祈る事について

朝川渉

第1話

 躊躇いを求める、それは人間だから。それを、わたしがわたしであるがゆえの理由だとその時は思ったのだけど、じつはそうでもなかった。瞬間のすべてを理解することが、人を人として押し留めてきた。その大波が、理解できないところまで襲ってくる、そして死、またゼロにもどるだけなのに、文字だらけになった記号化社会人間のわたしはそれを拒否したがった。人間は、そんなふうに、深いところにも、浅いところにも夢を求めて生きている生き物だ。まっすぐに現実を見ることは難しく、それはは人間的になることと違う…かもしれない。理念を配して文字だけになることに近いだろう。頑なな正義。それを何度か夢から目覚める瞬間に見た。わたしはそんなふうにして、常日頃見ている浅い夢がどこに繋がるのかを考えるのだけど、それは社会的なことというよりも一人きりで何か探していたときの気持ちを思わせる。

 わたしはわたしを排して、それからやっとわたしに戻るのだ。


 祈ることについて考えてみたくなったのは、知り合いも家庭も、そもそも何もないことに気づいてからだった。自分の、身体の感覚がなくなっていくごとに、そう思った、これから先にあるのは長期休みに入っていくときの感覚の、その中の孤独感だけなんだと身に染みて思った。永遠に夏休みみたいなものだ、と言われてから、拘束されていた感覚がなくなったのに対してじゃあどこへ行けばいいんだろうとふいに思った。それがまるで初めてみたいな感覚だと思った。


 それから夜眠る前にはかつての自分が抱いていたよりもずっと大きかった世界のことを考えるようになった。それをふたつに分けてみる。ひとつは私が把握できる方の世界。まだかろうじて残っている感覚で認識できる方の世界と、自分が知りえない方の世界、そのふたつをこちらから考えてみると、そちらには家族のような良く知っている人が居そうにもなかった。まるで何かかき分けていくみたいにしてみる、そうやって茂みの向こうにある影について考えてみる・・・・それがわたしにとってまるで何も学んでいない時点での祈りなんだと思う。

 家族も、それから教室にいる友人もすべて嘘で繋がり成り立っている関係性なのだとあるときから思い、それからはひとについて考えるのがいやになったのだ。わたしはそれに傷つけられたわけではないがもうそこの影が色濃いことには悲しくなった。ふいに何かの事件が起きてくれはしないかと常に思っていた。永遠につづくその人たちの望む世界。授業。うそ、うそのうえで笑っている家族の顔。その中でたとえば、飛行機が墜落したり窓が割れたり、そういったことがふいに。誰かがひそかに心のうちで願った総意のために、風が吹くように自然に。そう願い、それもまた、ひとつの祈りだったのかもしれない。誰といても会話の成り立たない日常の中でわたしはそんなふうにして自然とあるべき姿を願うようになり、けれど今考えればそうすることくらいでしか身を保てなかったのだろうとも思う。

 いまでも時々コンビニへ行きたくなる。一方通行だった行いが、そこで決済された瞬間、やっとどこかと繋がったような気がしてしまう。現生における、そうやって憑き物を落とすようなことを乗り継ぎ、祈ることに主体性がなかったころをずっと生きてきたうえでのさまざまな行為を思い出す。







 301号室のオダさんは小説を読むのが好きだ。待合室だったり談話室で小説を読んでいる姿をよく見るし、たまにおじさんたちの群れに紛れて話かけた時なんかにそのことを話したそうにしているのを見かけていた。オダはいつもシャツを着て自室のベッドの上の塊みたいになって本を読んでいる。隣には、点滴を打ったままのおじいさんがいて、誰もがいつ、死ぬんだろうかと感じている。

 わたしも影響を受けて、色々な本を借りて読むことになった。古典、それから今一番売れている作家のもの。作家が紹介されている本も読んだ。わたしは、それがまとめられているというだけで、その人達がグループを作ってその冬の間にわたしの目の前に現れたように感じていた。それは今思えばの話なのだけど、だから、わたしの小説、文学界への入り口はそんなふうな印象になっている。オダが死の感性を持って現れて、その後ろに固まる、大学のサークルを造るのが大好きみたいな人たちのグループ。

 小説を読むのが好きな人、というのは多分、悩んでいる自分が好きな人なんだろうなといつしか思うようになっていた。わたしはあまり考え続けることが得意じゃなく、また胸を張って思想を話すのも苦手で、いや、というよりも、馬鹿にしていた。わたしは現実主義で、農耕の方が真実なのだたいつも思い、幻想の世界に重きを感じるようなオダの小説の好みや、主義を聞いているうち、いつもそれを反発したくなった。


「いったい、何の意味があるの?」

 わたしは聞いてみた。その思想と自分との繋がりが感じられなかったし、わたしはその訴えが何かを引き留めるためのくだらない駆引きのように思われそうだったからだ。わたしは無力感を日々感じていたのだ。

 わたしの興味は、それが現実の元に出てきたとき、一体理想主義者はどんな反応をするのだろうと言うことにその時は注がれ始めていて、皆が一様に「くだらないことを言うな」と言って笑った。ーー冷笑。それが彼らの思想を守るための最後の手段。

 そして、昼時、オダがばくばくと飯を食っているのを時々見かけた。オダは、食べるのが遅く、そのことを指摘されても気にしていないようだった。いつまでも、いつまでも、自分なりに味わって食べているときのオダと、文学の話をする時の顔はまったく違っていて、わたしはその辺をどんなふうに彼は繋ぎ止めているんだろうと思う。

 ああ、たしかにわたしは彼をバカにしていた。わたしは彼に何かの役割を担って欲しいとも感じていなかった。例えば主人公を引き立てるため舞台の片隅で老婆の格好をする少女の役割でさえも欲していなかった。わたしは、言いたかった、それらすべては、単なる時間つぶしでしかないと。オダはそのことに強い反発を感じていたようだ。いつまでも尽きることのない議論は生活や自分以外の人達ではなく、自分達がどれだけ長く、より良く、それでいて人間としての意味を見失わない程度には原罪の意識を感じていられるかにしか注がれていない。

