マキという彼女

小原万里江

マキという彼女

 その日、栗島あつしは代々木駅の西口にいた。彼女と待ち合わせに使ういつもの駅前にはたくさんの人が行きかっている。

「ごめん。十分ほど遅れる!」

 マキからメールが入る。まあ、いつものことだと思いつつ、顔を上げた目線の先に、父の姿があった。軽く手を振るような仕草をし、淳に近づく父、あきらは四十二歳。今は亡き母と、父が十八のときに授かった子どもが淳だった。

 はたから見たら親子というよりは上司と部下に見えるかもしれないな、と思いながら淳は「ああ、父さん」と、いつものように答えた。なにか面白いものを見た、というような表情で友達みたいに近づいてくる父。

「淳。もしかして彼女と待ち合わせ?」

「う、うん。まあね」

 「彼女」マキとはもう半年も付き合っているのに、父にはまだちゃんと紹介したことがなかった。淳よりも六歳年上なことを気にするマキが、まだ親に会うのは早いと言って譲らない。つい二か月前にもそのことで揉めたばかりで、淳としては彼女を父に紹介できないもどかしさを抱えていた。

 メールの受信音が鳴る。

「どうしよう。人身事故。電車しばらく動かない」

 見回すと周りもスマホをチェックし始めている。父もまた、スマホを確認している。

「なに、父さんもカノジョとか?」

 冗談めいて聞く淳。

「いや……」

 一瞬言葉に詰まった父は目を泳がせる。返事をせずにこの場をやり過ごしたそうなのは明らかだった。淳にはほかにやることもなく、質問を投げた手前、答を待つしかすることがない。父はちょっときまり悪そうに低い声で答える。

