第149話 勇者と魔王⑤
それは魔王軍との決戦前夜のこと。
魔城の発見が報告される前、僕は嫁さんと自邸のテラスで語り合った。
「蓮くん、私、ちょっと考えたことがあるんだ。家族会議したいんだけど」
「なに?」
満月になる一歩手前の美しい月明かりに照らされながら、急に改まった口調で語り出した嫁さん。その提案内容は、次のとおりだった。
「牡丹ちゃんをね、私たちの娘にしたいなって」
「えっ……!」
全く考えもしなかった事案だったので、僕は驚愕した。他人の子どもを引き取るというのは、現実の生活では、なかなか思い至らない発想だ。
ところが、僕が驚いたのは一瞬だけで、すぐにその考えが僕の思考に溶け込んでいった。そして、まるで元から自分で考えていたことのように、すんなりと受け入れることができた。
考えてみれば、身寄りのない栗森牡丹を救い、これからの面倒を全て見ようと思っていたのだ。それはもう僕たちの娘であるのと変わりないではないか。
さらに牡丹は、元の世界で親から虐待を受けている。そんな非人道的な保護者に対して、何か引け目を感じることがあるだろうか。
いや、ない。
それどころか、僕たちに育てさせろと言ってやりたい。
僕は穏やかに答えた。
「……考えもしなかったけど、それが一番いいね」
「でしょ?だから、私、魔族の拠点で牡丹ちゃんに会ったら、それを提案してみようと思うんだ。どうかな?」
「うん。そのとおりだ。やろう。むしろ、それくらいの決意でなければ、あの子を救うことはできない」
「やった!じゃ、夫婦で了承済みってことで!」
「ただ、これについては、僕よりむしろ百合ちゃんの方が、課題が多いんじゃない?」
「う、うん。ほんとにそう。でも、頑張る!」
牡丹を娘として引き取る場合、僕は彼女から気に入られているので問題ない。しかし、彼女から天敵のように恐れられている嫁さんが、その母親となるのは至難の業ではないか。そう考え、僕は、嫁さんの方が課題が多いと言ったのだ。
それにしても、あの無愛想で恥ずかしがり屋の幼女魔王が自分たちの娘になる。
夫婦でそんな未来を語り合って以来、僕の中では、既に牡丹を娘のように愛おしく思う感情が芽生えていた。もともと命を懸けても救おうと決めていたが、その想いに拍車がかかった。
それは、提案者である嫁さんも全く同じ、いや、僕以上だったに違いない。
今、その嫁さんが、暴走している牡丹と向き合った。
だが、「あなたのママになりたい」という重大発言を、正気を失った牡丹に告げたところで耳に入るはずもなかった。
「ぅぅ……!ぅぅぅぅ…………!!」
強敵を前にした牡丹は、一心不乱に嫁さんを睨みつけている。ベイローレルを守るように立ちはだかった嫁さんを敵と見なしているのだ。
我を忘れているためか、以前は顔を見るなり恐慌をきたすほど嫁さんを恐れていた牡丹だったが、今は勇敢にも立ち向かおうとしている。
見た目は17歳の美少女同士が対峙した。ただし、一方は狂暴な眼で臨戦態勢であるのに対し、もう一方は慈愛の表情で悠然と立っている。
嫁さんは優しく笑みを浮かべて一歩ずつ近づいていった。
「何か辛いことがあったんだよね?牡丹ちゃん?まるで世界そのものを憎むような敵意……大丈夫だよ。私が全部、受け止めてあげるから」
嫁さんが登場した以上、僕の出る幕はない。全てを任せると決めていたが、彼女の発言で、これから何をしようとしているのかを僕は理解した。
牡丹の眼前に立った嫁さんを見て、ベイローレルが大声を張り上げた。
「ダメです!!ユリカさん!!!逃げてください!!!」
嫁さんの強さをまだ理解していない彼は、必死になって叫んでいる。両腕を折られ、足も負傷しているらしいベイローレルは、立ち上がることもできず、ただ嫁さんの動向を見守るしかなかった。
「お願いです!!それは人間の勝てる相手ではありません!!!近づいただけで死んでしまうんです!!!離れてください!ユリカさん!ユリカさぁぁん!!」
必死すぎるとも言える訴えだった。
彼は本気でウチの嫁さんを好きなのだろうか。
涙目で叫んでいる彼を見ていると、こっちの方が胸が痛くなる。
そんなベイローレルの想いも虚しく、嫁さんの腹に牡丹が渾身の右ストレートを放った。
「ユリカさぁんっ!!!!!」
絶叫するベイローレル。