 いずれ誰にでも、それは願わなくともーーいや、願っていなかった時にこそ来るだろう。それは必ず、誰かの手によってばりばりと剥がし落とされる、世界の音。なぜ、オダよ、それを親や、上司に対して現実的にやってこなかった。オダ、それから、彼らよ、それは第一次性徴にともなうアレじゃないのか。

 けどわたしがそういう正直な解釈を言うととにかく本をもっと読まないことには分からないだろうと皆が一様に嫌な顔をした。そのくせ人の意見のわかりいい解釈は黙って持って行くのだからひとってものはたまらない。ともかく、オダさんもその一員でその界隈では若くてどこも悪そうには見えないわたしに粘着質な、片一方の興味を抱いているようだった。

 これじゃ単なる犠牲である。

 何にしてもわたしは小説を、あるときから目にすること自体が嫌になった。それよりも、北極や南極にひとりで渡ったひとの呟きをみる方がずっと有意義だと感じるようにだんだんとなってきていた。もしも、自分を守るための囲いみたいなものの正体がつきかねることで悩んでいるのだとしたら、さっさと出てゆき、自分の責任で勝手に作りはじめればいいのだ。ともかく、こんなところで誰も聞いてもいないモラトリアムをすばらしいアイデンティティに仕立て上げるな。そうやってやっとあげた身震いするような産声よりもそのあとのものを自分の声だと思え。



 …それからはおばさんが退院し、小学生が入ってきた。オダさんはいまや、わたしからYESと言って欲しいだけの塊でしかなくなってしまっていた。寂しいのなら、それで成り立つのだろうけれど、恋人でもあるまいしそれは違うように思った。(なぜならわたしもオダさんも人生を少しも知らないのと実際にはなにも言って来ないから)わたしはそれから一人で閉じこもって自分の興味の持てそうなものを見たり、読んだりしてみる。はっきりとした指針や、未来が枯渇してみれば、誰かが誰かのために考えた人生は、いまや重荷でしかない。

 わたしは、「狩について」だったり「世界の料理」についてだったり、そうやって何か誰かが構築したものをそのままアイデンティティすら無くして被るようにして、やっとそこから見えてくるものをかぎ取る。それこそが今のこの場所から出来るゆいいつの生きる喜びに似ているような気がする。


 とりあえずこの長期休暇のめどはまったくついていないため、わたしは思う存分に本を借り、色々なもののベースを学んでいく。蟻がでたらめに巣を掘りくだっていくようなものだと思った。やたらめったら、それを繰り返してみる。そして、パターン化されていないものを探す。そうでなければ、いつかは表立ってする当たり前の方の嘘に対して自分が嘘をつけなくなる日がもうそこまで迫って来そうだった。自分ひとりでは歩けない分…それは劣等感を払拭させるための、一時的なビバークでしかない。何故なら本物のわたしは、世界から認知されるわたしはそこにはいないからである。それからやはり、叔父のことを思い出す。たった一人の家族と、それからカテゴライズされた嘘をつき続ける優しい側の人間として。

 光と影を思う。あるいはそれが季節の変わり目だからかも知れない。もっとこれから日差しと影が色濃くなり、わたしは隠れたくなるだろう。わたしや大概のひとは気分でそれを選び取れると思っていて、そのどちらもを自由に体験してからまたベースのある場所に戻ればよいのだと思っている。けど…本当はそうじゃない。これは、地続きなのだ。だから、恐ろしいのだ。あらわに、そのはざまに身を置くことは、体現して生きることは、ああ、そのどれもこれもが、本当には、実際の言葉にはならないじゃないか。

 けれどわたしも、それに安住していたことは否めないのだった。いくつも用意されたものを着て、それから喜んで纏い、その安全な装いはなじみのある感覚を思い起こさせてくれる。わたしはその人らなりのイエスかノーをいうだけで社会の一員となれたのだし、そこから降りられたのはたまたまほとんど死んでるみたいな病にかかることが出来た偶然なのでしかない。

 なぜか、見失ってしまう。そこにいるための意思を、いつもいつのまにか自分の意思のように感じはじめてしまう。


 ーー狩りについて

 狩りについて調べて行くごとにおもしろかったのはそれはオダさんのやりたいこととは全く真逆の事が書かれていたことだった。あくせく働き、没個性的でいることを都市に生きている人はよしとしないから出来るところまで自分を積み上げ、どこからも認知できるようにする。けれど狩に行く人たちが皆するのはまず、自分の匂い、気配、それから、意図を消そうとすることだった。それが都市で生きていることとは根本的に違うことだった。勉強するほどにそれは顕著になり、騙すことと嘘は生き残るために最も必要な最初の手段だったのだと思う。



 ーー料理について

 食べることは生きたいことにそのままつながっているため、例えば明日のことをそもそも考えられないような日常になると食べられなくなる。






 ◯




 病院にいると、時間の感覚だったり、外の状況がよく分からない分体は怠慢になってきていて、だから匂いには敏感になって来ると思う。夕食、それから消毒薬の匂い、そういうのを辿って行くとき、少しずつそれに感覚が近付いて行くのを幸福感に似ていると思う。それと似ているのだ、例えばまだ知りもしない場所の特徴を少しずつ知ったりして行くときにそこに道があると一瞬思うような事が。