「うん、まぁ、そうなんだよ」

 淳は予想外の返答に目をまるくする。

 メッセージ受信音が鳴る。またマキからで、まだ電車が動かないという。淳は「いいよ。テキトーに時間つぶすから」と素早く返信し、父に向き直った。

「いつから? どんな人?」

「ここ二か月ぐらいかな。友だちの紹介って言うか……」

 気まずい空気の中でまたメッセージの受信音が鳴った。今度は父のスマホで、父は早々と返信している。

 正直、父の私生活などあまり考えたこともなかった淳は少しくらくらした。聞いてもいないのに父は続ける。

「実はひと回りも若いんで、どうなるかわからないんだけどさ……」

「あ、そう」

 自分が年上の彼女に悩んでいた間に父に若いガールフレンドができるとは。皮肉な状況に苦笑いする淳に全く気づかない父はさらに続ける。

「それよりもお前の彼女、来るんだったらちょうど良い機会だから、挨拶でもしとこうか」

「いや、どうかなそれは……」

「いいじゃん。親としては息子の彼女も見ておきたかったし」

 やはり父にはマキを紹介しておきたかった思いもあり、淳は流れに任せることにし、力なく承諾をする。

「オッケー」

 父は幸せそうな笑みを浮かべながら、また例のカノジョに返信している。

 なんだよ、ニヤニヤしやがって……とは思ったものの、まだ父もそこそこ若いのだし、ここらで幸せになってもらってもいいのかもしれないな、と淳は考え始めた。

 淳の視線に気づき、父があわてて向き直る。

「いや、悪い。滅多にない機会だから、息子の彼女に会うこと話してた」

 まったく、高校生じゃあるまいし……と、半ば呆れる淳のスマホがまた鳴った。

「もう電車まったく動かないみたい。なんか待たせるのも悪いし、またにしない?」

 すぐに返信する淳。

「今日は暇だし、大丈夫。動いたら教えて」

 即既読になったものの、返事が途切れるマキ。

 今度は父のスマホの方からメッセージ受信音が鳴る。父がメッセージをチェックするのを待ってから、淳は父にマキが遅くなることを伝えた。

「そうか。こっちももう、今日は無理そうだし。それじゃ、また今度で」

「そうだね。父さんの彼女にもいつか会わせてよ」

「ああ。それじゃ、今度はマキさんも一緒に食事でも行くか」

 また父のスマホが鳴る。

 淳も自分のスマホをチェックしようと思ったが、その手が止まる。

 あれ……? 父に彼女の名前を伝えた覚えはない。父はどこでマキの名を……。

 目の前で彼女にメールを打ち始める父。

 え? ちょ、ちょっと待てよ? 淳は父のスマホをのぞく。父がメッセージを送っている相手のアイコンは写真も何もないデフォルトの人型にM.T.の頭文字。

「父さん。父さんの彼女って……タカハシマキさんじゃないよね?」

「え! なんで知ってんの?」

 スマホから顔を上げる父の驚いた表情に、淳は完全に凍りついた。

 淳のスマホが鳴り、マキからメールが入った。

「わかった。動いたら教えるね」

 震える声で淳は父に聞く。

「父さんさ……、今、カノジョさんに、自分はうちに帰ること、伝えた?」

「伝えたけど、何でそれを……」

 父が言い終わるのを待てず、淳は叫んだ。

「ふざけんな!」

 驚いた表情で固まる父。父だけではない。突然の大きな声に周りからも自然と視線が集まっている。でも淳は周りを気にしてなどいられなかった。

 タカハシマキ。三十歳。婚活を考えていた彼女が、親への紹介を拒んだのは年齢を気にしていたのではなかったのだ。ほかに相応しい相手がいないか物色中だったということなのか。父が付き合い始めたというのが二か月前。ちょうど親へ紹介したいと言い出した淳と口論した時期だ。

「最っ低だよ。まさか親子で同じ彼女だなんて! 父さんもいい年して何なんだよ!」

 淳はつい大声を上げ、状況を察した父の顔はみるみる曇っていく。

「信じらんねー。おかしいよ! なんなんだよ……!」

 論理的に考えれば、このことは父のせいとは言い難い。それでも一度火がついた淳の興奮は収まらない。ただただ息子を見つめる父に、大声でわめく息子。部下と上司になど見えない、親子の姿がそこにあった。

 こういう時、実際には人だかりなどできないことを淳は知った。みんな遠巻きに、こちらを避けるようにして足早に歩き去って行く。自分もこの状況から歩き去りたいと淳は思ったが、化学反応が始まったような、熱くなった気持ちには歯止めがきかない。かと言って、気が利いた言葉も考えもなく、淳は言葉にならない声をただただ吐き出していた。

 そこでやっと父が口を開いた。

「ま、まず、マキさんと話をしよう」

 父の低い声を聞いて、淳は少しだけ自分を取り戻したように感じた。

 マキと話をする。確かにそれしかないだろう。でもそれは彼女に自分たちのどちらかを選んでもらうということなのか?

「わかんねえ。それで父さんはどうすんの? もしマキが俺を選んだとして、平気なの?」

 父は少し考え、ため息をついた。

「平気なんてことはないよ。だけど、そうなっちゃえば仕方ない」

 血が上った頭がズキズキするような感覚に襲われて、淳はぎゅっと目をとじた。もし仮にマキが自分を選んだとして、自分はそれで大丈夫なんだろうか。何もなかったかのように彼女と付き合いを続けていけるのか? それにもし、家に来るようなことになったら?

 しかも……。

「もし、マキが父さんを選んだ場合は?」

 父はまた沈黙する。淳を直視せず、それよりも少し後ろの方の空間を見ているようだ。いや、見ている、というのは正しくないかもしれない。頭の中で考えていることに集中しすぎていて、目はスイッチを切ったカメラのように、ただそこにあるだけ。

「付き合えるわけないだろ」

 と父は生気のない声で言った。

「どう考えても無理だよ」

 少しホッとしたような気持ちになった淳だったが、父の残念そうな表情には心が痛んだ。

「マキさんがそういう人だったってわかった以上、付き合い続けられるわけがない。ましてや息子の元カノなんて……」

「確かに。俺でも無理」

 ぶっきらぼうにつぶやいた淳は自分のスマホにいつの間にかマキから入っていた「電車再開」のメッセージを見た。

「あ、なんか、もうすぐ来るみたいだから、父さんも……」

 その時、淳の耳に聞き慣れたマキの声がした。

「淳! ホントごめんねー」

 マキだ!

 反射的に声のした方を見たものの、すぐに父の方を振り返る。

 父はマキを見て、信じられない、というような顔をしていた。我に返ったように淳に目配せすると、父は大きく近づいてきて、低い声で言った。

「マキさん違い! 同姓同名だ」

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