凍てつき、巨大な氷の壁へと姿を変えます。それだけではありません。

 そのまま、ウィルケルズは槍を力一杯振り上げました。


 氷は砕かれ、無数の氷片が周囲に舞います。


「綺麗……」


 カリが胸に手を当てて、その幻想的な景色をこう表現したのも無理はありませんでした。


「卑怯、姑息、小癪、奸計! それらを用いて俺は格上にうち勝ってきたのですよ! いまさら、それを恥とも思いませんがぁ!?」


 大きくバックステップをしてみせたダガーは剣を持たぬ手で握り拳を作り、人差し指と中指を突き立てました。

 氷片に、炎が灯ります。

 まるでそれはイルミネーションのような美しさでした。

 ほんの少しの間でも、森の本来の名前が戻ってきたようです。


 ですが、それも一秒後には消え失せました。

 無数に散らばった氷片に、炎が灯り……爆ぜます。

 白い蒸気ウィルケルズを取り囲みました。


「お前とは訓練兵時代から何度も、何度も打ち合ってきました故、この程度の対策はこれこのように!」


 白く染まったウィルケルズの視界。

 まるで霧に隠れるようにダガーの声は四方八方から聞こえてきました。

 槍を構え、それらの声に惑わされぬようウィルケルズは感覚を研ぎ澄ませます。


「ただの一度とて、お前に勝てたことはありませんでしたが……本番では負けぬよう常にお前に打ち勝つ術を探っていたのですよ!」

「……」


 ウィルケルズは黙って。

 ただ黙って槍を振るいました。

 何度も振るわれる槍に、蒸気たちが乱れ槍にまとわりついていきます。


「ならば、この戦いもまた私が勝つ」

「それはどうでしょうか?」


 今日一番の大きな大きな音が……木々を震わせました。

 瞬間、彼ら二人の圧の凄まじさにより蒸気が消え失せていきます。

 そこにあるのは、一つの絵画が如き停滞でした。


 姿勢を低く、足元から切り上げられたダガーの剣を、槍をひるがえし受け止めるウィルケルズ。

 二人の実力は、ほとんど互角でした。


「腕をあげたな、ダガー」

「それはウィルケルズも同じでは? まさかここまで苦戦を強いられるとは……できれば己の手で葬りたかったのですがねぇ?」

「……? まさかっ!」


 ウィルケルズがダガーの意図に気がついた時には時は既に遅し。

 取り囲むように木々の合間から現れるのは弓を持った騎士たち。

 全員がダガーの部下であり、彼が怪物討伐のために指揮する手練れたちです。


「では、皆々様の準備もよろしいようで。お日柄もよろしく? さぁ、矢をつがえ、そして雨を降らせましょうぞ!」


 ウィルケルズの槍を弾いて、ダガーは大きく後退していきます。

 行動と、彼の言葉を持って部下たちは弓を構えました。


 ウィルケルズは身をひるがえして、カリの方へ駆け寄ります。


「放て!」


 号令と共に、矢が放たれました。

 一つ、叩き落とし。

 二つ、避け。

 三つ、甲冑で受ける。


「さぁさぁ! どこまで踊れますかなぁ? ふふ。ふふふ!」


 ダガーの嫌みったらしい言葉と、手拍子だけが聞こえてきます。

 手の音に合わせ、第二、第三の矢が放たれていきます。


 少女を庇い、矢を処理し続けるウィルケルズ。

 彼の脅威的な技量を持ってすれば、本来であればこの難局においてもどうにか切り抜けることだって可能でしょう。

 ですが、それは自分一人であればのこと。

 カリを守り、それでいて矢を放つ騎士たちを倒していくことなど今のウィルケルズにはできませんでした。


 ビーロットもカリを守ろうとしますが、矢は彼の身体をすり抜けて意味を成しません。


「おや? おやおやおや? あぁ、なるほど。さては怪物……不定形故に我らに干渉できませぬか。これはよい! これはよい! 恐ろしく強いとそう噂されていたものですが、随分と拍子抜けでございますねぇ」