 そんなふうにしてかぎ取る、たどっていく間その先にあるものと自他入り乱れていくように感じている一方で、ついこの間たまたま見出した寝入りばなに祈る行為はまったくそれとは逆なのだと感じた。アバウトな、あやふやな概念だったそれはやってみようとするほど世界と自分を区別するものだと感じた。たとえば体のどこかに痛いところがあったとして、祈るときはその上を通って行かなくてはならないとなぜか思う。これまでごまかしていたわだかまりや捻れているとこもしようがなく意識させられる、それは、まさに、しようがないのでしかなかった。まるでここに居させられていること、それから、そもそも、不完全な家庭でしか居られないこと、それから、不本意に病を患っていること、それらすべて、昼間なぜか病院にいながらもわたしは忘れて生きている。けど、これまで忘れていた自分のかたちをそういうときにやっと思い出すような気がした。(なぜだろう?)祈りのポーズを、自分勝手に作り出し、ベッドの上でそれをやりながらもふと、毎日のように思った。

 たとえばこの今いる場所に歴史的な地図が既に何枚も、それは人の手によって張り巡らされているのだと思う。地図は、本当はけど、いまも書き変わっている。行動の指針、とかそんなではなく、もっと、在り方に関するような、重要な部分とそうでもない部分に関するそういう地図。わたしはそれをたまに思う。こんなふうに、天気の良い日はあまり思い出さない。それは、都市の成り立ちそのものとして、見渡せるような、広い場所とそうでない部分。毎日、人が言う。それか。人が学ぶ。それが朝になるまでにはぐしゃぐしゃに入れ替わっているのに、支度をして、学校やよく知っている人と会うたび、ああ本当はこういう地図だったなあということを思い出して、そういう型に自分をはめていく。


 だから積極的にそこから降りてしまえばたしかに、毎日、毎日そのことを考えなくてはならなくなるのだった。ああ、こんなになってしまったわたしの身体。機能は、いま病院に管理されている。心臓、それからあたま、それを地震が起きたときなんかは思いやるから、全体像には必ずそれがある。けど、わたしは、それがどうでも良くなるときのことを知りたいのだ。

 当たり前にバスが止まるバス停の、その強制力を時々は怖いと思い、その怖いは、確実に戻れない場所が増えるごとに威力をましてくるのだった。それから学校、テレビ、友人、当たり前の動きと流れが、まったく違うふうにいずれ映るようになる。わたしはもっと違う視点を身につけていくべきだと思う。包帯を巻いて幼稚園へ行けば、そうでなかった日も不意に大切に思えるような、かつての自分を兄弟や従兄弟のように近くて遠い存在に思えるような、今はそういうところに居て、けど、そうだった、あの時は、見る意識すらなかったじゃないかとも思う。

 蝉の抜け殻をそのまんま採らないで放置して行った。あの場所が、ずっとそのままである。何故か本当に時々、かたくなにそう思う。

 もしかしてこういうのを自由とも言うのか。とも思う。街は、もはや人々の住み良い形に変えられてしまったが、私たちは、その上を土足で歩き、自分にもっと住み良い世界が、昔には、まだならされもいなかったむき出しの山が、川が、海が見え、空が世界の半分を占めていたときならば、アイデンティティをまだ少しも盗まれていなかった時であれば、まだたった一人ボスに従っているだけで済むのなら、自由はコントロールが効くはずだとも思った。それは勝手にはじめから作るだけでよかったんだ。そう思った。ごく当たり前に、自分で描く、いや、多分それは、あるものを引き摺り出すように、ひとやものの間で様変わりする。まだ誰も、捕まっていなかったはずだと思った。こんなふうな当たり前に。都市に密着していくようなつくりの家庭、学校、人や場所に、アイデンティティを盗まれていなかったころのわたしたちの在り方。

 そういった嘘が、いまやはりつめる水のようなバランスを保って日常を覆っている。わたしはそれに対する言葉を喉元まで感じているのに、それを当てはめて発するべき言葉を常に見失ってしまう。そういうときはビルの上に立って飛び降りるときのような気持に似ているのだ。他人にはあんなに簡単に述べられることも、自分のことともなればなかなか決定打は選び取れそうにもなかった。わたしが加担していた社会から、押し出されるのではなくて、はっきりと意思を持って自殺しようとしていることなんて。

「逃げるな」と言われたことを思い出した。あの時は逃げるように仕向けられていたのだから、向こうの人たちからそんな言葉が出て来たことにわたしは驚いた。それからその言葉の意味を考えようとして戸惑った。彼らは逃げるな、ではなく、「叫べ」と言いたかったんじゃないだろうか?わたしが引きはがされようとするのを自分の意思で食い止めるように、彼らの代わりに、無様に、もっと泣きさけべば、彼らはきっと満足したのだ。この安住が彼らのために変わらず、永遠にあるための、それはひとつのいけにえの代わりとして。彼らが今いる世界が、本物なのだということに対する証明を、もはや見失った彼らの代償として。



 それは落伍者の声なのだろうか。

 わたしはひとを思い出す。家族、叔父、友人、


 それからこそこそと、計画を立て始める。






 ◯



 人が帰っていき、会話が終わって仕舞いわたしは突如として何か虚しくなってしまったのである。片付かないサイドテーブルと床の汚れを見ながら、なぜあれだけ自分が話している間中で興奮していたのか全く分からなくなった。思い返してみてなぜ自分があの話題なんかに熱をこめて話していたのか全くわからない。恥ずかしい。


 なぜ、って考えてみてもう自分は感情の方も多分おかしくなっているんだろうなと考えてみる。あるいは感情の波が天から与えられるものと決まってしまってそういう、チューブ状のものが自分に繋がってしまった瞬間に笑ったり泣いたり怒ったりする…あとで考えてみるとそれが何だったのか首をかしげるのでしかない。こういうことが2、3年前くらいから何度か起こるようになった。それからどっと、鬱がくる。


 時間はたくさんあるのであとでそれについては考えてみようと思う。何にせよ生々しいそういう人とのあいだに横たわる瘡蓋みたいなものを見るのも耐えられないのである。しばらくして、ご飯がいつもどおりに運ばれてくる。それが終われば談話室などへ行ったりして周りの人と話してみる。が、ものの五分ほどで、それに耐えられなくなる。見上げてみればここにも、あそこにも、外にも人の顔はたくさんあり、ごく当たり前に声をかけてくる。

 なんのためにこんなことをするんだろう?


