1-2 屈辱の時間
朝食を食べ損なった私は屋敷の図書室で本を読んでいた。この図書室にはおよそ2万冊の本が並べられているという。読書が大好きな私はもう半分以上ここに並べられている本を読みつくしていた。
そして今朝もこの図書室の片隅で、誰にも居場所がばれないように息を潜めて本を読んでいると、エントランスの方向から父とカサンドラの声が聞こえてきた。
「おじ様、では行ってきますね。」
「ああ、行っておいで。カサンドラ。しっかり勉強してくるのだよ。」
気持ち悪いほど甘ったるい声でカサンドラに語りかける父の顔はきっとだらしなく歪んでいるに違いない。それは決して自分の娘には向けない姿である。
「カサンドラ・・・学校へ行く時間なのね・・・・。」
私は本から目を離さずにポツリと言った。だが、果たしてあのおつむのあまり良くないカサンドラは名門女子学院の勉強についていけているのだろうか?
恐らく、ついていけてはいないだろう。何故ならカサンドラの元には一流の家庭教師がひっきりなしに邸宅を訪れ、個人レッスンを行っているのだから。
一方の私の扱いは酷い物だ。生まれてから18年間、ただの一度も学校へ通わせて貰った事が無いのだ。今どき、平民の子供だって学校へ通える時代だというのに、何故伯爵令嬢である私は学校へ通わせて貰えないのだろうか?
だが・・・それでも私は運が良かったのかもしれない。私の母は有名女子大学を首席で卒業した才女である。父が私の為にとつけた家庭教師は本当に酷いものだった。小学生レベルの授業迄しか教えてくれないからだ。そんな状況を母が黙って見ているはずは無い。なので家庭教師が帰った後は、母と2人で隠れて猛勉強をしている。幸い、私は頭が良い。無能な父の血を引かず、優秀な頭脳の母の血を受け継いでいた。
それに勉強して新しい知識を得られのは楽しかったし、頭さえ良ければいつかこんな理不尽な家を出て、1人で生計を立てていく事だって可能なはずだ。取りあえず、今の私の目標は20歳になって成人を迎えたら、この家とは絶縁して独立する事である。
図書室に置いてある時計を見ると時刻は午前9時になっていた。
もう父は仕事に出かけた時間である。私は図書室のドアをそっと開け、辺りをキョロキョロと見渡し、廊下に誰もいない事を確認すると図書室を出て自室へと向かった。
そして自室へと戻ると、窓際に置かれた小さなデスクに向った。
「カサンドラの頭が悪くて助かったわ・・・。」
引き出しからカサンドラの数学の教科書を取り出すと私は言った。この教科書はカサンドラから預かったもので、どうしても学院の宿題が解けずにカサンドラが私に泣きついて来たのだ。普段は私に意地の悪い事ばかりしているのに、こういう事にだけ人を利用するとは、本当にカサンドラは最低な女である。
「さて、ではやりますか・・。」
私は紙を取り出すと、サラサラとペンを動かし・・・ものの10分程で解いてしまった。
「全く・・こんな簡単な問題が解けないなんて・・・。名門学園の名折だわ。本当に勿体ない・・・。私だったら・・・きっと。」
そこまで言いかけた時、ノックの音が聞こえた。
「ライザお嬢様、数学の授業に参りました。」
「はい、どうぞお入り下さい。」
私は慌てて部屋中の窓という窓を開けながら言った。
「失礼致します。」
中へ入って来たのは肥え太った背の低い男で、黒い髪は脂が浮いた様にペットリしており、肩にはフケが落ちている。太っている為に体臭がきつく、吐き気を催して来る時がある。なので彼がここへやって来る時はどんなに寒い日でも部屋の換気が欠かせない。
部屋へ入るなり、数学教師は言う。
「おやおや・・・今朝もライザ様のお部屋は空気の流れがよいようですねえ。ですが本日は風が少々強いので、これでは紙が飛ばされてしまいますよ?」
言いながら数学教師は一番大きな窓を閉めてしまった。
チッ・・!
私は思わず心の中で舌打ちをしてしまった。この男は太っているくせに寒がりという特異体質を持っているので質が悪い。
過去に一度大雪が降った日があった。その日は運悪くこの男の授業が合ったのだ。すると、男は部屋中の窓という窓を閉め切り、私は強烈な体臭に1時間付き合わされ、ずっと鼻にハンカチをおしあてていなければならなかったのである。
そして今、あの時と同じような状況になりつつあった。
ああ・・・こんな事ならハッカ油を持ち歩いていれば良かった・・・。だが、それはもう後の祭り。
「さあ、ライザ様。今日の数学のお勉強は3桁割る2桁の割り算の勉強ですよ。頑張りましょうね?」
ついさっきまで3桁の因数分解の問題を解いていた私の事を知る由も無く、巨漢男は言う。この男・・・数学教師を名乗っているが・・・恐らく先程私が解いていた問題等解けるはずは無いだろう。そんな事が出来るならカサンドラの家庭教師になっても良いはずなのだから。
本来であれば、こんな小学生が受けるような授業等ボイコットしたい。だが、そのような真似をすればすぐに父の耳に入り、しつけと称して体罰を与えられるのは分かり切っている。だから私はわざと愚かなふりをする。
「はい、先生。それではよろしくお願いします。」
私はにっこり微笑んだ。
そして私にとっての地獄のような時間が始まる―。
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