第224話 お米を食べたい

その日の朝、いきなり嫁さんが叫んだ。


「お米!食べたい!!!」


それは、帝都の宮殿を訪問した翌朝のことである。


急に力が抜けたようにテーブルの上に突っ伏し、虚ろな目で僕の顔を見ながら突然、言い出したのだ。朝食後だというのに何を言ってるのだろうか。


「どうした百合ちゃん……」


僕が呆れて問い返すと、彼女は起き上がってグイッとこちらに顔を近づけた。


「お・こ・め!食べたいの!」


「いや、言葉の意味はわかるよ。僕だって食べたい。だけど急にどうしたんだ。こっちの世界でソレは無い物ねだりだって何度も話してきたじゃないか」


「もう限界なんだよ!日本の人たちに会えて、タコ焼きまで食べちゃったら、あの懐かしい味を思い出しちゃったんだよ!」


「気持ちは本当にわかるけど、無理な物は無理だよ。こっちの世界には稲作農業が存在しないんだから」


「お米、お米、お・こ・め!食べたぁーーいよぉーー!」


体を擦りつけながら訴えてくる嫁さんに僕はタジタジになった。


今日の彼女は子どものようにワガママを言い、おねだりしてくる。ちょうど皆が席を外したタイミングなので良かったが、あまり他人には見せたくない姿だ。


おそらく彼女がこのような精神状態に陥った原因は僕にある。前日に勇者召喚に関する情報を整理し、最悪でも”死ねば地球に帰れる”という結論を導き出したにも関わらず、そもそも嫁さんは最強すぎて死ぬことができないのでは、という身も蓋もない疑問で絶望させたからだ。


もちろん彼女だけを置き去りにして僕と牡丹だけが帰るような事態にするつもりは微塵もない。しかし、最悪の場合、僕だけが死んで、僕だけが地球に帰る、という結末を彼女に想像させてしまった。彼女は悲嘆に暮れた。そんな未来には死んでもさせないと言い聞かせたのだが。


「牡丹も食べたいよね?お米!」


「うーーん?」


僕たちに近づいて来た愛娘にまで嫁さんは米の話を振った。牡丹は米の存在を忘れており、最初は首を傾げた。


「パンじゃなくて、お米のご飯だよ!真っ白いご飯!」


「ごはん……?ごはん…………ごはん!……ごはん!!!」


「そう!ご飯があれば、カレーライスだってできるんだよ!」


「カレー!!!」


「待て待て!牡丹まで焚きつけるな!収拾つかなくなるだろうが!」


ご飯の意味を思い出した牡丹に、あろうことか嫁さんは子どもなら誰もが大好きな、あの料理の話題を持ち出した。これには僕が呆れて叫んだ。


「だいたいカレーライスって何だよ!異世界で一番ありえない食べ物だろうが!百歩譲ってもナン・アンド・カレーだよ!」


「ナンには飽きたからライスなんでしょ!」


「それが無いから困ってるんじゃないか!」


必死に説得を試みるも、母子そろって合唱するように訴え出す。


「「ごはん!カレー!ごはん!カレー!」」


本当に何なんだこの親子は。


西洋風の異世界で米を見つけることが、どれだけ困難なことか、まるでわかっていない。


稲は、水が豊富で温暖な地域でなければ育てることができない。しかも麦などと比べても育成方法が独特だ。種籾から苗を育て、水田に植え、収穫後の脱穀から精米までしなければならない。