しかし、当の嫁さんは、ピクリとも動かない。
「…………え?」
ようやくベイローレルは、何かがおかしいことに気づいた。そもそも牡丹に最接近している嫁さんは、既に約30倍という果てしない超重力を受けているのだ。魔法を解除しているわけでもなく、その状況下で普通に立っていること自体が、ありえない現象である。
「ぅぅぅがあぁぁぁぁぁぁっっ!!!!!」
荒ぶった牡丹が、さらに猛烈なラッシュで嫁さんの顔と体を何度も何度も殴った。その全てを嫁さんは何のガードもせずに受け続ける。
一撃食らっただけでレベル48の”勇者”ベイローレルが重傷を負った攻撃だが、それを数えきれないほど真正面から受け止めたのだ。さすがのベイローレルも信じられないような面持ちで絶句している。しばらく茫然とした後、彼は僕に向かって叫んだ。
「なっ!何してるんですかレンさん!!奥さんが殺されそうなんですよ!なんで止めないんですか!!!」
どういうわけか、彼は僕に対してキレていた。こちらの作業に忙しい僕は、大きな声だが落ち着いた言い方で簡潔に答えた。
「いいんだ!全部、百合ちゃんに任せておけ!!」
嫁さんの心はわかっている。自分が、牡丹の怒りの捌け口になろうとしているのだ。彼女に気の済むまで攻撃させ、落ち着かせようとしているのだ。
脳筋プレイヤーらしいゴリ押しの作戦である。単純と言えば単純だが、これほど有効な手段もあるまい。しかし、それを大魔王クラスの実力者相手にやろうとしているのだ。こんなことができるのは、世界中探したって、ウチの嫁さん以外に存在しない。
「………………」
確信ある僕の声を聞いたベイローレルは言葉を詰まらせ、心の中で叫んでいた。
(なんだ!なんなんだ!!この夫婦は!!!)
一方、嫁さんが駆けつけた直後から、僕はガッルスの場所まで辿り着いていた。今の僕がやるべきことは、牡丹が暴走した原因であるガッルスの致命傷を治すことだ。
だが、ガッルスの容体は、あまりにも悲惨なものだった。
左肩から右足の付け根までを斜めに切断されており、内臓はもとより、心臓がやられている。出血も多量で、どう考えても死んでいるように見えた。
しかし、宝珠システムの解析では、まだ脳が生きている。
生存の可能性があるのだ。
魔族はここまで驚異的な体力を持っているのか、と感嘆する。
僕は直ちに引き裂かれた肉体の止血と接合を開始した。これまでに様々な治療を実施したお陰で、かなり手際がよくなっている。
心臓が斬られているので、魔法によって、人工的に血液を動かすポンプを作成した。肺は片方が生きているので、これによって生命維持できる。
ニワトリ魔族であるガッルスの肉体は、臓器の仕組みや並びが人間と異なるが、宝珠システムの解析により、復元すべき姿はわかっている。
ローズの時は重傷箇所が肉体全体に及んでいたが、今回は傷口が一つに限定されているので、システム負荷も意外と少ない。むごたらしい状態にも関わらず、人間と比べて体力のある魔族の治療は、どこか気楽な印象さえあった。
だが、血が足りない。
時間が経過したため、血が流れ過ぎたのだ。
全体の7割以上の血液が流出している。
人間であれば、絶対に死んでいる量だ。
これでは、いくら魔族でも回復する前に命を落としてしまうだろう。
血液を増幅させる方法はいくつか考えていたが、まだ実現できていない。つまり、どこからか血液を補充する必要があるのだ。
焦る僕が周囲に目を配ると、少し離れた位置に気絶した大きなフクロウが転がっているのを発見した。八部衆の一人、ストリクスだ。
ここまで足からマナを飛ばすスキルで、ジェット噴射するように空を蹴って飛んで来た嫁さんは、彼を道案内として連れて来ていたのだ。おそらくは音速を遥かに超えた速度であったことだろう。
「お……お許しを…………お許しをぉぉ…………」
彼は、うわ言を呟きながら、気を失っていた。
それを見て、僕は歓喜した。
「きっと偶然なんだろうけど、百合ちゃん!君は本当にイザって時は、なんていい仕事をするんだ!」
空気のベッド作成と風の魔法により、ストリクスを近くに引き寄せた僕は、彼の肉体から血液を採取した。
「ストリクスよ。今、お前の体には、世界の命運がかかってるかもしれないぞ!」
