朧月夜

椰子草 奈那史

朧月夜

 今は昔、武蔵国足立郡むさしのくにあだちぐんに、代々土地の名主を務める小川家という商家がありました。

 当代の嘉平かへいは人徳を備えた人物として知られ、小作人や使用人からもたいそう慕われていたそうです。

 その小川家には「たま」という一匹の三毛猫が飼われておりました。

 たまは大変に賢い猫で、小さい頃に小川家にもらわれてきてからというもの、蔵の鼠を日に何匹も捕る働きを続け、嘉平は「御家おいえ繁昌はんじょうたまの功なり」と、たまをたいそう可愛がっておりました。

 しかしたまが家に来て早十年、近ごろはすっかり足腰も弱くなり、蔵のことは子の「みけ」と孫の「しろ」に任せて寝ていることも多くなりましたが、嘉平は変わらずたまを可愛がっていたそうです。


 それは暮春のころ、朧月おぼろづきの照る夜のことでした。

 嘉平が行灯の火を頼りに遅くまで帳面への書き入れなどをしていると、思いがけなく強い眠気が訪れました。

 何とか堪えようとしますが、眠気はどんどんと強くなっていきます。

「これはいけないね。残りは明日にして今日は床に入ろうか」

 嘉平がそんなことを考えた時でした。

 背後で、だんな様、と呼ぶ声がします。

「誰だい、こんな夜更けに。おりくかい? おまつかい?」

 嘉平は振り返ろうとしますが、なぜか大きな石でも背負っているかのように体が重くてなかなか言うことをききません。

 その間も、背後からはだんな様、だんな様、と呼ぶ声がします。

「ちょっと待っておくれ。どうにもこうにも体が重くて――」

 やっとのことで嘉平が向き直ると、そこには誰もおらず畳の上にたまが座っているだけでした。

「おや、あまりの眠さに空耳でも聞こえたというのかね」

 嘉平が目をこすりながら周りを見回すと、こちらでございます、だんな様、とすぐそばで声がします。

「どうしたっていうのかね。まるでたまが喋っているように聞こえるとは……」

「はい。たまでございます、だんな様」

 その声は、まぎれもなくたまの座っているところから聞こえました。

「たま!? おまえ、口が利けるようになったのかい?」

「はい、だんな様。たまはやっとだんな様とお話しができるようになりました」

「なんとまあ、こんな面妖なことが起こるとは……。まあ猫は十年生きたら化けるなんて話も聞くが、私はね、たまが化けても構いはしないよ」

 嘉平はたいそう驚きましたがたまは可愛い猫に変わりはありません。

「だんな様にそう言っていただけるとは、たまは果報者でございます」

 たまはうれしそうに喉をゴロゴロと鳴らします。

「それで、私に何か話したいことでもあるのかい?」

「はい、実は折り入ってだんな様にお願いしたいことがございます」

 たまは、まるで平伏するように身を低くしました。

「たまの立っての頼みとあればやぶさかではないから、何でも言ってごらんよ」

「ありがとうございます、だんな様。お願いというのは、たいへん心苦しいのですが、たまにお暇を頂きとうございます」

「まさか、暇乞いということかい?」

「はい、だんな様。たまがだんな様のもとに参りましてもう十年になりました。たまはだんな様のご恩にお応えするため、お蔵のお役目を一所懸命に果たしてきたつもりでございます」

「そうだとも。たまはよく働いてくれたよ。たまが来てくれてからは、うちの商いもさらに大きくなったものさ」

「なれど、たまは年を取り、前のようには鼠も捕れなくなりました。お蔵のお役目については、娘のと孫のが代わりを務めさせて頂いておりますので、もうたまがいなくても不足はないかと存じます」

「ああ。みけもしろもお前によく似て鼠を捕るのが上手だから、蔵のことは心配ないよ。だから、たまはもうのんびりと暮らせばいいじゃないか」

「はい。ですがだんな様、たまには成就したい望みがございます」

 いつもなら嘉平の言うことをよく聞くたまが、この時ばかりは承服しません。

「その、たまの成就したい望みというのは何なんだい?」

「はい、たまはお伊勢さまにお参りに行きとうございます」

「ほう、お伊勢さんかい」

「たまはいつも裏の氏神さまのお社で昼寝をしておりました。七日ほど前になりますが、寝ていたたまに氏神さまが仰られたのでございます」


『たまよ。お前が嘉平のもとに来てどのくらいになる』

『はい、氏神さま。もう十年になります』

『そうか。たまよ、その間にお前はどれほどの鼠を捕らえたか』

『氏神さま、おそれながらたまは数えたことがございません』

『お前が鼠を捕るのは役目ゆえ、それはよい。しかしな、鼠たちも我が神域で生きるものたちなのだ。そこでだ、たまよ。その生を終える前に、一度伊勢の神宮を詣でてその穢れを身から清めたらどうか』

