『元気な朝食』

よしふみ

『元気な朝食』




 美味しい料理を食べることは幸せなことだ。ナイフで裂いて、フォークで突き刺す。繊維を損傷していくこの感触。五つの指のセットはそれを伝えてくれたし、肉が裂けていく音は鼓膜を心地よく揺さぶり、より深く食欲を楽しめた。


 食事には多くの要素があった方がいい。


 『味』だけに執着していては、食事が持つ可能性の多くを見過ごしてしまう。それは人生の大きな損失であるし、食材に対しても冒涜に近いものだ。


「我々は文明的に。しっかりと味わうべきだ。貴重な食材を。生命そのものをいただいているのだからね」


 調理者はそう語る。その哲学を口にした自分のことを、とても気に入っているようだ。組み上げた自己流の哲学に満足しながら、調理者は続ける。


「美しさも大切な要素だ。飾り立てることは、冒涜とは異なる、エッセンスの付与だ。令嬢とは着飾るべきだよ。普段着の愛らしい生活感も好ましくもあるが。やはり、ここ一番というときは、特別な装いをすべきじゃないか」


 とくに。色彩にはこだわらなくては。単純な鮮やかさを持つ深い赤や、食欲をそそる火の通った茶色だけでは、あまりにも殺風景だから。フレッシュな緑を持つ、サラダに適した葉物の野菜を添えてあげよう。皿はやはり純粋な白がいい。曇りない白。ふちにわずかな金線で、清楚の範囲の模様を描く程度がいい。美しい乙女のようなピュアが、この肉にはよく映えるのだから―――。


「肉ばかりでは、体にも負担になる。サラダの摂取は、私の胃腸と健康を守ってくれることに直結するのだよ。油断してはならない。食事とは、一種の闘争なのだからね」


 調理者は知識として知っていることがある。


「生物を歯で粉々に砕き、唾液と胃液と混ぜ合わせ、化学的にじっくりと融かす。輪郭を喪失するまで崩れたそれらを、私の腸が栄養素として強奪する。血を流れる糖質量は上がり、瞬間的に酸性化した血液のせいで、私を構成するあらゆる細胞がダメージを負うのだ」


 全てを奪う。


 傷つきながら。


 そして、融け合う。


 細胞よりも細かな分子の単位で。


「ああ!!なんて官能的なイベントなのだろうね!……実に業深いものだと思わないか!」


 感極まった口調で、調理者は叫んでいた。聴いてもらいたかった。食事にした食材に対して。これは、この調理者にとって、最大級のリスペクトの表現でもある。


「食材と私は、お互いを傷つけ合いながら、無理やりに融け合っていき……そのまま、一つになってしまう。愛のようだね。狂暴で、いささか野蛮で。それでいて、本能に裏打ちされた美学がある!食事とは、つまりは愛であり、全てなのだ。他者の命を奪い、自分の命に使うのだ。ああ、なんとも罪深く、強欲で、むさぼるような感情なのだろう!!獣のようだ!!」


 獣そのものになりながらも。


 可愛げを孕む矛盾もある。


 こちらも食事に赴くため、礼を尽くしているのだから。


 古きヨーロッパの貴族のように着飾って、ナプキンを襟に添えている。ここまでの節度を捧げるのも、やはりリスペクトゆえだった。


「ああ。すまない。冷めてしまうといけないね。食材たる君に、私は無礼を働くところだった。言葉は、とても暴走しやすい。心を代弁するためにある、外交的かつ社交的な道具なのだから……今は、そんなものを使うことよりも。没頭すべきだよね。この目の前の朝食に」


 視線を朝食に向けた。調理者は主催者でもあり、空腹を満たすべき客でもあった。この場所は、調理者のための場所ではなかったが……しばらく前から、全ては彼の食事の支配下にある。


 ナイフを使う。フォークで押さえつけながら。


 逃げてはいけない。間違いがあってはかわいそうだ。切るべき作法は存在する。そのために骨から肉を離す瞬間から気をつけていたのだから。繊維を最適な角度で噛み潰すという快感を得るために。最良の味わいを得るために、全てをデザインし、この段階まで間違いを一つも犯すことはなくたどり着いたのだ。


 台無しにしてはならない。


 それは冒涜に他ならない。


 命と闘争と食事と官能、あらゆる美学に、それは反する。油断せずに、最良を目指すために集中を捧げなければならない。使命に燃えた肌から汗を垂らしながらも、男の指は銀色を上手く操った。


 ナイフが繊維を切り裂いて、火が通ってはいるが、まだ生命の鮮やかな赤を残した部分を露出させる。肉の断面からは、融けた脂と混じった、茶色く焦げた血があふれ出す。


「肉汁などという呼び名は下品極まりない。君にも失礼な気がするがね。にくじゅう……ブイヨン、グレイビー……どれも、あまり美しくはない響きだよ。だが、他に形容の言葉がない。私の舌にすすられる君の肉からあふれた汁か……官能的というよりも、どうにも下品が過ぎるね」