そう呟きながら、ガッルスから流出した血液とストリクスの血液を混合してみた。拒絶反応の有無を確認するためである。宝珠システムで解析しながら検証したが、大きな反応は検出されなかった。
「やった!鳥型の魔族同士!一か八かだが、やってみる価値はある!」
僕は、ストリクスから採取した血液をわずかにガッルスに輸血した。肉体の反応を見ながら慎重にである。徐々に量を増やしていっても、拒絶反応は出なかった。安心した僕は、ストリクスからガッルスへの輸血を継続的に行った。
このペースなら、ガッルスは一命を取り留めるに違いない。
あとは嫁さん次第だ。
僕は嫁さんに目を移した。
牡丹から殴られ続けた彼女の顔を見ると、薄っすらと口から血が出ている。僕はこの世界に来て以来、初めて嫁さんの血を見た。
いくら牡丹の攻撃力が強いとはいえ、それでも嫁さんの防御力には到底届かないはずだ。それが、傷を受けているとしたら、嫁さんの体力が尽きはじめているのだろうか。
一瞬、心配した僕だったが、それが杞憂であることにすぐ気がついた。嫁さんは、牡丹のためにあえて防御力を落としているのだ。
自分の防御力で牡丹の攻撃を完全ガードしてしまえば、反動で怪我をするのは牡丹だ。それを和らげるため、自ら防御を崩し、ある程度のダメージを受けているのだ。なんという捨て身の行為だろうか。
「はぁ……はぁ…………はぁぁ………………」
そんな嫁さんを殴り続けた牡丹は、ついに疲れを見せはじめ、息を切らせた。ボコボコにされていた嫁さんが元気に直立し、殴っていた牡丹が疲れ果てるという、とんでもなく矛盾した光景が生まれた。
「いいよ。牡丹ちゃん。私はまだまだ平気。遠慮しないで、思いっきりやっちゃって。ただし、私にだけね」
口から血を滲ませながらも優しく微笑む嫁さん。
それをジッと睨んだまま呼吸を整えた牡丹は、再び雄叫びを上げた。
「ぅあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!!」
その瞬間、ホール全体に行き渡っていた超重力場が解除された。
ずっと重力に苦しんでいた”幻影邪剣”カツラと第六部隊の部隊長ホーソーンは、この時、やっと重さから解放されたが、嫁さんと牡丹のやり取りをただ唖然として見ている以外にない。
そして、牡丹の能力は一点に全力で注がれた。
ギュゥゥゥンンッ!!!!
突然、嫁さんが上空に目にも見えない程の加速度で上昇した。
穴の開いた天井に彼女が激突し、今度は下に向かって凄まじい加速度で落下してくる。
何十倍という重力加速度を一身に受けた嫁さんが、上下に落下させられたのだ。普通に考えれば、全身が粉々に砕けてもおかしくない衝撃のはずだ。
「大丈夫だよ。気が済むまでやって」
それでも起き上がり、ニッコリ微笑む嫁さんを見て、牡丹は目を丸くした。
「ぅああぁぁっ!!あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
絶叫とともに牡丹は超重力を水平方向に向けた。
広いホールの中を嫁さんの体が、四方八方に飛び交い、壁に次々と激突する。それは、まるでゲームのブロック崩しの玉にでもなったかのような動きだった。
世にも恐ろしい光景である。こんなものを普通の人間が食らえば、どうして原形を留めていられよう。しかし、それでも嫁さんには効かなかった。
だが、ある時、飛ばされた嫁さんの向かった先にベイローレルがいた。もしも衝突した場合、嫁さんは無事でもベイローレルがグシャグシャになってしまうだろう。
すかさず嫁さんは床を蹴り、方向を上にずらした。ベイローレルを飛び越えた後、壁を蹴って牡丹の眼前に素早く戻ると、鼻と鼻を突き合わせるようにして、少し真顔でこう言った。
「コラ。私だけって言ったでしょ。他の人を巻き込んじゃダメ」
口を開けて唖然とする牡丹に代わり、ここでまたベイローレルが悲鳴のように叫んだ。
「ユリカさん!お願いです!もうやめてください!!死にたいんですか!!!」
「ベイくん!」
やっと彼の言葉に反応した嫁さんは、その後、続けて一言だけ叫んだ。
「邪魔!!」
可哀想にベイローレルは、目の前が真っ白になったような気持ちで言葉を失い、ただ胸の内で絶叫した。
(ええぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!)
