第7話  異変の始まり

 翌日ヴィヴィアンは昨夜の事が何もなかったかの様に晴れ晴れとした表情でダレンへ先触れを出す様に言づける。


「――――はぁですが奥方様。幾ら奥方様のご命令とは申しましても、こればかりは素直に従いたくはないのですが……」


 執務室で粛々とダレンが雑務をこなす傍らでジョナスはと言えば副執事アンダー・バトラーらしく彼に命じられた仕事をこれまた粛々とこなしていた。


「ごめんなさいダレンやジョナスがとても忙しいのは十分理解しているのです。でも昨日ブラドル男爵令嬢に対しとても失礼をしてしまいましたので、今日の午後若しくは近々ご令嬢のご都合と公務の合間にでもしっかりお話をしなくてはと思ったのです。そ、それに……何と申しましても彼女のお腹の中には旦那様の御子が今も育ちつつあるのですもの。ですから私……」


 本当は夫の浮気の確認等したくはないとヴィヴィアンは何時になく強く思ってしまったがしかしである。

 そこは真正直な彼女は逃走する前に今一度真実なのかどうかを確認しなければいけないと思い至ったのである。


 普通は浮気疑惑だけでもアウトと判断しても差し支えはないのだが、まあそういう馬鹿正直またはお人好し過ぎる性格のヴィヴィアンだからこそ皆に愛されているのだ。


 本人は至って無自覚なのは最早お約束と言ったところである。


「ですがこちらは名門公爵家。然も奥方様は皇族であり我がエアルドレッド帝国最高位の女性なのですよ。その様な身分高き御方が男爵家、また叙爵されたばかりの何の後ろ盾もない吹けば飛ぶ程の家名ばかりの屋敷へ奥方様が直接お出向きになられる等あってはならないのです」

「で、でもダレン!! 私が皇族であるのは旦那様へ嫁いだからであり私自身は普通の貴族令嬢として育ってきたのです。それに身分だけで人となりを判断してはいけないと思うのです。あ、でもダレンの言う事もちゃんと理解はしているのですよ。ダレンもウィルクス夫人だけでなく屋敷の皆は何時もこんな私へとても気遣ってくれているのですもの。感謝はしているのです。ただ……」


 真実を一刻も早く知りたいだけ――――。


 つい先日までならばこの様な想いを感じる事はなかったとヴィヴィアンは思う。

 そう前回の様に準備が整えばシンディーを連れて逃げ出したと言うのにだっ。


 何故家格が下の、それも普通に考えればヴィヴィアンから相手の屋敷へ訪問する等ダレンの言う通りあり得ない話である。

 高位で然も皇族の彼女の立場なら呼び出せば済む問題なのに……。


 まあたとえ今回の様な状況でなくともヴィヴィアンならば、やはり権力の行使や上下の身分等関係なく必要と感じたのであれば進んで自ら歩み寄っていくのがヴィヴィアン・ローズと言う女性なのである。


 しかしそれを踏まえた上でも何故なのだろうとヴィヴィアンは彼女の気づかぬ間に、そう密やかに少しずつ蓄積された漆黒のおりが気化し、本人の気づかぬ間に無垢な心を黒い霞がかったものがゆっくりと彼女を覆っていく。

 それによりたった今まで信じられた全てのものへあらゆる負の感情が彼女をゆっくりとそして確実に支配していくのだ。

 

 怒り、悲しみ、嫉妬に嫉み、恨み、怨嗟、憎悪、自棄、そしてそれらを超えて破壊衝動へと、全てを壊し、潰してしまいたいと――――。


「お、奥方様!!」


 ヴィヴィアンの背後よりゆらりと黒い靄が彼女をゆっくりと包みこもうと、それはしっかりと意志を持って動いているのかとダレンは思わず大きな声を上げると同時に座っていただろう椅子をその反動で倒してしまう程の勢いで立ち上がった。


「――――っ⁉ あ、ど、どうし……何故私はここ、に?」


 ガタン――――!!


 ダレンの叫び声と椅子の倒れる大きな音を聞いたヴィヴィアンは身体を大きくビクつかせればダレンが先程視えたであろう黒い霞は一瞬の間に消え失せ、残るは驚愕しきった表情のヴィヴィアンだけだった。


「奥方様大丈夫に御座いますか。ジョナス直ぐにウィルクス夫人とシンディーを連れて来て下さい」


 何が起こったかわからずおどおどとした表情のジョナスは、ダレンの声と共に抜けかけた腰を叱咤しうの体で何とかヴィヴィアンの直ぐ横を通り抜け執務室を後にした。


「あ、あ、あのダレン、わ、私はどうしてここに? 先程まで部屋にいたのにどうして……!!」



 今までとは全く違う。

 過去世において感じた事のない不可思議な違和感と自身の行動に驚き、そして恐怖するヴィヴィアンにダレンは優しく宥める。


「大丈夫に御座います奥方様。直ぐに旦那様もお戻りになられますのでどうかお屋敷内で心静かにお過ごし下さいませ」


「え、あ、そ、そうね。でも、本当にどうして私はっ、私の知らない間に部屋を出たのでしょう」

「今は深く考えずに、シンディーには絶対に奥方様より離れぬ様申し付けておきます」



 それから直ぐシンディーとウィルクス夫人はダレンの執務室へやってきた。

 そうしてヴィヴィアンはシンディー達に支えられる様にして私室へとゆっくり戻っていく。


「ジョナス、警備の者……いいえ屋敷内の者へ警戒を怠るなと伝言をして下さい」

「は、はいダレン様!! でも本当に大丈夫なのでしょうか?」


 ジョナスはおどおどした口調と共に悲愴な面持ちでダレンへ訪ねた。


「……あまり芳しくはありませんが、旦那様は直ぐにお戻りになられます。さすれば大丈夫、そうきっと……何もかも大丈夫でしょう。私はそう信じております」

「お、ぼ、僕も信じますダレン様っ」


 そうしてジョナスは各部署へ伝令の為にと部屋を辞したのであった。

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