第4話 わたしが子供なの?
翌日の朝、二宮は不動産屋に連絡して再度の内見を願い出たところ、その日の夕方なら可能だとの回答を得た。そのことを警部さんに報告すると、彼女はにっこり笑って親指を立て、そして意気揚々とついてきた。
その物件は
小ぢんまりとしたALC造の四階建てで、一階には美容院の店舗が入っていた。エントランスはその脇の通路を奥に入った突きあたりにあり、最新型のオートロック、メールボックスと宅配ボックスが設置されていた。こげ茶を基調としたドアのデザインもすっきりとしていて、全体的に機能的な印象を受ける。二宮が好きそうな感じだね。
部屋の間取りは1LDK。三帖の洋室と十帖のLDK、小さいけどキッチンカウンターもある。サニタリールームはそれぞれ独立していて、単身者用には十分な広さだった。ベランダは二宮は南向きと言っていたけど、厳密には南西の方向。奥行きが少し狭いけど、幅はたっぷりあるし、一人分の洗濯物を干すには十分じゃないのかな。
「――いいじゃない。キッチンも広いし」
警部さんはシンクの端を撫でながら言った。「コンロも三口ある」
「あんまり料理は得意じゃないですけど」リビングの真ん中に立った二宮は答えた。
「彼女は? 作ってくれる?」
あ、と目を見開いて、二宮はそれから照れくさそうに小さく頷いた。「……結構上手です」
「じゃあ、ここならゆったり作れるわね。あなたも手伝える」
警部さんはキッチンから出てきた。そして洋室に移動し、両折れ戸になっているクロゼットを開けた。
「強いて言えばやっぱり収納ね。ここだけじゃちょっと少ない」
「持ち物、整理します」
「そうね。この機会に断捨離ね。実はわたしもそうだったんだけど、いいきっかけになったわよ」
警部さんはリビングに戻ってくると、腕時計をちらっと覗いて二宮に振り返った。
「決めちゃえば?」
「はい、そうします」
二宮は頷いた。
内見を済ませたあと、二宮は正式契約をした。もう一度実際に見たことによって決心がついたようだね。奈那って彼女に話すのは、とりあえず今夜でもいいかってことにした。つい昨日までは先に報告しないと契約は決められないとか何とか、第三者のあたしからすればどっちだっていいんじゃないのってカンジのことで迷ってたのに、そこをなし崩しにするのはどうなんだろって思うけど、まあ、彼女はまだ何も知らないわけだし、“勝手に”とか“抜け駆け”とか、ましてや“裏切り”とか言うものではまったくないんだろうけど。
そして、正式契約を完了したことで、二宮は気持ちが引き締まったみたい。たまに、結婚したり子供が生まれたりしたら急に張り切っちゃう男性がいるけど、それと似たような感じなのかな。単に新しい生活への期待感ってことなのかも知れないけどね。
夜、帰宅した二宮は彼女に報告しようとLINEを送った。きっと喜んでくれるだろうと、テンションが上がってたみたいだね。缶ビール片手に鼻歌なんか歌っちゃって、部屋をぐるぐると回ってスマホを操作してるんだから、彼にしてみりゃ大はしゃぎだよ。昭和風に言えば、そう、浮かれポンチ。
ところが、彼女からはなかなか返信がなかった。既読がついたのは送信してから一時間も経った十時過ぎで、それからさらに三十分待ってからようやく返事が来た。
《――ごめんなさい!(合掌の絵文字) 実は今まだ研究室にいるの(目がぐるぐる回っている絵文字) もうすぐ帰れるんだけど、帰ったら来週の報告会の整理をしなくちゃいけなくて(涙を流している絵文字)……しーくんと話せるのは夜中になっちゃうけど(夜空の絵文字)――それでもいい?(汗の絵文字)迷惑だよね?》
二宮は小さくため息をついた。ちょっとがっがりしたみたいだね。でも彼女と同じ理系院卒の自分にも
だがタイミング悪く、次の日に管内でやや大きな事件が起きた。捜査本部が立ち、彼らのチームも出動となって、帰宅が深夜に及ぶという日が続いた。そうなると当然彼女とも会えなくなる(どうやら彼女もずっと忙しかったみたい)。それでも二宮は黙々と仕事に取り組む一方、寮の退出手続きや入居先での様々な準備、引越しの段取り、早めの荷造りなどを着実にこなしていった。彼女とは手短なLINEのやりとりをしていたようだけど、引越しの件については話さなかった。ゆっくり会話を楽しむ時間はなかったようだからね。直接会って報告したいと思ってもいたみたいだし。
やがて事件は無事に解決して、二宮たちも通常の勤務体制に戻った。引越し準備の方もほぼ完了して、あとは当日を待つだけとなっていた。
その日、二宮は実に三週間ぶりに彼女に会う約束をした。久しぶりにちゃんと食事の店を予約して、その前に映画も観ることにした。
その日の二宮はネイビーのシャツにワンウォッシュのデニム、足元はUチップシューズ。シンプルながら、シャツの裾から少しだけ覗かせている白のTシャツが清涼感を演出している。待ち合わせは横浜駅前のいつものカフェ。例年よりかなり早めの梅雨明け直後の、六月の最後の日だった。
待ち合わせの時間ちょうどに現れた彼女は、透け感のある白のブラウスに寒色系マドラスチェックのロングスカート、ペタっとした黒のサンダルに黒いストラップの付いたバスケットを合わせ、これまた爽やかな印象。なるほど、二宮とはお似合いのカップルってわけね。
映画は二人の好きそうなオタク色強めのアニメーション作品を鑑賞し、そのあと駅の近くにある人気のイタリアンレストランで食事を摂った。