 その様子を眺めて、ダガーは笑みを浮かべます。

 どんどんと、ウィルケルズの身体に矢が突き刺さっていきました。


「もうやめてよ! どうしてウィルケルズさんを攻撃するの!」


 少女がそう言って、強引に前に立ちます。

 ですが、カリの言葉など誰も聞き入れず、無慈悲にも矢は止まりません。

 そんな少女の盾となるように、ウィルケルズが身を挺してカリを守りました。

 合わせ、ダガーがウィルケルズの前に現れ彼に剣戟を浴びせます。


「グッ!」

「ウィルケルズさん!」


 止めどなく放たれた三連撃。

 ウィルケルズの両手、そして横腹を大きく裂いていきました。


「勝負あり……ですね」


 ウィルケルズはそのまま地に伏せます。

 からんころんと、槍が音を立てて地面に転がっていきました。


「大丈夫? ウィルケルズ! 大丈夫?」


 カリが倒れたウィルケルズの様子をうかがいますが、返事は帰ってきません。


「さて、この少女も――」


 ダガーが剣を構えた瞬間でした。

 地面が――黒に染まりました。


 その異変を察知したダガーは飛翔し、木々を蹴り枝の上に立ちます。

 合わせて、周囲の景色が黒一色に染まっていきました。


「ユルセナイ」


 黒が、場を支配していきます。

 夜空には月がありました。

 星もありました。

 ですが、塗り替えられた黒にはそれはありません。

 暗闇すら生ぬるい、黒。


 それらがどんどんと広がっていきます。

 まるで紙に零れた一滴のインクが如く。


 ただ、そこで明かりとなるのは赤い。赤い二つの目。


「オマエタチ、ユルサナイ」

「怪物が仇討ち気取りですか? ふふふ。そうですか、愚かしい」


 余裕ぶったダガーですが、兜の下の表情は固い。

 彼らが起こしてしまったのは、遙か格上なのです。

 視界が奪われ、もはや何が起こるかも分かりません。

 生物がもっとも恐れるもの、その一つが暗闇です。あらがう為に人々は火を持ちました。

 ですが、ここに火はありません。


「な、なんだこれは――きゃああああ!」

「ひ、ひぃいい!」


 部下の悲鳴がめいめいに聞こえてきました。

 ダガーは黙ったまま、剣に炎を灯します。


「……!」


 そこに映った光景を見て、ダガーは硬直しました。



 己が引き連れた十数人の部下全てが空中に浮遊し、甲冑の隙間から黒いモヤのような何かが溢れ出ています。

 そして、首の辺りからモヤが伸びその先には巨大な何か。

 紛れもない怪物が、そこに君臨していたのです。


「まさに怪物……ですか。これは、些かダガーめの身に余る手合いのようですね……」


 苦虫を噛み潰したような声で、ダガーは怪物を見上げます。

 何をしたって勝ち目がない。

 そう悟ったようでした。


 怪物が、巨大な足を踏み上げました。

 明確な殺意がダガーに向けられています。

 それは既にモヤではありませんでした。

 明確な実体を持って、ダガーを踏み潰そうとしています。


「ダメっ! ビーロット!」


 そんな中、カリの声が響きました。

 瞬間、ピタリと怪物は動きを止めます。


「ダメだよ、そんなことしたら! 騎士さんたちを解放してあげて……ねっ、おねがい!」


 カリの目には涙がたまっています。

 そして、その根底にはビーロットに対しての恐怖心もありました。


「……」


 カリの言葉に納得したのか、黒が引いていきます。

 騎士たちだって地面に落とされていきました。

 そうして、場を支配していた黒が本来の姿に戻るのにそう時間はかかりません。

 元に戻った景色は、見慣れた夜の森でした。


 こんなにも夜は明るいんだと実感することができるほどの明るさを持って、ダガーたちを出迎えた。


「……これは、一度形成を立て直す必要があるようですね。団長殿に直接の退治をお願いしましょうか……」


 そんな捨て台詞を吐いて、ダガーは踵を返していきます。