 多分こういうことが続けば退院したとしてもあっという間に悪くなるのだろうと思う。こんなんではだめだ。と思った。もっと、当たり前のことに何かを見出さなくては…夜、ベッドの中にこもりながら、足音も聞こえない真夜中に考えていた。もっと、もっと当たり前のことを喜ぶようにならなくては。成果と報酬とその内訳を祝うだけのこの人たちの集まり以外のとこに体の半分以上をおかなくては、もうずっと、それが多分死ぬまでのすべてになってしまう。そんなふうに両眼を覆っているのは、そうじゃない人からは死んでいるようにしか見えないのに…いやだ、いやだと思う。わたしはそんなふうに、自分から死ぬような生き方だけはしたくない。食べるのが止まらなくなった人達は、やがて、人の分まで取り尽くしていることに気が付かなくなる。

 いくら話しても徒労に終わった数々の会話を思い出して、わたしは項垂れた。笑ったひとはまるで幼児みたいだった。わたしはすんでで、「YES」を言わされそうになったことを思い出してゾッとした。

 どうして生贄が居なくては生きていけなくなるのだろう?誰かが死に、喚くことでやっと成り立つのでしかなくなってしまった、彼らの暗くて出口のない世界が、あの時わたしにすべて向けられていた、そう思った。

 当たり前の、ことわりはそこから離れたとこにある、たとえば果てしない談話が怒られることなく許されるような。と考えてみても、ふいにそんな当たり前が自分のもとにあったのだろうかというところに考えが行き着く。幼少時、それから小学生のとき。家庭。遡っていって自分の根本にあたりそうな日常を探ろうとしてみるのに、それはごく当たり前の像を結ばない。なんと、自分はそうでなく、テレビやラジオで聞いたごく当たり前の家族像を掴み出そうとしているので驚いてしまった。わたしは悩みをカテゴライズ化したかったのだ。が実際は涙ぐましいとも思った。辛いことがある度にそんなふうにして自分の存在がどこをベースにしているのかを探る、それが、もうお馴染みの作業になっていた。


 実際の父と母はとっくに交通事故で死んだ。小雨が降る春のことで、お葬式の内容はあとから叔父から聞かされた話と混ぜこぜなってしまっているからあまり思い出せない。叔父は夜遅くまで仕事をしていたためにずっと家ではひとりで過ごしていた。ごく当たり前の思い出や日常、当たり前の友人、それからもたらされるような何か、そんなものあったかと考えていてぱったりとそれはどこかで途絶えてしまった。今いる、部屋、それから病院のシステムの方のことに思考はうつっていく。

 実際どっちのシステムも頼りにはならない。当たり前に提供されてきた幸福のイメージ。そちらを選ぶのか、こちらの閉ざされた場所で泥まみれになるような方を選ぶのか、そんなのはどちらでも結局同じだと思う。

 だいたい何故二択になってしまっているのだ。







 明くる日、廊下で会ったオダがいつもと感じが違っている。いつもなら、もっと陰気な、相手を値踏みするような感じがするのに今日は雰囲気が違う。

 ともかくもここにいる間は病着でいるためか中学の体育の授業をしているような妙な雰囲気になる。見透かされてしまうと一瞬思い、それは自分がきちんとした服を着ていないせいだと思う。でもここじゃ皆が一律にそうだ。

 オダは普段着をいつも着ている。

 わたしは、そのオダの兄弟だという相手に聞いてみる。「どうして、オダさんはいつもあんな風なのかな」


 オダさんの兄が顔をあげてこっちを見る。わたしのいいたいことがつかみかねる、けど迷ってるっていう顔だった。


「オダさんは、ここから出たいって言うことを言わないの?」


 出てみたい、それは昨日の夜一度考えてみたことだった。わたしはこの病院の心臓の部分を考えてみたのだけど、何かそこに捕らえられる様を何故だか描いていたのだった。



「ねえねえ」

 オダ兄とわたしは談話室に腰を下ろして座る。たぶんお見舞いにきたのだけど時間があまってるのだろう。


「ん」

「ちょっと、考えてることいってみてもいい?」

「うん」


「システムって強大過ぎて、人に安心すら与えるんだなあってなんだか思う。わたしは、考えていて思うんだけど…ここじゃまともでいられるのは、自分よりももっと大きなものがあっちの世界で待っている人間だけだと思う。そうでないと、わたしは多分もっと、陰気な、何も望まない人間になると思う。もう、半分なってるな。わたしは、この世の人の顔見ると、意味わからなくなってくる。全員がいつも常にこっち向いているように思えてくる。動物だって、見てないふりくらい出来るのに、なんで?(っていってもこの人はわたしの普段の頭の中身を知らないのだもんな…まあいいか。)」


「まあそういう論理もあるけど。けど看護師だってみなこの機構に入りたくてそれを担っているんだし、そこをわざわざあなたの趣味で、いまここで止められるはずないじゃない」

たしかに。けどそう思わせるのは制服のせいだ、とわたしは考えていた。本心などどうなっているのか誰にも分からない。


「別に病院でなくってもいいよ」


「学校とか?」


「うんそう。なんでもいいの。手に負えないほどのものを皆がやり過ごしてるの。もしも、わたしたちが抜け出せるとしたら必ずしも代償は大きいのかな。」


「ぼくたちが…。たとえば?」


「たとえば、その。死だとか。死に似てひなるもの」


「そうですね。」


「ってどういうこと?」


「さかなは水から飛び出したら死ぬっていうこと」


 わたしはオダ兄の顔を見てみる。ああ、なるほど、だから魚は進化したのだ。

 どうしてもどうしても、その時彼らはそこから出てみたかったのだ。それは多くの死の上に立つ、たった一日限りの明日だった。

 ……

「どうしようもなく怖いって思う」


 わたしは感極まっていう。

 本当は疑問形にしようと思ったのに、なんとなくで語尾を落としてみた。たぶんこれは、相対する人の人間性のなせるわざだと思う。


「本能だから。」


「ん」


「多分太陽さまの庇護と…そのおそるべき引力から抜け出そうとするのは、そこらの人にはできない。たぶんその中でも、僕はホリエモンくらいの頭脳を持っていて常にヒカキンくらいの好奇心旺盛を保ち続けないといけない」