牡丹の目を見つめ続ける嫁さんは、さらに彼女に告げた。
「どう?もう気は晴れた?それとも、まだ続ける?」
余裕の笑みでそう言うのだが、嫁さんの頭からは血が流れている。露出した腕や太ももからも血が出ており、服はボロボロだった。
壁との衝突ならば牡丹の体を心配する必要はないはずだが、それでも傷ついているということは、牡丹の超重力攻撃が、嫁さんの防御力に追いつくほど凄まじいことを意味していた。高度4000メートルから自由落下しても傷一つ負わなかった嫁さんがダメージを受けるとは、いったいどれほどの威力なのだ。
怪我をしている嫁さんの姿には、信頼している僕でも息を呑んでしまう。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!」
まるで断末魔のような牡丹の絶叫がコダマした。
いつしか、牡丹の目には涙が浮かんでいる。
もしかすると、自分でもどうしていいのか、わからなくなっているのかもしれない。
それと同時に嫁さんは、上に横に、局所的な超重力であらゆる方向に飛ばされた。今度は、飛距離を伸ばすことによって落下時間を延ばし、その分、衝突速度を上げてきた。しかも、えげつないことに削れた壁の角など、より殺傷力の高い位置へ向かって飛ばされるのだ。
ガッルスの治療を続けながら、僕はハラハラしはじめた。
いくら世界最強とはいえ、これで本当に嫁さんは無事なのだろうか。一緒に命を懸けると誓い合ったが、まるで命を捨てるような嫁さんの行為に僕の胸は張り裂けそうだ。
おそらくは誰もが似たような思いでその光景を見守る中、ついに一際大きな音がホール中に響き渡った。
ゴッキィィィン!!!
何かが軋むように折れる音。
嫁さんが、天井の崩れた角に首をぶつけたのだ。
耳をざわつかせる奇怪な音響とともに嫁さんはダランと力なく自由落下してきた。手応えを感じた牡丹は能力を解除している。
超重力が加わっていないため、急に遅くなった印象を持つが、5階から2階への落下である。十分な衝撃だ。
ゴドッ……
全ての音が消え去ったかと思われる静寂のホールの中央に、嫁さんの落下音だけが響いた。
嫁さんは、ピクリとも動かなかった。
僕は感知できないが、おそらくは、気配も絶たれていることだろう。
「ユ!!ユリカさん!!!ユリカさぁぁぁぁぁぁぁんんっ!!!!」
それを感じたベイローレルが、狼狽するほどに絶叫した。驚くことに彼は号泣している。
お前、ローズが死んだと思った時、そんなじゃなかったろ。
と言ったら可哀想だろうか。
そして、同じく嫁さんからの気配を感じなくなった牡丹は、近くに落ちた彼女のもとにゆっくり近づいた。
「……………………」
フルパワーで攻撃を続け、ようやく動きを止めた相手を前にして、牡丹は体を震わせて見つめていた。その表情からは、喜びなどではなく、激しい後悔が感じられる。
癇癪を起して物を乱暴に扱った結果、それを壊してしまった。
そんな愕然とした顔をしていた。
「ユ…………ユリ……カ?」
牡丹は、相手が嫁さんであることを初めて認識したように呟いた。
「ユリカ…………ユリカぁぁ………………」
そして、彼女を殺してしまったことに気づき、激しく動揺し、膝を崩した。
目には涙を溜めている。
その時だった。
「バァァァーーーー!」
いきなり嫁さんが飛び起きた。
子ども相手に死んだふりをしていたのだ。
もちろん僕はレーダー解析でわかっていた。
牡丹は涙も消えて目を丸くし、口をポッカリ開けている。血だらけに見える嫁さんは、見た目に反して全くピンピンしていた。重傷に見えるよう、あえてダメージを受けていたのだ。
世界最強たるウチの嫁さんは、魔王を相手に壮絶なる”いないいないばあ”をやってのけたのである。