 解放された騎士たちはふらりと立ちあがり、そのままダガーの後を追っていきました。


「ビーロット……」


 カリはビーロットに視線を向けますが……ビーロットはふわりふわりとどこかへと向かっていこうとします。

 それを見て、カリはウィルケルズをチラリと見ます。しかし、ビーロットの後を追うことにしました。


「どこに行くの、ビーロット!」

「……」

「ちょっと、返事してよ!」


 ビーロットは黙ったまま、この場を立ち去ろうとします。

 カリは必死でその後を追い、声をかけ続けました。

 しかしビーロットは声を返しません。

 けれども、カリは諦めません。


「どうしたのビーロット? 早くウィルケルズさんを町に連れてかないと、ウィルケルズさん死んじゃうよ!」

「……」


 ピタリと、ビーロットは足を止めました。

 それに合わせて、カリも足を止めます。

 くるりと振り返ってビーロットはぽつり、ぽつりとつぶやき始めました。


「オレ、カイブツ、カリ、イッショニイタラ、メイワク」

「……?」


 数秒考えて、カリはビーロットの言いたいことを考えます。

 何を言っているのか、カリにとってはよくわからなかったのです。

 ですが、それも理解できました。

 ですからカリは首をブンブンと大きく横へ振りかぶります。


「そんなわけないよ! だって、ビーロットは友達だよ?」

「……オレ、カリニナニモシテナイ。メイワクバカリカケル」

「……?」


 また、カリは首を傾げました。

 ビーロットが自分に何もしていないなんて、そんなことあるはずがありません。

 カリはビーロットに様々なことをしてくれました。

 人差し指を立ててカリはビーロットにして貰ったことを話し始めます。


「そんなことないよ! だってビーロットは一緒に私と一緒に仕事をしてくれたし! 今だって助けてくれたじゃない!」

「ソンナンジャ、タリナイ」


 モヤが、更にカリから離れていこうとします。


「むしろ、私の方がなにもできてないよ?」

「チガウ、カリハクレタ」

「何を?」

「……ナマエヲ」


 そう、怪物が怪物ではなくなれたのはカリがビーロットという名前を名付けたからでした。

 名前のない怪物が、ビーロットに。

 カリの前では怪物ではなくビーロットとして振る舞えます。

 ビーロットにとっては、ビーロットという名前がなによりのプレゼントだったのです。


「そんなこと言ったら、私だってカリっていう名前を貰ったよ?」

「……」

「ね! 私はまだまだビーロットと遊びたいし、ウィルケルズさんとも……! でも、このままだとウィルケルズさんが死んじゃう! だから一緒に町に行こう……」

「デモ、カイブツダゾ?」

「ううん! ビーロットは怪物なんかじゃないよ! ビーロットはビーロットじゃない! みんなもきっと分かってくれるはず!」


 カリは力一杯そう言いました。

 声の届く限り、そう叫びます。

 その言葉は……ビーロットにも届きました。


「……ワカッタ」


 黒いモヤがウィルケルズの甲冑に入り込んでいきます。

 そうすれば、ウィルケルズが立ち上がりました。

 もちろん、彼が動いているわけではありません。

 甲冑のうちに潜んだビーロットが、甲冑を動かすことで彼を動かしているのです。


「ありがとうビーロット! 町へ行こう! お医者さんに見て貰わないと!」


 拳を強く握りしめて、カリとビーロットは向かいます。

 もちろん、向かう先は……。



 *



 夜。

 誰もが眠りについた深夜。

 カオスの森のほどちかく。

 丁度、森から町に入る境界に騎士たちの軍勢が構えていました。

 最前列には、まっ白な鎧を身につけたログレアです。

 その奥にダガーが控えています。


「怪物がここに来ると?」

「ええ、ええ、ええ。ウィルケルズと少女、その二人が怪物と内通していたことをこのダガーは確認しました。かの怪物、このダガーめすら足元に及ばぬ強大な能力を保有しております」