そうした文化が存在しない世界で、まともに食べられるだけの量の米を獲得することは、ほとんど無理ゲーだ。


そもそも”稲”という植物を見つけることから始めなければならないのだが、王立図書館で取得したデータを検索しても、ヒットしないのである。完全にお手上げではないか。


「あの……何事でしょうか?」


ゴネる嫁さんに呆れる僕の背後から、不思議そうな顔をしたラクティフローラが尋ねる。博識の彼女にも問い合わせてみた。


「おこめ……ライス……イネ……申し訳ありません。全く聞いたこともありませんわ」


「だよね」


「麦ではないのですよね?」


「そう。麦とは似て非なる物なんだ」


「……文化の違いとは奥深いものですわね。よもやお姉様たちとわたくしどもで、主食が異なるとは想像もしておりませんでしたわ」


「だろうね……」


僕は、ため息をつきながら嫁さんを見た。彼女は子どものような目で僕の顔を見つめている。仕方がないので、今日一日だけ、この子のワガママに付き合ってあげることにした。


「えっと……ごめんラクティ、今日は百合ちゃんと一緒にいたいんだけど、いいかな」


「そうですわね。本日の”歓迎宴”にはベイローレルが来てくれれば問題ないでしょうから」


「じゃ、今日は別行動だね」


「お二人の仲の良さには妬けてしまいますわ」


そう言ってラクティフローラは微笑した。彼女は、お昼から開催される皇帝主催の”歓迎宴”に出席するので、別れることになった。護衛にはベイローレルがつき、王女付きの侍女としてカエノフィディアも同行することになった。


ちなみに王女の愛猫アイビーは、フェーリスの操作で街中を遊び回っている。猫通信の魔法を伝染させるため、たくさんの”友達”を作りに行ったのだ。



さて、僕は、嫁さんと牡丹を連れ、さらにルプスとガッルスを伴って、アテの無い米探しの旅を始めることにした。


魔族の仲間をペットとして見れば、久しぶりに家族水入らずの外出だ。この日の嫁さんは積極的に僕と手を繋いできた。牡丹を抱っこしながら、僕たちは帝都を散歩した。


「じゃあ、百合ちゃん、どこに行く?」


「お店をまわってみる」


彼女の気が済むまで付き合ってあげるしかないと思い、要望どおり、飲食店などを散策した。しかし、もちろん米料理が見つかるはずもない。帝都の中心街をくまなく探し回ったが、徒労に終わった。


「ね、やっぱり見つかりっこないんだよ」


「……やだ。諦めたくない」


口を尖らせる嫁さんに僕も辟易した。現実を突きつければ諦めてくれるかと期待していたのだが、一向に引き下がる気配を見せない。ここまで面倒臭い精神状態になるのは結婚以来、初めてかもしれない。


見つかるまで諦めないつもりなら仕方がない。今度は本腰を入れて探すことにしようと思う。


「だったら、帝国の図書館に行ってみようか」


「うん」


元気のない嫁さんのため、帝都の図書館に向かった。そこは、宮殿のそばにある巨大な建物であり、古い書物も多数保管されている重要施設である。


ただし、王女がいなければ、ただの旅人である僕たちは入ることができない。そこで僕は、『宝珠システム』による遠隔スキャンを行った。建物の外から、屋内の全ての蔵書を検索し、盗み読みしてしまうのだ。これにより、新しく膨大なデータを獲得できた。


それを説明しながら実行すると、嫁さんが呆れた顔をした。


「……蓮くん、また悪いことしてる」


「君のためにやってるんだけどな!」


この時ばかりは、さすがに怒った。


僕たちは近くにあった公園に移動した。そこで牡丹と魔族たちを遊ばせておき、僕たち夫婦はベンチに座る。改めて稲と米の存在をデータ検索してみた。


「帝国は植物に関する書物が王国より豊富だったよ。寒冷地だから、食用にするための研究が盛んなんだろうね」


そう言いながら、実行完了を待つ。

すると、2件だけヒットした。


「あ、稲の情報だ」


「えっ!!!」


検索結果を目の前に表示すると、嫁さんが食い入るように反応した。頬と頬がくっつくような勢いで僕にベッタリ張り付き、同じ情報を二人で見ることになった。


一つの情報は、東の鎖国国家『チーナ・スターナ』で稲作農業が行われているということだった。以前に魔族のカブトムシ男トリュポクシルが東の国から武士っぽい文化を得たようなことを言っていたが、本当にこちらの世界の東の国にも、東アジアの文化が存在するのかもしれない。


もう一つは、南の共和制国家『シュラーヴァスティー』の南部に自生している植物として、稲が存在するという情報であった。


「や……やったね、蓮くん!この世界にもお米はあるんだよ!」


嫁さんが歓喜して立ち上がった。

ただし、僕は相槌を打ちつつも浮かない顔をする。


「そうだね……」


稲の存在はわかったが、すぐに手に入れられるような場所にない。特に東の国は、鎖国国家と言われるだけあって、他の国々との国交を閉ざしている。海外の人間が立ち入れるかどうかも怪しいのだ。