「じゃあ、病気だからとかはないの?」

「んあ?病気?」

 オダ兄は、笑ってみせて、そのためにそれまでの会話が病院の中に居る人の特別な妄想であることを思わせたのだった。わたしは咳払いをする。くだらないジョークなど話したかったのではない。わたしがオダ兄に対して持ちかけていた信頼がいま崩れそうになっていることを伝えてやりたかった。


「わたし、家族のこと結構考えるんだけど、いま、その家族が存在してないんだよね。お祈りって知ってる?わたしは最近、考えるんだけど、お祈りって、対象がいなくても成立するゆいいつの行為なんだなあって思う。他にある?対象がなくてもたったひとりでもやってもいいっていう行為。行為って必ず、終わりと、対象があるんだ。やめていい、って言われないと気持ちが悪くなるんだ。だからこんなに、宗教ではお祈りを、盲目的に推奨するんだ。わたしは病院のシステムが、夜になると体からやっと離れたんだなって思う。それから現生の、いろんな人がやっと離れていったなと思う。それから、やっと、自分ひとりの行為を、行為の方向性の矢印がどこに突き刺さっていくのか考えながらする。いま、ありもしないことに対して、それが形になるまでお祈りしてみるようになる。多分、これを言葉にしていうと滑稽だと思う。もしかしたら多分、叔父さんも心配すると思う。けど、そうやっていま、わたしはわたしの家、というか、場所を、ないところから作り出そうとしているところ」


 わたしはそこまでいって、オダ兄の反応を待った。というわけでいま本を沢山読みたいというのとオダ弟と強いて言えばそれほど仲良くはないということをアピールしたつもりだった。


わたしが、オダ弟とはじめにあったとき、オダ弟は、クラスに何人かはいるような陰湿な性格を持ち合わせている人間で、目の前の人間がそれに抵触するか否かをわたしに対してはかって見ているようだった。わたしはそのことから、オダの中にあるオンナという属性に対する印象を、それから毎日のように受け渡されたような気がする。オダ弟の場合は五分後、すぐにわたしのことを見下してもいい存在だと判断したようだった。それはいつもの通りのリアクションだから慣れてはいた。けど、こういう感覚に対して言いたいことならば山ほどある。

 わたしは、オダ弟の本の趣味は知っていたけれど、オダ兄はどんな本を読むのか知りたくなった。


 オダ兄の本は、文学性の濃いものではなくエンタメ性のあるもので、それから三日に一度はそれを持って来てくれるようになった。

 わたしはそれを、いそいそと昼、または夜に読んでみる。オダ兄は弟とは違い、本の内容をあまり説明はしない。だから、開けてみると、やっと、意図が分かるのである。





 ◯





 叔父の、恋愛対象になるひとの話を時々聞くけれどいったいなぜそこまで偏向した愛情を注ぎ込めるのか、それがずっと、来る日もくる日も常態として続いて行くのかさっぱり分からない。会っていない間もずっと彼氏やその周辺の話をしているし、なぜ、そういうことをがんばっている自分と感じるのだろうな、と思い、そもそもでわたしは人っていうものにさっぱり興味がないんだなあと思う。

 ある時ぷっつりとなくなってしまった感情があるときから急に湧いてきて、急速に、それは目に見えてあれこれに対して白黒つけやすくなってくる。たとえば対象物Aがあるとして、感情がわかないときは対象物Aをじゃまくさいとしか感じないのに、感情が湧いてこればAを抱き上げたり、手に取って何かに使ったりできる。人と話が出来るようになる。「モノがよくわからない」状態を、今思えば滑稽で理解不能だと感じる。よくわからないはじゃまくさいとすごくよく似ているのだ。


 わたしは解脱に似ている行為について考えたくなって、それをノートにまとめようと思っていた。天気が良い。多分そのせいだと思う。天気が良いって言うだけで自分の思想はどこにでも繋がるし何処へ行ってもいいのだと思い込むことが出来る。病室の中に人が入ってきて、その人が動くたびに小銭の音がジャラジャラと聞こえて来る。たったそれだけのことから、わたしは改札口を通り、キオスクでガムを買い、これから、季節が別のところはつながっていくんだなあと思う。しかもそれをわたしはずっと知っていたんだ。

 キオスクでものを買う→解脱

 電車に乗る→修業

 それから、どこか適当に入ったビルの社食のテーブルについたりする想像へと繋がっていく。社食を頼んで、食べる→解脱。わたしはわたしの場所が無いことをいきなり意識させられる。

 オダや入院患者の体調の話を聞かされながらもそれに返事がなかなか出来なかった。わたしは、自分がこれほど沈んでいるのはその先の出来事を見越しているからだったのだ、と唐突に思い、サイドテーブルに肩を低くして書き留めていたノートにもそれを書き込む。


「なにそれ?」


 唐突に現れたオダ兄が呟き、いつもとは違う、色付きのシャツとジーンズを履いている姿を見てにこにこと笑ってみる。この人は、いつもここを出入りしているから、きっと、この行為が、幼児の遊び以上の意味を持っていることを知らないのだ。そうして、外の匂いを引き連れてきたオダ兄の存在を、外のいますべてのように感じ始めている。