「ふむ」

「そのうえ、かの怪物は我々の攻撃はすり抜け意味をなしませんでした。故に、団長殿の聖剣が必要となるでしょう」

「怪物か……」


 ログレアは腰にかけた、煌びやかな剣を引き抜き刀身を眺めそして呟きます。

 これこそ王国騎士団最強の男が持つ、聖剣でした。

 この聖剣の持つ光を持ってすれば、悪霊すらも一太刀で浄化してしまいます。

 故に、ダガーもあの怪物にすら攻撃が届くと考えていました。

 そして、それは事実です。


 たった一人で、王国騎士団と同等の戦力を誇るとすら称される彼にかかれば、怪物さえも打ち倒せると誰もが信じていました。

 ならば、ログレアが怪物退治に乗り気であれば怪物だって倒されていたかもしれません。

 しかし、そうならなかったのは団長がそう簡単に動くことができない立場であるということが一つ。

 ようやく時間を見繕って動けば、怪物が姿を見せなくなりました。

 結局、団長と怪物が相対する瞬間がここに訪れています。


 今日の夜風は、少し荒れていました。



 *



「もう少しで町だ……急ごう!」

「……」


 ウィルケルズの意識は戻っていません。

 それだけ、ダガーに斬られた傷は深いのです。

 残された時間はあまり長くありません……。


「アア」


 ビーロットが操る甲冑の足も、早くなります。

 そうして見えてきたのは、いつも通る街並み。しかし、そこで見えるのは壁のような騎士たちです。

 戦闘に立つ二人のうち、一人の甲冑には見覚えがありました。


「ダガー……」


 鬱陶しそうに、ビーロットが呟きました。

 自分たちの平和を乱した張本人。

 はっきりと嫌悪や敵意を込められたビーロットの囁きにカリは首を横に振ります。


「喧嘩しちゃダメだからね! ビーロットが悪いって勘違いされちゃうから」

「……ワカッタ」


 なんていいながらカリとビーロットは歩いて行きます。

 そこから数歩歩いたところで、ダガーの隣に立った白銀の甲冑男が輝く剣を横に振りました。

 すると、ちょうど二人と騎士たちの間。その地面に線が刻まれます。


「ウィルケルズ、それと少女。忠告しておく。この線を越えれば――斬る」


 その一言にとんでもない圧が含まれています。

 まるで、空気に重量が伴ったような。

 立っているのも辛いほどの圧が、白銀の男から放たれていました。


「……わ、私はただ」


 その圧に負けじとカリは言葉を紡ぎます。

 しかし、その言葉は騎士たちのざわめきでかき消されます。

 隣では甲冑からもれ溢れた黒いモヤがいつもの形を取りました。

 それに対するざわめきです。


 何度か、ビーロットは騎士団と接触していました。

 ですから、その姿に見覚えのあるものは本当にウィルケルズが怪物と内通していたことに驚きます。

 初めてこの姿を見た騎士は、その異形な姿に恐れおののきました。


 そのざわめきすらも斬るように、白銀の男が地面に剣を突き立てました。

 たったそれだけの行動で、背後にいる騎士たちは静まりかえります。


「怪物が何用だ? ここには、お前の望むものは何もないと先に言っておくが」

「怪物じゃないよ! ビーロットだよ!」


 カリが白銀の男に怒鳴ります。

 ちゃんとした教育を受けていれば、口を差し込むことすら恐れ多い男を前にしても少女は怯みません。

 それは、少女が教育を受けていないことも理由の一つではありましたが、それ以上に今は一分一秒を争う緊急事態だったからです。


「ウィルケルズ、タスケテホシイ」

「……彼は咎人だと聞いている。ビーロット、君と繋がっていたからね」

「どうしてビーロットと繋がっていることが悪いことなの?」

「それはね、お嬢さん。ビーロットが怪物だからだよ」

「……怪物だから?」