「じゃあ私、東の国に、ひとっ飛び、行ってこようか!」


急に嫁さんが言い出すので、僕は慌てて彼女の腕をつかんだ。


「ちょっ!ちょっと待ちなさい!ウソでしょ百合ちゃん!」


「ウソじゃないよ!本気だよ!」


「待ってよ!一人で行ってどうするんだよ!道に迷うだろうに!」


「だって、早く食べたいもん!」


「どんな国かもわからないんだぞ!」


「話せば何とかなるよ!」


「今はこっちの仕事があるでしょうが!」


「それはそうだけど!すぐ帰って来れば問題ないでしょ!」


「何をそんなに焦ってるんだよ!!!」


「だって、蓮くんにも食べさせてあげたいから!」


「僕だと!?僕がいつそんなことを頼んだ!!!」


「だって!だって!!」


言い争っているうちに嫁さんの目が涙目になってきた。何やら必死なものを感じる。本当に今日の嫁さんは放っておけない。観念した僕はある決断を下した。


「わかった!だったらもう少し待ってくれ!最後の手段を使う!フェーリス、聞こえるか?」


宝珠システムの通信で僕はフェーリスを呼んだ。彼女はすぐに応答してくれた。


『なんニャウ?』


「すまないが、お前の猫通信を借りたい。僕の宝珠システムと連動させてくれ」


『えっ!アレをやるのかニャウ?アレはものすごく、くすぐったいニャウ』


「大事な用件なんだ。帰ったら何でもしてあげるから頼む」


『何でもニャウ?しょうがないニャウねぇーー。一度だけニャウよ』


「ああ。ありがとう」


僕が最後の手段としていた方法。それは、フェーリスの【猫猫通信キャッツ・アイズ】に僕の『宝珠システム』を連動させることで、彼女の魔法効果を受けている全ての猫の情報をまとめて検索してしまう、というものである。


彼女の能力は大陸中の様々な猫に行き届いているが、普段のフェーリスは、それらの情報をチャンネルを変えるように切り替えており、決して、複数の猫の情報を一度に扱うことはない。


そこで『宝珠システム』の演算速度を用いて、彼女のチャンネルを瞬時に切り替え、全ての猫が見聞きしている情報を一度に拾い集めてデータベース化し、その上で検索するのである。


これは、【猫猫通信キャッツ・アイズ】をフル活用した最大級の検索魔法なのだ。


ただし、これをやると、フェーリス本人は非常にくすぐったい思いをするそうである。だから、彼女の許可を得ないと実行できないし、勝手にやれば恨まれてしまうのだ。


『いっ!いっひひひひひっ!にゃははははははははっ!んにゃっはーー!くすぐったいニャウ!ほんとコレ!ヤバいニャウ!変な感じでクセになるニャウ!にゃっはーーん!』


フェーリスが妙な喘ぎ声を出すのを華麗に無視し、僕は『宝珠システム』を使って画像検索を行った。すると、システムがある映像を見つけ出し、表示させた。


「あっ!コレだ!!」


「えっ!えっ!?」


「見てよコレ!白いご飯を食べてるおじさんがいる!ここは……『シュラーヴァスティー』の田舎にある小さな集落だ!」


「ええっ!!!」


なんと米を食べている人物を発見することができた。猫の位置情報から正確な場所を特定することも容易い。かなり遠いが、空を飛んで行けば、十分に辿り着ける地点である。


「すごいよ百合ちゃん!!本当にあったよ!お米を食べてる場所が!ここにいけば譲ってもらえるよ!」


「やった!!!やったよ!さすが蓮くん!」


僕自身も高揚感で立ち上がり、嫁さんは飛び上がるように歓喜した。そして、僕は彼女の目を見つめながら、静かに諭した。


「場所が掴めたんだから、あとはゆっくりと、今の仕事を片付けてから行こうよ。ね?」


「……そだね。わかった」


米の存在を明確にできたことで、嫁さんは落ち着きを取り戻した。いつもの明るい「りょ!」という返事ではないが、今、焦る必要はないのだということを気持ちの上で納得できたのだ。