 感情、情動は、この世に存在するための接続詞だと改めて思う。感情が人を動かして、ものをかたまり以外のものに見せ、そこに居ることに対する常に疑問を抱かせなくなる。ああ、わたしの感情、はやく戻ってきて下さい。わたしはいまだに定期的に、ここにいて、こんなことをしている理由が分からなくなる。わたしはかつて作った理由をドロップボックスから引っ張り出す。けどそこももうバグとウイルスだらけで落ち着かない場所となった。叔父は、それを告げると笑う。まったくもって、こんなに近くにいても分かり合えない領域をひとは常に持つのだ。叔父にはそれがパイナップルか焼き菓子か、今すぐにしなければならないのか三ヶ月後でもいいことなのか、仕事上ではわかるのに、目の前にいる異性の気持ちとなるとさっぱりわからない。叔父は、活発な人だから、わたしにはない当たり前をはじめから数多く持っている。わたしには見えない未来をたくさん持っているみたいで羨ましくもなるし、皮肉もたくさん言いたくなるのである。と、考えてみて、わたしは彼氏の写真を見せられているのだけど、なぜこういう普通の人(わたしは話したことももちろん会ったこともなければ思い出もないため普通の人と書く)に対して特別なものを注ぎ込めるのだろうな、と、自分のなかにあるさまざまな経験と照らし合わせてみて、それはやはり、他人だからだろうというとの、結局それは、仏像みたいなモノなんだろうなと思う。


 オダ兄からは「ハワイに行きたい人の話」を聞いた。まだ知り合ったばかりの人で、仕事関係で飲みに行ったらしい。








 特別な感情を異性に感じ、それに執着することは、慣れてしまった居場所から離れたくないと感じることとどれくらい、違っているのだろう。


 まだ、入院になる前と学校へ通えなくなってからの間は週一度はバスに乗って通院する事にしていた。バスに乗りながら見て来たものは凹凸に分けた世界のすべては出っ張った方に属する部分で、いつもそれに相対するたびに自分の、たぶん心に属する部分が慌てて蓋を閉じるか、またはもっとも強かった頃の自分の、その表立った理屈を持って来させる、と思った。例えば、何も食べていない間に見る、テレビの料理番組は平気で見ていられるのに、それから、家族が目の前で買ってきたパンの包みを開けて口に入れるのも平気で、まるで自分がすることのように見ていられ、同じように食べた時のような満足感があるのに、外へ出て、街で同じようなことを全く別の人がするたびにわたしはお腹が気持ち悪くなった。オダに言わせればそれは敗者の弁であり、そんなふうにして過ごしている人間は常にクラスの二割を締めているという。例えば体育祭。それから学校祭。バレンタインデー。目の前で、カップルが出来て行くのを見ていたらきっとおんなじ様な気持ちになるだろう。劣等感だ。淘汰された側の声にならなかったものが罰の感情を伴って自分に、それが目の前に映る人という自分に重なって見えるんじゃないか。「自分に?」とわたしは聞いてみる。


「そう。想像してごらん。常態として、きみ以外の部分が正常に機能している都市。」


「そんなもんそこら中にある」


「そうだよ。そこら中にある。けど、それだけじゃなく、もっと詳しく、自分の知らない国の在り方みたいに想像してごらんよ」


「、、、、」


「そこに、君の知り得るかたちの悲しいことを、想像してみなよ。あると思う?そういうことが」


「うーん」


「僕は本当に、そういうことに耐えられないんだよ。考えてみなよ。絶対、僕はその都市には行かないのに、どうして僕の知り得るかたちのものが転がってるんだろう?そういうのって、最悪だよな。」


「なにが?」


「だから、そんなものまで取り合わなきゃならないのかよ、って事だよ」


 まるでバスケットボールみたいじゃないか。






 わたしもそのことを想像してみるが、たしかにそれは学校で行われていることとよく似ていると感じた。

 生まれたばかりの子どもは世界中にいる人間を皆が皆、自分と同じ人間なのだと感じている。だからこころが柔らかい人ほどその感覚をずっともっていて、大人になってからも分け隔てない扱いをするのは、他人が自分だと思っているからだ。同族嫌悪とはいうけれど、あれは、同じような場所にいるから憎んでいるんじゃない。家族間みたいに近くに居過ぎることに窮屈を感じているのでもない。

 きっと、その人がきみを演じきれていないから腹が立つんだろうな。けど君も僕も逆だな。演じきれなかった自分を、相手に重ねられないことに悲鳴を上げる。


 じゃあ、一体なぜ、テレビの料理番組のように、例えば材料だったり、原料を分けて皿にとって行くような作業はいつまでも見ていられるのに、知らない人たちが声を上げて食べて居る様子だと耐えられないのか、そもそもの他人と自分の違いはなんなのだろうか。

 わたしはその日からそのことばかり考え続けた。そんなにも人は他人を気にしているものだろうか?テーブルの上に投げ出された小銭。ペン。それから文庫本。そんなに、手垢がついたものばかりを取ってきただろうか?わたしはぱらぱらと本をめくり、だいたいそのほとんどがひとの気を引かずに本棚に戻されるべくしてあることを、アルバイトの経験で知っている。本棚のあちこちを回り、うろうろしていた人も、ほとんどが本を買わない。触れて、また棚に戻され、その部屋をあたためるために本はほとんど存在している、とわたしは思っていた。そしてそこにいる精鋭隊のような人が、旗を上げて、「そんなことはない」と言い出す。あーあ、疲れる。毎日、そういうどうでもいいことばかり。売れるか売れないかだけで仕分けされて、本も、常温を維持している自由気ままなものたちもいい迷惑だよな。


 わたしがずっとそこに通い続けて居られればそうなり得なかったんだろうか。とわたしは考えてみて、それだから結局、駄目になったものを挙げてみることになる。食べ物。それから、自己紹介。それから、歌うこと。歌っている人をみること。