 相応しくはない。


 私はいい年をこいた大人であるが、君はまだうら若き乙女なのだから。


 調理者は知っていた。食材の年齢を。


「牧歌的な草原が美しい。草と遊ぶ牛の群れ。空に向かって歌う、穏やかさに伸びる声。そんな環境で育った肉からあふれた液体を、汁などとは呼びたくないが……だが、残念なことに。この肉と血に由来を持つソースの美味!!……負けたくなる。卑猥で下品な『汁』という蔑称にも近いそれを使ってでも、表現したくなるものだね!!」


 残酷さとグロテスクも。


 美の一部ではあるのだと、貴族趣味を介する調理者は理解している。


 若さに踊る肉を、銀のフォークで口に運ぶ。運動を感じさせる発達した弾力と、女性ホルモンに由来するやわらかさをまとった、過度な肥大を起こしてはいない繊維。それらが彼の歯列によって潰され、切られ、長い舌は融け出る味を楽しみ、震えるのだ。


 あふれ出した肉の汁。


 官能と下品を併せ持つ、あさましい食欲の対象物を。男は傲慢さに歪んだ独占欲をもって咀嚼していく。美味が弾け、風味が鼻腔をくすぐり、歯と舌が伝える生々しいまでの官能的な弾力が舌をさかのぼり、脳の隅々にまで心地よさとなって広まっていく。


 夢中になる。


 飢えを強いられた猟犬のように呼吸を激しくし、鼻息も下品な頻度と強さに至った。


 次から次に、荒々しくナイフを走らせ、肉が皿の上で逃げないようにフォークを使って押さえつけた。


 強姦のようだと興奮しながら。食欲のままに、ただひたすらに押さえつけて切り、口に運び凌辱的に咀嚼したあとで、喉を鳴らして呑み込む。その幸福に煌めく過程を繰り返していく。美しく美味しい獲物と、究極的なまでに融け合い、全てを隷属させるために。


 こうして。


 肉は瞬く間に胃袋へとさらわれてしまう。


 荒々しい食欲を受けた真白な純潔に輝くその皿の上を、下品で美味な汁の痕跡で赤と茶色に汚しながら。


 強い欲望の動きの果てに、肉はすぐに無くなってしまっていた。美味な肉は、残念なことに消費も早いものである。


 素晴らしい消費と闘争と融合の時間に他ならなかったが、それでも大人の男の体格を満たすほどのボリュームではない。空腹が残っていた。


 ナプキンで口元を拭う。優雅な所作で。


 そうして男から調理者に戻ると、彼は、まだまだ食事をしなければならないという事実に対面する。予定しているスケジュールをこなすためのカロリーには、まだまだ到達していないのだ。牧場で育った14年ものの肉は、脂肪の付きが少なくて、ヘルシーさを持つが。栄養としては、どこか貧弱でもあるのだから。


「脂が少ないからね」


 肉汁以外に脂を使ったソースを用意するべきであったかもしれないが。肉由来のソースに、わずかばかりの塩と胡椒を使ったものだけで味わいたかったのである。最低限の不純物。それを目指した調理でありたいのだ。


「これは生命と生命が融け合う儀式なのだからね!!……私たちのあいだに、化学調味料も、万人受けを目指して雑多に煮込まれた無数の野菜なども……不必要なんだ!!」


 情熱的な歩調で動き、室内に設置されて間もない冷蔵庫を開ける。


 調理者は出逢った。食材と。


「おはよう」


 食材は無言であったが、調理者は気にしない。会話などというコミュニケーションよりも、調理と食事で自分たちが深く強く結びついているという自信があるからだ。無言を絆の断絶と結びつけることは、早計すぎるし、視野狭窄すぎた。


 切り分けている食材に手を伸ばす。若くしなやかな肉のついた骨の断端は、濁った赤い色をしている。生命を失ってから久しいが、冷蔵庫はその肉も骨の中にある色も、鮮度を保つために努力してはいるのだ。しめ終わった直後の美しさはなくても、十分に素晴らしい色として、冷蔵庫の明かりの下で、食材は輝いている。


 取り出す。それが載った大きな皿を。


 他の部位を守るために、冷蔵庫の扉はすぐに閉じられて、調理者はキッチンに向かう。丁寧に清掃されたそこは聖域であるのだ。命を自分のために加工する場所なのだから。調理者は微笑む。整った環境での調理に、彼は食事のときとは異なる快感に溺れる。