「ビックリした?死んじゃったと思った?ポッキリ折れたのは、私じゃなくて、この剣でしたぁっ!」
嫁さんは、明るい声で腰に差していた剣を見せた。確かに綺麗にへし折れている。首が折れたように聞こえたのは、彼女が剣を自ら折った音だったのだ。
元気に笑う嫁さんを前にして、牡丹は目をウルウルさせた。
「ユリカぁぁ…………ユリカぁぁぁぁ………………!」
ホッとしたためか、いっきに泣き崩れる牡丹。
ついに彼女は正気に戻ったのだ。
それを嫁さんは優しく抱きかかえた。
「よしよし……ごめんね。驚かせちゃったね」
「ぁぁあああん!ぅぁぁぁあああああああん!!」
「ねぇ、牡丹ちゃん、何があったのかな。ゆっくりでいいから聞かせて」
「ガッルスがぁぁ……ガッルスがぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「そっかそっか……あのニワトリちゃんがやられちゃったんだね。でも、ほら、牡丹ちゃん、あっち見て。蓮くんが来てくれてるんだよ。ガッルスちゃんを治療してくれてるよ」
「えっ……!」
驚いた牡丹が僕の方を見た。成人した姿の彼女が、ついに僕のことを認識してくれた。それだけで僕は嬉しくなり、手を振って応えた。
まだ治療は完了していないが、ガッルスは生命活動を再開している。心臓が修復され、心拍を再開すれば、息を吹き返すことも可能だろう。
僕にはわからないが、ガッルスからは気配を感じられるようで、それを察知した牡丹と嫁さんは、二人で喜びあった。
「ガッルス!いきてる!」
「うん。そうだね。生きてるね」
「レン、すき!ユリカも、すき!」
牡丹はそう叫ぶと、嫁さんに抱きついた。
ついに「すき」と言ってもらえた嫁さんは、感激して泣きそうな顔をする。
だが、ここで牡丹はあることに気づき、ビックリしてすぐに離れた。
「あれ!なに?これ……」
自分が大きく成長していることに今頃になって疑問を持ったのだ。
「おっぱい……おっぱい!おっぱい!」
しかも、あろうことか、自分の胸を触ってそれを連呼している。彼女にとっては、よほど大事件らしい。嫁さんは、それには言及せず、優しく微笑して語りかけた。
「ね、牡丹ちゃん、あなたの名前は、牡丹。わかる?」
「……ぼ・た・ん?」
「そう。牡丹。あなたは、牡丹なんだよ」
「ぼたん……ぼたん……」
牡丹はそれをとても懐かしい響きに感じた。
彼女が時折、見る夢。
女性が優しく語りかけてくれる呼び名。
それが、そのような名前だった気がしてきた。
何度も口に出すうちに、次第に確信に変わってくる。
「ぼたん…………」
再び彼女の目に涙が浮かんできた。
おぼろげながらにも、遠い昔の記憶が蘇ってくる気がした。
だが、思い出したくない。
恐ろしい記憶までもが呼び覚まされそうだ。
そんな感情も同時に芽生える。
複雑な心境になり、俯いてしまった牡丹に、嫁さんは慈愛の表情で告げた。
「ね、牡丹ちゃん、私、あなたのママになってあげたいんだけど……」
「マ…マ……?」
「うん。こんな私でよければ、ママにさせてもらえないかな?」
「ママ……?ユリカ……ママ?」
「う、うん……ダ、ダメかな……?」
不思議そうに首を傾げた牡丹を見て、嫁さんは、生まれて初めて告白した女子みたいにアタフタしはじめた。そして、ドギマギしながら、腰に着けていた小さなバッグを開けて、中身を取り出した。
「……あ、そうだ!えっと…………これ!牡丹ちゃんに渡したかったんだ!プレゼント!急ごしらえなんだけど、お人形さんだよ!こういうの、こっちの世界に来てから持ってないでしょ!」