フェーリスに礼を言いつつ、ホッとした僕は嫁さんに尋ねた。


「落ち着いたみたいでよかったよ。……いったいどうしたんだ?」


「え……?」


「百合ちゃんらしくないじゃないか。今では娘もいるのにこんな無茶ばかり言って」


「だって……」


彼女はこの日、幾度目かもわからない”だって”という言葉を繰り返した。そして、繰り返しつつも、その心情を語ってくれた。


「だってもしも……もしも蓮くんだけが死んじゃって、いなくなるようなことがあったら……今のうちに思い出を作っておきたくて……」


「え…………」


「ううん。そうじゃない……私が……私が自信ないんだよ。この世界で一人でやっていける自信が……蓮くんのいない世界なんて無理だよ……」


僕は呆気に取られた。やはり前日に出した仮説の結果、彼女を不安と絶望のどん底に突き落としてしまったらしい。


本当にこの子は、面倒臭いというか、意外なところでメンタル弱いというか。ちょっと依存症なくらいに僕のことを頼りにしてくれる。頼りにしすぎている。


しかし、まぁ、そういうところが、かわいかったりもする。僕も大概だ。もともと心臓の病で暗くなっていた彼女のことを守ってあげたいと思ったのが、僕の始まりなのだ。面倒臭いのは承知の上だ。


一度、深呼吸した後、僕は彼女の両肩を持って叫んだ。


「大丈夫だ!!!僕は死なない!」


「……ほんと?」


「本当だ!百合ちゃんを置いて僕だけが死ぬことはありえない!何が何でも二人で帰れるまでは生き続けてやる!」


なかなかにカッコいいことを言ったな、と思いつつ、さらにダメ押しの決意を力強く述べた。


「それにもしも!……本当にもしも!僕だけが地球に帰ってしまうことがあったら、その時は、地球で君を取り戻す方法を探す!僕はそういう男だ!」


「うぅーー、蓮くーーん」


僕の決意に感動した嫁さんが、泣きっ面で抱きついてきた。優しく抱擁してあげると、公園でルプスとガッルスと一緒に遊んでいた我が娘が、何事かと思って駆け寄ってきた。


「パパ……いけないんだ。ママ、なかせた」


「あぁ、違うんだよ牡丹。これはね……」


「パパ、ママ、なかよし?」


「うん。そうだよ。仲良しなんだよ。……ほら、百合ちゃん百合ちゃん、牡丹が見てる……ガン見してる」


「え、あ……」


牡丹の存在で我に返った嫁さんが、恥ずかしそうに僕から離れ、涙を拭いた。そして、照れて頬を赤くしながらも満足そうに微笑んで娘に教えた。


「牡丹、今のはね、嬉しすぎて泣いちゃったんだよ」


「ママ、パパのこと、すき?」


「そう!大好き!」


「わたしも、パパ、だいすき!」


「残念でした!ママの方がパパのこと大好きなんだよ!」


「やっ!わたしのほうが、すき!すき!!」


調子に乗った嫁さんは、なんと娘と言い争いを始めた。間に挟まれた僕は幸福の絶頂だが、真っ昼間の公園でコレは非常に恥ずかしい。周囲に誰もいないことを願いながら、僕は妻子の気が済むのを待った。



