失われた夜
王生らてぃ
本文
月明かりだけが照らす砂漠を歩いていく。
朽ち果てた遺跡や、枯れた植物、白骨化した動物。それらを横目に乗り越えて、オアシスから、次のオアシスへ。吐いた息が白く消えていき、星が煌めく。
オアシスの木陰には白く輝く少女がひとり。木々に囲まれ、石造りの簡素な建物がひとつ。少女は月の灯りを浴びながら、一糸まとわぬ姿でオアシスにその身を晒していた。瞳は青く、銀色の髪は砂の中から現れた竜の鱗のようで、一目で人ならざるものだということが分かった。
「ここは聖なる泉ぞ」
その口から紡がれるのは古い竜の言葉にそっくりだった。彼女はわたしをにらみつけるように睫毛を伏せながら、わたしに言った。
「人の子が立ち入っていい場所ではない。立ち去るがよい」
「ここ数日、水も飲まずに歩いてきたんです。せめてその水を恵んでくださいませんか」
「ならぬ」
彼女は泉の中に身を沈めた。
透明なはずの水面は光り輝いて鏡のように月の光を反射したかと思ったら、次の瞬間に水しぶきを上げて身を躍らせた。それは銀色の鱗で覆われた巨大な竜だった。鋭い翼を広げると、周囲に白い霧が立ち込め、幻想的にオアシスを包み込んだ。
「人の子よ、疾く立ち去れ。私はこの泉を守護する竜なるぞ」
「これは、失礼しました」
わたしは竜に向かってひざまずき、頭を下げる。
人間は竜には勝てない。人間は竜を崇拝し、そして神格化して恐れてきた。生命としての格が違う。ほんの小さな虫、例えば地面を歩くアリが、人間に立ち向かうようなものなのだ。アリは人間には絶対に勝てない。踏み潰されないように、必死に逃げ回るしかできない。しかし、それでも人間は気まぐれにアリを踏み潰し、巣を暴く。
銀色の竜はわたしを冷たく見下ろしながら、鋭い爪のついた前脚をわたしの目の前にずんと落とした。
「私の姿を見た、お前の罪は重い。その身にふさわしい呪いを授けよう」
竜はわたしに、顔を上げるように促した。そして、見開いたわたしの目にその鋭い爪を突き刺した。目の前には光が広がったように真っ白な光景が広がり、まるで焼かれているかのような痛みが走った。
「お前は二度と月の光を目にすることはない」
その声と、竜の遠い雄叫びだけが耳に届いた。
わたしは何も見えなくなっていて、ただ月の冷たさと、砂の感触だけが感じられた。
いつの間にか竜は、目の前から姿を消していて、わたしはただ立ち上がっておろおろするしかできなかった。
○
月も星も見えない白い闇は、太陽が昇ってくるのと同時にさっと晴れた。目の前にあったはずの泉はどこかに消えて失せていて、わたしはまた新しいオアシスを探して歩き続けることになった。飲まず食わずで、枯れた草木の露で渇きをしのいだ。
そして夜になると、月の光でわたしは何も見えなくなってしまうので木陰や廃墟など、身を預けられるものに触れ続けながら夜が明けるのを待ち続けた。
そうして数日後、夕陽が差す中で新たな泉を見つけた。もうくたびれ果てていたので、わたしは這いずるようにその泉に近付いた。夕日が沈む空の反対側には、すでにうっすらと月が昇り始めていて、わたしの視界はもやがかかったように白み始めていたのだ。
その泉には誰もおらず、小さいながらもしっかり澄んだ水が残っていた。わたしは手でそれをすくって飲み、だんだん暗くなってくる中で手さぐりに身を預けられる場所を探した。小さな木が立っていたので、そこに背中を預けて眠ることにした。
「どうだ、月のない世界は」
目を閉じているのか、開いているのか、わからない。ともかく、あの竜の声だけが聞こえてきた。
「とても明るいです。暗い夜を目にしなくていいから」
「私は月の光のもとでしか生きられないのだ。だから、人に姿を見せることがなかった。お前もじきに私の姿を忘れるだろう。その時に呪いは解ける」
「じゃあ、わたしの呪いは解けないでしょう」
すぐ近くにいる。
これは夢ではない。すぐ隣に、手が触れられるほど近くに、彼女がいる。
「あなたの姿は美しかった。とても。一目見ただけで、わたしの目に焼き付きました。二度とあなたの姿を忘れる事はありません」
「そうか」
身体に、温かいものが触れた。小さな少女に抱き着かれているかのようだった。しかし、それは一瞬の出来事で、すぐに夜の冷たい風がわたしのすぐ隣を吹き抜けていった。
「なれば、ずっとそうして夜を失ったままで生きていくがよい」
声は消えた。
でも、またいつかの夜で会えるのだろうという予感があった。
これはもしかしたら、崇拝でも畏怖でもなく、恋の様なものなのかもしれない。
失われた夜 王生らてぃ @lathi_ikurumi
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