 肉切りのために用意された分厚い刃と重量を持つ、愛用の包丁に指を絡め。


 包丁を持たない手では、骨付きの若い肉をまな板に押さえつけた。繊維の流れを見極めたあとで、あの愛らしい脚を、最後に一撫でする。


「ああ。とても、興奮するよ。こうしていると私は思い出す。若く元気に走り回っていた君を。部屋の隅に隠れることを好んだね。運命を知る賢さに明るい瞳は、あのとき怖がり過ぎていた。ドナドナという歌もあるね。君は、悲しく青いトラックの荷台には乗ることはなかったが。運命というものは、どこか集約され気味なのだ。肉食を愛する者たちのために、食肉の烙印を押された存在は、いつだって儚い」


 肉切りの包丁が落ちていき。筋力と重量と鋼の鋭さが、あざやかな赤を保つ肉を裂き、若くて柔軟さがある一方で硬さには弱みを含む、はにかむように白い骨を切り、骨の内側に詰まった赤い骨髄をも断った。


 脂肪化してはおらず、血液生産に有効な赤い色。成長する時期にあるそこには、成体とは異なり機能性の高い赤い骨髄が詰まっている。子を孕む立場になるために、肉体は常に成長と変異を続ける、多感な頃合いだった。


「ゆえに、煮込むには向かないのだよ。若い肉には、君の母親とは異なり、骨髄から融け出す脂肪が不足しているのだ。だからこそ、焼く。その方がいい。濃密で官能的な吸収という視点からしてもだ……やはり、煮込むより焼く方が適しているよ。形状を保っていて欲しいのだ。スープに脂を流しすぎないことも嬉しい。なにせ私は、君の命の全てを、傷つきながら私の命と、一つにしたいのだからね!」


 泣けてくる。


 悲しいものだ。


 必要な過程ではあるが、かつて美しかった食材は、肉片と化していく。命を加工することは、多くの場合で美を喪失しがちである。


 調理者の感性は傷つけられた痛みに嘆き、瞳の端に涙の輝きをため込んだ。


「この悲しみが分かるかな?……美しさを愛する私がね。自分の美意識に反する形状へと、かつて美しかったものを解体する!!……こんな武骨さを持つ包丁で、荒々しい音を立てながら、骨から肉を削ぎ落しているんだ!!全て、美しいまま!!私と君が一つとなれたなら、それが幸いなのに!!……一つになるための食事という過程を進むためには、この美の破壊と永遠の喪失がつきまとうんだよ!!」


 美を破壊することは、とても悲しい。心に痛みが走る。それでも、止めることはできない。肉食であることを調理者は誇っていたし、肉食で他人と融け合うことが、社交的なふるまいを好む調理者にとって、最良かつ純粋で貪欲で支配的な究極の社交に他ならないからだ。


 調理者は母親の方の骨を煮込み続けている縦に長く太さもある寸胴鍋の横で、フライパンにバターにも似た黄色い脂を塗りたくり……火をかけた。脂はすぐさま融解し、泡立ちながら飛び跳ねる。元気で健気な脚で遊ぶ、牧場育ちの乙女のように。


「ああ。若く、香ばしい!……わずかな脂を削ぎ落として集めるという手間暇を惜しまなかった甲斐があるよ!!さあ、君の脂で!!君の肉を焼くとしようじゃないか!!」


 先ほど閉じた冷蔵庫を見つめつつ。調理者は微笑んだ。肉に対して、何度も見せて来た表情だ。肉になった存在は、かつてはその微笑みに気を許していたようだが、いつからか男の視線に恐怖すべき要素を見つけてしまったのか、明らかに戸惑いと恐怖を含む瞳を返すようになった。


 聡明さに敬意を払うことを忘れない調理者には、その態度も含めて彼女の全てが愛しくもあった。


 火が通ることで透明さを帯びて暴れる脂に守られ、肉にはしっかりと火が通る。あまり焼き過ぎる趣味は、調理者にはなかった。生がいい。生きている形状に近い。死は基本的に醜いのだから。生に近しい形質が最適だ。そのために、調理の時間については、短いもので十分である。


 肉を皿に取り分けると……。


 調理者は再び、消費者である男に戻った。


 イスに座る。礼節を帯びて背筋を伸ばし、最適な位置関係を作る。銀色のナイフとフォークを、その処女の肉にあてがい。純粋な黒い欲望を持つその喉奥を開き、命であったものを自分の命に組み込んで永遠の隷属を強いるために……口の奥に運ぶ。肉を噛み潰して舌で執拗に弄んだあとで、飲み込んだ。


 美味い。美味い。


 素敵だよ、私の肉よ。


 私の、美しい牧場の小さな姫君よ。


 最高だ。


 やはり、君はずっと前から思っていた通り……。


「私のためにいた命だ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『元気な朝食』 よしふみ @yosinofumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