 生きていること。生きているのを感じさせること。

 知っている人以上に知らない人が居ること。


 でも知らない人を知っていく過程をわたしは上手く説明出来ない。

 わたしはそれをずっと、考えなければいけないような気がしていた。それはとても良いものだった。たぶんそこに、自分と似ているような血が通うことでやっと、食材を食べたくなるのだと思う。ダメな時は匂いがするだけでダメだったりする。キャスターが、そんなふうな視聴者にあてて、自分なりの言葉で次々説明していく。


 いったいいつからこんなに人は嘘ばかり吐くようになったんだろう。あるいは、こんな風にも思う。私達はずっと、浅瀬に立たされていて、足首まで埋まる水を不快に感じている。けどそれは、わたしだけだった。その人は当たり前にそれを感じている。わたしは、言いたくなる。「ひとは、一人で立つべきなのに」それなのに、ほら!あなたがわたしに会うときに連れて来るそれのせいで、ここはもうあなたの会話だらけになる。わたしは、毎日本当に疲れる。だってわたしはそのやり取りの中に入れ込まれると、イエスかノーを言わされるための人形でしかなくなるから。操り人形。支配と被支配の繰り返し。わたしたち、やり直そう。はじめから。はじめから、全く別の、全く知らない国の人がはじめて会う時のような気持ちでここへ来るべきだった。いや、そうじゃなく、毎日そうするべき。あなたの家族や仲間や、友人みたいに扱うことを、本当にわたしは心の底から許せない。わたしたちがやるべきことは、まったく別のことを見て育って、そこは外国で、わたしはあなたのことなんて死ぬまで知り得なかったんだっていうこと、それを貼り付けてくることだと思う。

 わたしはいつもそれを思ってるのに、人と会話するたび不快なものにずんずん覆われていくのを感じる。わたしは圧迫される。なんで時々、当たり前みたいにいつも思ってるのだろう。わたしはあなたにわかる言葉で話そうとしてるのに、あなたはいつも、わたしがそれを言って当然って顔をする。わたしは何回裏切られた気持ちになっただろうか。会うたび、会う人ごとに、ちゃんと目を見てくれる人もいるのに、だいたいが「ついて来るだろ」みたいな顔して、そんなわけないだろって思う。ついていくわけないだろ。

 ついて行ったとしても合わない間に同じことずっと考えているわけないだろ。




 それだからバスの通り道から見ている景色、通学路、学校、そういう様子を見るたびに、その中には知らなかったもののすべてが入り込んでいるような気がしてつらくなった。

 わたしはそれら(見ること、そういう場所を意識すること、他人に説明すること)がすべて自分の人格に根付き過ぎているのだと感じる。オダの言うことは哲学的にはそうかもしれないけれど事実として日常を歩んでいく上での理解とは遠い気がした。そういったことを例えば一体、誰にどう言えばもっともらしくなるのかを、バスから降りて時間が空くとそれなりに考えてみたりする。わたしはやるべき事をやるべき時に選んできただけなのに、向こうから見ればそれは膨大な空白を作ってきたこととイコールで結ばれてしまう事の説明。その説明を求められ、それからわたしがしようとすることは、すなわち、わたしは人生に負けたのだと言わされることと同じだと思った。わたしはそれを他人には言わないようにしている。わたしが選んでこなかったというだけの理由なのにそれはわたしのアイデンティティに深く根付き過ぎている。人格に根付いたことを話したがる人というのは、病気か、あるいは、恋をしてる人くらいのものだと思う。


 まるで囲い込まれ、追い立てられるような生き方もあるものだと思った。わたしが得たものに関してはもう日ざらしにされて色褪せて見えるらしい。わたしが得たものはたくさんある。けどそれをわたしは自分の人格の部分に入り込んでいるとはどうしても思えなかった。例えば家。友人。食べ物、本、写真、わたしが、病といる時には何ももたらさなかったもの、それから、もし、世界と自分をつなぐ感情がなくなってしまえば明日からすぐにがらくたにしか見えなくなる単なるふしくれども。

 家はまだいい。家にはまだ執着がある。

 わたしは木の杭から壁が出来ていく様子を思い浮かべてみる。そこに大工の人が散らばり、浴室や玄関を作る予定だった小さな囲いがみるみる、肉付けされて家らしくなっていく過程を、家に居ながらにして何度か、何日か思い浮かべてみた。そうやって半年をかけて出来た家にはじめ入った時には木の匂いがした。いまはしない。けどそれを思い浮かべてみる。こんなふうにして、病院へ入院するまでのあいだで家は二度もわたしのものになったのである。




 ◯



 確かにいろいろなことがあったなあと思う。けどそれを日がな、周りもわたしも忘れたようにして生きているから、平時にそれが出てきた時突然だとか、わがままだとか感じるのだと思う。例えば、無分別があったこと。それが、近しい人から発せられていること、それに対応させられているのが結局は、その人自身ではなく周りのわたしたちで、それにより幾たびもわたしたち自身が故障したような日を送っていたこと…それからその日々を、忘れているわけではない。けどいったいその恨みを、誰に、どういうタイミングで発せられるだろうか?いわば、私たちはそれを忘れてしまい、失い続けたタイミングでどもりつづける幼子のようなものだと思った。だから普段はごく当たり前に過ごしていて、今じゃ、そんな苦難の上に何気なく置いてあるかのような幸福を、日々で感じられるようになっていたことに、わたしは一週間前くらいから唐突に気がついた。その日は、ただ話している最中にそれが面白くて仕方なくなっただけだった。いつの間にか、毎日会うだけの人が、こなれた冗談を口にするようになっていた、そのセンスが好きになった。その日をそういった理由で好きになることがそれほどなかったわたしは、幸福というのはとても小さな少女とよく似ているとなぜか思った。そういった、想像上の像はきまって日常にも現れるものだとわたしは感じていた。だからわたしはその時に会った人にそういう色を付けていった。まるでそれは、誰かが不注意で息を吹きかけただけで不機嫌にまた戻ってしまうもののように思われたし、その〈誰か〉は実際にずっと傍らにいたのだ。よくここまで漕ぎ着いたものだと思った。わたしも、それから毎日の方も、まだずっと泥に塗れてるようにしか見えない。