 一歩前に踏み出して、男は頷きました。


「そうだ。この怪物は王国の中に出現しては人々を怯えさせ、我ら騎士団と争った。恐ろしい怪物なのだ」

「……」


 カリはその話を聞いて、男と同じように一歩踏み出しました。


「それって、騎士さんたちが先に攻撃してきたんじゃないの! 今回だって、そこの……ダガーさんが何もしなければこんなことにならなかったんだよ!」


 そう言ってカリはダガーを睨みました。

 当の本人は涼しげな態度を崩しません。

 それが余計カリの苛立ちをあおります。


「こんなにも、ビーロットは優しいんだよ! むしろ、あなたたちの方がよっぽど怖いよ!」

「……」

「オレ、カイブツ……ジャナイ。ビーロット。ダカラ、ナニモシナイ」


 二人の言葉を聞いて、男は剣を鞘に戻しました。

 腕組みをして、ビーロットの方を眺めます。


「いいだろう。こちらとて戦いは本意ではない。ウィルケルズを治療しよう」

「本当に!?」

「しかし条件がある」

「条件……?」


 男は人差し指を立てました。


「ビーロット、二度とこの王国に姿を現すな。当然、森の中も……この少女との接触も禁じる」

「……!」


 男の提示した条件は、ある種当然と言えるものでした。

 もはや、これだけ国を乱した怪物の正体がどうであれ、斬り殺すこと以外に道は一つしかありません。

 それが国外追放です。


「……そんなのダメだよ!」


 カリはそう叫びます。

 ですが、その声はビーロットに届きません。


「……ワカッタ」


 ビーロットは男の言葉を肯定しました。

 そして、黒いモヤは空へと飛んでいきます。


「ダメ! ダメだよ……!」


 カリは夜空に手を伸ばして、ビーロットを引き留めようとします。

 しかし、非常に残念なことに……。その手はビーロットをすり抜けて、ビーロットは夜空に溶けて行きました。


「……」

「名前のない怪物か。あれはただ、自分の存在が分からなくてさまよっていただけなのかもしれないな」


 そんな言葉を男は零しますが、カリの耳には何一つ残りません。

 少女はただ泣きました。

 泣いて、泣いて。また泣いて。

 そこから先の記憶は……ありません。



 *



 ビーロットがいなくなったあの日から、七日くらい経ったよ。

 あの後、私はウィルケルズさんと一緒に王国に連れて行かれて、色々あったの。

 本当に色々、ここじゃ書き切れないから……また会えたときに伝えるね。

 でも、色々変わったんだ。


 例えばウィルケルズさん。

 もう剣も握れないんだって。

 それと、今回の件で騎士団も除名だって。

 本人は除名で済んでまだマシだったって笑ってたけれど……。

 今日から動き回れるらしいけど、私は会いにいけなかったよ。


 そう。

 私の話もしてないね。

 あの日から、私はガキって名前じゃなくなったんだ。

 じゃあカリ?

 ううん、そう呼んでくれるのはビーロットとウィルケルズさんだけ。

 私はあの日から、カイブツノコって呼ばれるようになったんだ。凄く長い名前になったよねぇ。


 みんな私を避けて、声もかけなくなったけれど、どのみち今は外に出れないからそれも一緒かな。

 部屋がね、前よりもうんと狭くなっちゃったんだ。

 タイガーさんやメルーさんは置いてやるだけありがたく思えだって。うーん、確かにそうだなぁって思うよ。

 だって、私のことみんな嫌ってるみたいだし……。


 あ、それとビーロットがお手伝いしてくれないから大変だよ。

 仕事のノルマ!

 メルーさんが私の作った量を見て毎回ため息を吐くんだ。それだけじゃなくてね、凄く怒られるの。


 で、最後に言うんだ。


 結局、カイブツノコに期待したあたしがバカだったって。


 どういう意味なんだろうね?