店内のテーブル席からはガラスで仕切られたテラス席で、二宮と彼女は映画の感想を話しながらコース料理を堪能した。久しぶりのデートで会話は弾み、あっという間に時間が過ぎていったようだね。最後のドルチェとコーヒーが出てくる頃になって、二宮はようやく、引越しの件を彼女に話すことにした。
「――それであのさ、実はちょっと話があるんだ」
薫り高いエスプレッソをゆっくりと味わって(彼はコーヒー好きなんだ)、二宮は向かいでラテアートの写真を撮っている彼女に話しかけた。
「え?――あ、はい」
彼女はスマホをテーブルに戻し、両手を膝の上に揃えると二宮をまっすぐに見た。
「ちょっと前、話そうとしてくれてたのよね。でも私が忙しかったから……ごめんね」
「俺もバタバタしてたから」二宮は言った。「――今度ね、引越しすることになって」
「えっ?」と彼女は目を丸くした。「もしかして異動? しーくん、遠くへ行っちゃうの?」
「違うよ、寮を出るだけ。部屋を借りたんだ」
「あ、そうなんだ」彼女はほっと肩を下げた。「……良かったぁ。お仕事で何か失敗して、左遷とかされちゃうのかと思った」
「飛躍しすぎだよ。って言うか、そんな風に思ってたんだ、俺のこと」
二宮は不服そうに目を細めた。いやいや、あんたこの前ホントにミスしてたじゃん。
「違うけど。心配しちゃうの。しーくんのことはいつも、何でも」
彼女はぷっと頬を膨らませ、それからすぐに目を輝かせて二宮を見た。「それで、どこ?」
「ここだよ」二宮はスマホの画面を彼女に見せた。「戸部。駅から近いよ」
彼女はスマホを受け取り、「奈那のところからは? 近い?」と言いながらスクロールした。
「今と同じくらいじゃないかな。でも横浜まで一駅だから、いろいろ便利になるとは思うけど」
そうだね、と言って彼女はにっこり笑った。
「ホントは、契約の前に話そうと思ってたんだけど、ほら、さっきも言ったようにお互いに忙しかったから――」
「もたもたしてたら、他の人に決められちゃうもんね」
「そう。実際、他にも内見に来た人がいたみたいでさ。だから契約したんだ」
「でも、どうして急に寮を出ようと思ったの?」
「急じゃないんだ。前から考えてて――寮の部屋は狭いし、他の意味でもいろいろと窮屈だし」
そう言うと二宮はちょっと気恥ずかしそうにこめかみを搔いた。「その――奈那ちゃんの部屋にばっか泊まるのも、申し訳ないし」
彼女はあ、えへへと笑った。「奈那の部屋も狭いもんね。散らかってるし」
「そんなことないよ。俺の部屋の方が汚いよ。狭いから足の踏み場が無くてさ。そろそろヤバい」
「今度の部屋は――」彼女はスマホの画面を覗き込んだ。「――えっと、1LDKか」
「そう。三帖と十帖。キッチンも割と広いんだ」
「あ、ホントだ。カウンターもある」彼女は指で画面をなぞった。「カウンターって言うより、作業台だね。料理しやすそう」
「まあ俺は、あんまりしないけどね」
「でも奈那が作るから」
「うん。ちょっと期待してる」と二宮は頬杖を突いて片目を閉じた。「俺も手伝うよ」
「ええ? 大丈夫かなあ」
彼女は嬉しそうに言って、またスマホを手に取り、他の写真を何度も見比べた。
「収納があんまりないんだね」
「そうなんだよ。そこが課題なんだけど」二宮は腕組みして椅子の背にもたれた。「断捨離しないとなぁ」
「しーくん、衣装持ちだから」
「警部にも言われた」と二宮は苦笑いした。
「えっ?」彼女はスマホから顔を上げた。「警部さんも知ってるの? この部屋」
「え、あ、うん、あの――実は仕事中に内見に行って。彼女もついてきたんだ」二宮は肩をすくめた。「ほら、バディ組んでるから」
「……そうなんだ」
彼女はスマホをじっと見つめてため息をついた。「……一緒に見に行ったんだ」
え、ん? おっと? ヤバくない? 何気に不穏な空気。ちょっと二宮、ふんぞり返ってないで何とかしないと。
すると二宮も彼女の反応に慌てた様子で、ゆったり構えるのをやめて身を乗り出してきた。
「そのつもり、無かったんだけど――成り行きって言うか、その――」
「……分かってるよ。しーくん忙しいから、見に行く時間、なかなか取れないもんね」
そう言うと彼女はスマホを二宮に返し、ラテのカップを口元に運んだ。
「あの、奈那ちゃん――」
「……ごめんなさい。つまらないことだって分かってるの。わがままだし、子供っぽいって」
彼女の声は少し震えていた。カップを持つ両手も気のせいか小刻みに揺れている。そしてピアスの揺れる小さな耳が赤くなってきたかと思うと、彼女は顔を上げて二宮をきつく見据え、はっきりとした抗議の口調で言った。
「――でも、すごくやだ。しーくんも、警部さんも」
二宮は彼女から視線を外すことができないまま、唇を噛んだ。後悔してるのは明らかだった。
それっきり、彼女は黙り込んで話さなくなった。レストランの前で二宮と別れ、一人で帰って行った。
ちょっと二宮、どうすんのさ。あんたが悪いよ――って言うか、迂闊だったね。内見に行ったことはさておき、警部さんも一緒だったって、バカ正直に言うなんてさ。
女の子はさぁ、ホントいつだって、好きな人にとっての一番でいたいんだよ。
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