 私たちはそんな中でずっとこわごわ生きてきた。誰も悪くないのだというのは決まって年長者だけで、そのせいでいつも心がズタボロにさせられている。


 いっぽうでわたし自身は、自分のそういった箇所へ直接触れたり、触れられたりするとよくその中にずぶずぶと入って行きたくなった。(それを傷と表現できればもっともいいのだけど、そういう為の方法論をすべて廃してしまっていたのである)この事に気づいたのは2、3年前だった。問題というのはそんなふうに、平素の中でときどき顔を出してきていた。今になって思えば。

いろいろなとこへ行ってごくまったく平気で過ごしていられるわたしが自分自身の手に余してるのは多分、そこで、おそらく、そこがあらゆる手付かずの部分へにつながっていく扉だったのだ。そこへ手を当てられようとされるとわたしは何故だか分からないまま、およそ当然のようにして、いつも燃えさせられる。忘れ物を見つけるのはどんなところにいても、公平な眼差しを持っていないとできない行いだった。けど、わたしはそれをつねに、想像上な世界に入れ込んでしまった。それでも、その人達と何度も実際に愛し合った。その部分をわざわざ探り当てる、鋭さ、嗅覚を持つ相手にわたしは燃えた。そうしてたったいま、泣き止んだばかりの感情をわすれたくないとばかりにもっとその人の温かいとこに触れたくなる。

それはたしかに恋だった。

 血も涙もなかった行いの中で、わたしは延々とそれに飢えていたのだという。わたしはそれを幼児みたいにむさぼり食う。どちらからともなく泣き、くたくたになるまで。何もかもめちゃくちゃにしたくなった。だって、混沌からそれは、いつも発せられているのだから。


 実際わたしも、会ったばかりの人に対しては何も感じていなかったし、例えばそれが恋に似ていたとしても、まだそこまで深くなっていないものに体のつながりを求めたりするのはおかしなことだと今でも感じた。それをわたしがずっと逆の立場でやっていたのかもしれないと、唐突に思わされた。そうだ、それは多分ずっとおかしなことだったのだ。プラトニックな部分に対して、あらたまってわたしから生肉をいきなり持ち出すような行いだったのだ。どうにもそれは、自分のためだけに見えたのかもしれない。

 そんなふうなことを思った。まだそれほどお互いのことを知らなかったから関係はそれ以上を求めてないこともあったのだと思った。


なんだか知覚の方がこんなに遅れてやって来たなと思う。







 わたしは思ったのだけど、どんなにわかりいい思想があったとしても、社会的な大事件が起こったとしても、それが手元に触れられる距離でないかぎり、自分とは繋がりようがないんじゃないだろうか。そう思ったのはすごく寒い日で、身体の感覚がなくなってしまいそうなことが起きた時だった。わたしは、本当のことや真実のことを考えたりして、それを人に伝えてみたのに、それが全く伝わらなかったのを感じていた。だからそれを、すべて自分の手元に書きつけた。それを幾たびも見て、これはわたしのためのことわりなんだと思う。気が済んで、それでもその日、わたしが一番気にしているのはその日の自分の生活のことだけだった。

 今これから、何を食べ、何を感じて何をするのか。そのことばかりを気にしていた。ああ、わたしはいつも通りに野菜を洗い、鍋をこすって、それから火を付けて何かを作った。寂しいとも思わなかった。それでも、学校から帰れば、それから人と会えば、大いなる思想や世界の動きのことを考えたりする。皆がそれを気にしているように見える。もしも、と思う。もしもそれが無かったとしても、または、全く別のことを考えさせられていたとしても、それがこの生活の部分に入り込んでこないものだったら、全くそれはもともとが同じものなのだった。わたしの本当のお母さんが、わたしのことを相対している間に愛していたか、愛していなかったか、今になっては、それはどちらでも同じことだった。あるいは、わたしはそれを思想のひとつとして取り出してみることも出来る。そうすればお母さんはその中で怒ったり、たまに褒めたりもしてくれる、いつしか、誰かから、本当はそんなことなかったし、わたしのお母さんは死んでいなくて、けどすべて忘れたように今アメリカでビルの掃除の仕事をしているのだと告げて来たとしても、わたしにとってはそれだって、どちらでも同じようなことだった。


 わたしは、はっきり覚えている。お母さんの口をわたしがこじ開けて、わたしに対する言葉を言わせたときのことを。わたしは、それは遊戯とも、慰めとも思わない。ただ、言わせたのだ。けど、それは一対一のやりとりにだって言えることじゃないだろうか?泣き、怒り、悲しみ、それから、愛情を注いで、かっこたるベースを手に入れたのに、いつかそれを必ず誰かから奪われる。わたしはそのことを知っている。わたしは、その、がらくたのお母さんではなく、お母さんの後ろにあるものを思うようになる。わたしはすべてを愛している。だからお母さんに、何度も、それを言わせる。


 こんなふうに言うと、多分普通の人はそれじゃおまえがお母さんを愛していないのじゃないか、と言ってくるのかもしれない。けれどわたしは、愛はある、と思う。だとしたら、愛は、そちらとわたしを繋ぐための単なる埋め水のようなものじゃなかったのだろうか。そうだとしたら、まったくこれは、愛に溢れている行いだったと思える。

 そんなふうにして、夜は祈り始める。わたしはわたしのお母さんに感謝し、お母さんの後ろにあるものに感謝し、それから、それを埋め尽くしているように見せている、ゴミみたいな思想に対しても、感謝しなければいけない。

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祈る事について 朝川渉 @watar_1210

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