『お伊勢さまへでございますか。しかしながら、たまはだんな様にお世話になる身でございます。勝手に旅立つことはなりません』

『うむ、ならばたまよ。お前に人の言葉と我が力の欠けらを授けよう。それで嘉平の許しを得るがよい』

『はい、氏神さま。まことにありがとうございます』


「――このような次第で、たまはだんな様とお話しすることができたのでございます」

「なんと、それでお伊勢さんにお参りしたいというのかい。……そういうことなら、許さない訳にもいかないかねえ」

 嘉平の言葉に、たまは尻尾を大きく振ってよろこびます。

「ありがとうございます、だんな様。たまはこれまでだんな様のお側に置いていただけたこと、幸せでございました」

「おいおい、そんな今生の別れのようなことを言わないでおくれ。お伊勢さんへのお参りが済んだら、また戻ってくるのだろう?」

「いいえ、だんな様。氏神さまが仰られるにはたまの命はあと残り僅かとのことでございます。ならば、たまはこの身の穢れの清めと、御家とだんな様のご多幸を祈願するためお伊勢さまに参ろうと思ったのでございます」

 嘉平は、思わず目頭を押さえました。

「ああ、たまや。お前はなんといい子なのだろう。私は、本心を言えばお前にここにいて欲しい。けれども、たまがそこまで言うのなら是非もない。暇を与えよう」

「だんな様」

 たまも、まるで雨が降る前のごとく、前足でしきりに顔を撫でつけます。

「そうだ。たま、ちょっとお待ち」

 嘉平は横に置いてある文箱に手を伸ばしました。

金蔵かねぐらまで行ければいいんだが、あいにく体が石のように重くてね。今、手元にあるのはこれぐらいだ。全部で五両はあるはずだから、猫の身には重いかもしれないが、これを持ってお行き」

 そう言って、嘉平は金子きんすの入った袋をたまの前に置きました。

「だんな様、たまは猫でございます。金子がなくても虫や蛙でも穫りながら旅には出れます」

「まあ、そう言わずに納めておくれ。これは今までのたまの奉公への私の気持ちだ。人の身でもお伊勢参りは一生に一度のものさ。これまでの労苦を労いながら、物見遊山でも楽しんでおくれ」

「だんな様……」

 たまはそれ以上は何も言わず、一声、悲しげにあおーんと鳴きました。

「ああ、たまや。後生だよ。最後に、せめて、せめてもう一度だけお前を撫でさせておくれ」

 重い体で必死に手を伸ばす嘉平のもとに、たまが寄ってきました。

 差し伸べる嘉平の手に、名残惜しそうに二度、三度とたまが頭を擦り寄せてきます。

「たま、たま……」

 今度こそ嘉平は抗いようのない眠気に覆われ、そのまま気を失ってしまいました。


 翌朝、嘉平は畳に伏して寝ているところを使用人に起こされました。

 なぜそこで眠ってしまったのかは、よく覚えていません。

 そして、その日以来、たまの姿を見たものはいませんでした。



 ――季節は流れ、もう秋茜あきあかねの飛ぶ頃となりました。

 嘉平はたまがいなくなってから方々に手を尽くして探そうとしましたが、ついに見つけることは叶わず、ようやく諦めることにしました。


 ある日のことです。

 嘉平は寄合の会合から戻ると、仕事の続きをするため奥の間へと入りました。

 すると、文机ふみづくえの上に見慣れない巾着が置いてあります。

 不審に思った嘉平が巾着を解くと、中には文銭や一分銀といったお金と折り畳まれた紙片が入っていました。

 嘉平が紙片を開くと、たどたどしい文字で「しょうもん」と書かれています。

「はて、誰に貸した金だったろうねえ」

 紙片を広げると、そこには事細かく払ったお金について書かれていました。

「なになに、しながわじゅく、しばえび三十文、かつぶしめし八文。ふじさわじゅく、さざえ二十三文、かつぶしめし八文。おだわらじゅく、かまぼこ二十文、かつぶしめし九文……なんだか鰹節飯の好きな人だねえ」

 紙片には、その後も箱根宿、三島宿、蒲原宿と、東海道を西へと向かう道中に払った額が事細かに書かれていました。

 そのまま読み続けて、伊勢の宇治山田まで進んだときでした。

 嘉平の膝にぽとりと何かが落ちました。

「これは……お伊勢さんの、御札?」

 この時、嘉平は不意に何かを思い出しそうな気がして急いで先を読み進めました。

 紙片の最後にはこう書いてありました。


「これをもっておかりしたきんすをおかえしいたします たま」


 ――嘉平は、あの夜のこと全てを思い出しました。


「誰か、誰かいないのかい!?」

 嘉平の問いに、はーい、ただいまと応えがあり、ひと月ほど前に奉公に上がったばかりのおたけという女中がやってまいりました。

「これ、この巾着を持ってきたのは誰だい?」

 おたけは嘉平の持つ巾着を見て言いました。

「ああ、それなら一刻ほど前にお屋敷にいらしたお婆さんから旦那様にお返しするように頼まれましたので、私が文机に置かせていただきました。なんでも、娘さんがこちらにご奉公されてるとのことでしたので、すっかりおりくさんか誰かのお身内の方かと思ったのですが――」


 おたけの言葉が終わらぬうち、嘉平は庭に飛び出しました。

 木戸から外に出ると「たまや、たまや……」と、名を呼びながら表へ駆け出します。

 秋の野に、嘉平の声が響きわたりました。

 問いかけてもそれに応える声はなく、ただ尾花が風に揺れるばかりでございました。


 終


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朧月夜 椰子草 奈那史 @yashikusa

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