その後、再び家族で手を繋いで宿への帰途についた。お昼の時間を過ぎているので、米は諦めて普通の食事をすることにし、近くで適当な店を探すことになった。


「お米は食べられなかったけど、今日は久しぶりに蓮くんに甘えちゃった」


「ははは……そうだね」


「ああ、でもやっぱりお米は食べたいなぁ……。早くいろいろな問題を片付けて、お米を譲ってもらいに行かなくちゃね」


「地球に帰ったら、いくらでも食えるだろうに」


「それはそれ!これはこれだよ!」


「はいはい……」


などと言いつつ、宿の近くまで来てしまった。とはいえ、この近くには店も多いので問題はない。


ところが、まったく予期せぬことに遭遇した、という顔で、急に嫁さんが目を大きく見開いた。しかも声が深刻な様子だ。


「え、あれ……なんで?なんでいるの?」


「うん?どうした百合ちゃん?」


「なんで気配がするの!?」


これほど動揺する嫁さんは珍しいと感じた。彼女は僕の手を離し、目にも止まらぬスピードで曲がり角の向こうに走っていった。


「お、おい!百合ちゃん!」


僕は牡丹たちを連れて、慌てて追いかけた。

角を曲がって大通りに出る。


そこには愕然としている嫁さんと対峙して、もう一人の人物が道の脇にあるベンチに腰掛けていた。しかも、その人物は僕の顔を見るなり笑顔で手を振ってきた。


「やっほーー!白金くん!」


「えっ……!」


それは僕の元同級生、桜澤撫子さんであった。

これには僕も激しく動揺した。


「さ……桜澤さん……どうしてここに?」


「私もちょっとこっちに来てみたくなってね。さっき着いたとこなんだけど、そしたら二人の気配を感じたからビックリよ。こんな偶然あるのね」


「「………………」」


ここは彼女が帰ったはずの南の共和国とは正反対の方角である。しかも何千キロと離れた遠隔地だ。僕も嫁さんも、このあまりに異常な再会に言葉も出ない。


すかさず嫁さんが僕の手を取り、移動させた。そして、顔をくっつけるような態勢で小声で文句を言ってきた。


「ちょっとちょっとちょっと!どういうこと蓮くん!?なんで撫子ちゃんがここにいるの!?」


「僕が知るわけないだろ!しかもこの短期間でここまで来るなんて!クルマも無いのに!」


「よくわかんないけど、もしかして蓮くんを追いかけてきたんじゃないの?だったら私、さすがにお嫁さんとして黙っていられないんだけど!」


「いやいや、さすがにそれはないだろう!」


「だって、おかしいでしょ!?”北の国に行きます”って言っておいたら、”あら偶然ね”って顔で追いかけてきてんだよ?普通じゃないでしょ!これ日本だったら、かなりヤバい案件だよ?」


「そ、そりゃあ、確かにおかしいよね……いったい何が目的なんだか……」


「ここは曖昧にするべきじゃないと思う!私、ちょっと勇気出して、撫子ちゃんとしっかり話をしてくる!嫌われたっていいから!」


「うん……そうだね……頼むよ。僕からじゃ聞きづらいし」


「りょ!」


僕に了解のポーズをした嫁さんは、決意の表情で威勢よく桜澤さんのもとへ歩み寄って行った。


ところが、次に彼女は、さらなる驚愕の事実を目の当たりにし、立ち止まった。それは僕も目にしており、夫婦そろって固まってしまった。


「「え……?」」


桜澤撫子さんは、遅めの昼食として、持参している軽食を食べていたのだ。初見では本人に驚いてしまったため、その包みを広げている事実に気づくことができなかった。


それは、僕たち日本人が最もよく知る軽食であり、ソールフードであった。


「お……おにぎり……」


嫁さんは、体をワナワナと震わせ、絞り出すような声で呟いた。まるで死んだと思っていた恋人に再会したヒロインのような愕然とした顔をしている。


先程まで僕たち夫婦が血眼になって探し求め、所在が判明しただけで感激していた食材が、いきなり眼前に現れたのだ。この衝撃は、形容する言葉も見つからない。少なくとも今この瞬間だけは、嫁さんの夫は僕ではなく、おにぎりだったように思う。


ゴクリ


という音が僕の方にまで聞こえてきそうなほどの勢いで、嫁さんは生唾を呑み込んだ。硬直した彼女を見た桜澤さんは、淡々と謝罪する。


「あ、ごめんね。まだお昼食べてなかったから、ちょっと腹ごしらえ」


平然と言う彼女に嫁さんは恐る恐る尋ねる。


「な、撫子ちゃん……それ……どうしたの?」


「ん、これ?私が握ったんだよ」


「そうじゃなくて!お米!!!……だよね?」


「ああ!そうそう。お米。これも私が作ったのよ。稲を育てるのって本当に苦労したんだから」


「すごい!!!すごいよ!すごすぎるよ!撫子ちゃんは神様だよ!!!」


「よかったら1個食べる?」


「食べるっ!!!」


恋敵のように桜澤さんを睨みつけていたはずの嫁さんだが、白米の誘惑に負け、彼女の横に従順な子犬のような態度で座った。


「おいおい……」


それを見ていた僕は、ただ呆れる声を出すだけだった。

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