 そう思って調べようとしたけれど、すぐにやめたよ。

 知っても、いい言葉じゃなさそうだからなぁ。

 これも、壁に書いているんだけど、またバレたら怒られそうだね。

 ううん、もう一度――



 そんな時でした、少女が押し込められた狭い狭い部屋の壁が砕かれます。

 初めて少女が怪物と出会った時のような夜空の中。

 透明の馬がまず少女の視界に入りました。

 ひんやりとした冷気をまき散らし、馬はいななきます。


 驚く少女に手を伸ばすのは鉄の腕――いいえ、甲冑です。


「え?」


 困惑する少女。

 馬に乗っているのは、槍を背負ったウィルケルズです。

 兜は置いてきたのでしょうか、彼の端正な顔と朗らかな笑顔を隠す金属はそこにはありません。


「酷いことするなぁ、あの家族も。もう私は騎士じゃないんだ。だから、多少強引な手を使わせて貰ったよ」


 何がなんだか分からないまま、部屋の外では家族たちが慌てふためいているようでした。


「私は王国を出ることに決めたんだ。君さえよければ……一緒に行こう! カリ!」

「……!」


 少女は、カリは。

 その手を取ります。

 そしてウィルケルズに身を任せました。

 びゅんという音が聞こえたかと思えば、一瞬で彼の背に。


「な、なんだこれは……!」

「氷の怪物!?」


 タイガーさんとメルーさんが、部屋の惨状を見て声を荒げます。


「お久しぶりです。もう会うことはないでしょう。さようなら」

「今までありがとう、家族仲よくね! こんな私でも家に置いてくれてありがとう!」


 馬はかろやかに駆け出します。

 本物の馬みたく、一歩踏み出す度に気持ちのいい風が頬を撫でていきました。

 このまま、王国の郊外に出てどこか遠いところへ行ってしまおう。

 そう思っていた矢先です。


 もはや人など誰もいなくなった大通り。

 そこに立つ人影が一人。

 見間違うはずもありません。

 そこにいるのはダガー。彼でした。


「おやおやおや。王国を抜け出したと聞いてみれば、市中を斯様なもので駆けずり回るとは……随分と図に乗りましたねぇ?」

「……ダガーか」


 馬はそのまま駆けていきます。

 彼に構っている暇などないと言わんばかり。

 ですが、ダガーだって二人を黙って見逃すわけにはいきません。

 炎を纏う剣を構え、去り際の二人に向けて一切の容赦なく振るいました。


 少女と、そして槍も触れなくなった男一人くらい、どうってことがない。

 ダガーはそう決めつけていたのでしょう。

 しかし結果は……。


「悪いなダガー。最後の戦いは、私“たち”の勝ちだ」

「何ぃ!?」


 圧倒的な膂力を持って、剣ごとダガーを吹き飛ばしました。

 そのまま、馬は空中を駆けていきます。

 空中に氷を発生させ、それを足場としてどんどんと夜空に舞い上がっていくその姿は、非常に幻想的でした。


「最初からこうすればよかったな……」


 なんてボヤいて、地上を見下ろすウィルケルズ。

 カリはさっきのやり取りに驚いている様子でした。


「もう槍は握れないって言われてたんじゃ……」

「そうだな」

「え、でも……!」

「それと、カリにはまだ黙ってたんだけどさ。この旅には目的もないし行き先もない。でも、もう一人こんな旅についていきたいっていう物好きな同行者がいるんだ」

「……!」


 その言葉の意味を察したのか、カリはウィルケルズの甲冑に抱きつきます。

 もう絶対に離さないように。

 もう絶対に離れないように。



 この先も、カリの冒険は続きますが……今回はここまで。

 これから先も、きっと楽しく過ごせることでしょう。



 ――名前のない怪物<了>――

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名前のない怪物 雨有 数 @meari-su-

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