バッグから出したのは、嫁さんお手製の人形だった。幼い女の子が人形遊びをするのは当然のことなのだ。それを嫁さんはよくわかっていた。
実は、僕たちがベナレスを出発する前夜、嫁さんは秘密の準備があると言って、一人で深夜の作業をしていた。それは、この人形を手作りしていたのだ。
とても良く出来た綺麗な人形だった。しかし、激しい戦闘によってズタボロになっており、見せた瞬間、首がもげてしまった。
「あっ!!あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁっっ!!!!」
今までの戦闘で一度も出さなかった情けない悲鳴を嫁さんが上げた。
「……ご、ごめん……ごめんね。また、作り直すから……だからその…………」
好きな男子に告白し、相手の微妙な反応からフられる寸前、というような絶望的な顔で嫁さんはオロオロする。そんな嫁さんの目を見ながら、牡丹が呟いた。
「ママ……」
「え……」
座り込んだまま見つめ合う二人の美少女。
「ユリカ!ママ!」
「牡丹……」
「ママ!!」
「牡丹!!」
二人は抱き合った。
この瞬間、牡丹の中で、夢に見ていた優しい女性の顔が、嫁さんの顔になった。恐ろしかった記憶への連想も消え失せた。もしかすると、この時を最も待ち望んでいたのは、牡丹だったのかもしれない。
「ママ!ママ!!ママ!!!」
そう何度も叫びながら、牡丹は泣いた。
これまで見せた涙とは全く違う、輝くような涙だった。
すると、この時、不思議な光が発せられた。
それが何なのか僕はまだ認識していないが、牡丹の首と両手の手首には、リングが付いていた。伸縮性のある素材で出来ているため、牡丹が成人化しても壊れずに済んでいた。このリングが、淡く発光したのだ。
それとともに肉体も光を帯び、牡丹の体が縮みはじめた。
そして、元の4歳児の姿に戻った。
抱き合う二人は、自然と嫁さんが牡丹を抱きかかえる形になり、そのまま嫁さんが立ち上がった。一緒に泣いていた嫁さんは、指で涙を拭きながら、牡丹に言った。
「よかったね。牡丹。元に戻っているよ」
「あ……おっぱい、ない」
「これで、めいっぱい抱っこできるね」
「うん!」
「そうだ。ついでにね、私がママになったから、蓮くんがパパになるんだよ」
「レン……パパ?」
「そう。蓮くんが、パパ」
「パパ!レン!パパ!」
おいコラ。今、ついでと言ったな。
とツッコみたいが、それ以上に僕も嬉しかった。
僕は父親になったのだ。
「レン、パパ!ユリカ、ママ!」
「うん。そうだよ。牡丹。私たちの牡丹。あなたは今日から、
「ママ!」
「牡丹!」
抱っこし、抱っこされた二人は、いつまでも頬をすり寄せて、互いを呼び合っていた。
その光景を見ていたベイローレル、ホーソーン、”幻影邪剣”カツラは、ただ唖然として見守るだけだった。
そして、吹き抜けのホールの上の階層には4人の部隊長と5人の親衛隊が遅れて駆けつけており、予想外の状況に理解が追いつかず、茫然としていた。
「じゃ、牡丹。家族になった私たちは、まず最初にやらなきゃいけないことがあるんだよ。わかるかな?」
「んーー?んん?」
嫁さんから問いかけられた牡丹は、何もわからず困惑した。
それを見て、微笑した嫁さんは優しく言った。
「じゃ、ママがやるから見ててね」
「うん」
すると、嫁さんは、この場に集った人々全員に向けて叫んだ。
「てことで、みなさん!」
そして、牡丹を抱えたまま、ペコリと頭を下げた。
「ウチの娘が!大変にご迷惑をお掛けしました!!」
この日、この時、僕と嫁さんに新しい家族ができた。
僕たち夫婦は、子を持つ親になったのだ。
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