第2話 バレンタインなんて、もーうっ。(その①)
思えば、一月の終わり頃から、みるちゃんの機嫌が少しずつ悪くなっているのが、わたしにはよく分かっていたの。
みるちゃんは、その半年くらい前から、一人暮らしを考えてた。
ご存知の通り、警察官の仕事はとても過酷。そもそも犯罪の発生に夜も昼もないし、休みだっていつも思い通りに取れるわけじゃない。場合によっては危険を伴うことも。その上、みるちゃんによると絶対的な男社会らしい。お父さまが警察官僚であるみるちゃんには分かってたことらしいけど、実際目の当たりにすると気が滅入ることもあるって、みるちゃんは言ってた。
とは言え、本来キャリアであるみるちゃんはそんな厳しい環境下で働く必要はないのだけれど、みるちゃんはとにかく現場主義。ノンキャリアのみなさんと同じように、事件が起きれば何日も長時間労働して、休みなく職場に通い、時にはお泊まりだってする。幸い、みるちゃんの実家から今の職場までは三十分もかからない近さだし、お母さまとはとても仲良しだし、みるちゃんにとって実家暮らしの方が都合がいいのは明らかで、わざわざ一人暮らしをする必要なんてなかったの。
だけど、あの彼氏さんと付き合うようになって、みるちゃんに一人暮らしの必要性――と言うか、その欲求がでてきたみたい。彼氏さんは
横浜と大阪は、新幹線の乗車時間だけでも二時間数分だから、実際にはもっとかかる。交通費だって、その分高い。それでもみるちゃんと彼氏さんは、少なくとも月に一度は、交互に会いに行ってるの。ある月にみるちゃんが大阪に行ったんだとしたら、その翌月は彼氏さんが横浜に来る、という具合に。
彼氏さんは大阪市内に購入したマンションに一人で住んでて、みるちゃんは合鍵を渡されてるから、都合さえつけば結構気軽に行けるんだけど、みるちゃんの方は実家暮らしだから、彼氏さんが来るときはホテルを予約することになる。ホテルはチェックインとかチェックアウトとか、諸々の制約があるし、当然お金もかかる。その不便さと彼氏さんの経済的負担を、みるちゃんは考えるようになったのね。彼氏さんは一人暮らしにしては広いマンションのローンとかも払ってるらしいし、そもそもみるちゃんと違ってノンキャリアだから――いわゆる階級がみるちゃんよりも低くて――ちょっと言いにくいんだけど、その、収入がほら――ね。みるちゃんほどはもらってないらしいの。それで、そのことが彼氏さんに横浜に来る際のハードルになるのは嫌だなって、みるちゃんは考えたのね。「すごく余計なお世話なのかも知れないけど」って、みるちゃんはわたしに言った。みるちゃんの過去の恋愛史を全部知ってるけど、あんなにしおらしいみるちゃんは初めて。そう言えば、あんなにかっこいい彼氏さんも初めて。去年、二人が付き合い始めたばかりの頃に機会があってお会いしたとき、びっくりしちゃった。
余談が長くなったけど、そういうわけでみるちゃんは一人暮らしを決めた。ご両親の了解も得たそうだし、昨年末に彼氏さんが横浜に来たとき、彼氏さんにもそう伝えて、年明けからいよいよ部屋探しが始まったの。
まず、部屋を決めるにあたって、みるちゃんの条件は四つ。新横浜駅から徒歩圏内。1LDK以上。駐車場付き。それと、住む上で煩わしい制約がないこと。
――は? なんなの、その条件。
みるちゃんからこれを聞かされたとき、わたし、そう言ったの。だって普通、女の子の初めての部屋探しって言ったら、そんなんじゃないでしょ? 一人暮らしをしたことのないわたしだって、その条件が首を傾げるようなものだって、分かるもの。もっとほら、セキュリティーがしっかりしてるとか、ウォークインクローゼットがあるとか、階数が高いとか、近所にお洒落なカフェがあるとか、そんなんじゃないのかなあって。それで、ご両親はどうおっしゃってるのって訊いたら、「そんなの、いちいち話してないわ」って、みるちゃんはしれっと言うんだもの。わたしは正直、呆れちゃった。
それでも、みるちゃんなりの考えがあるのは分かっていたし、わたしがあれこれ口を挟むのは違うと思っていたから、ともかく様子を見ることにしたの。旦那さんにちらっと話したら、「黙って見守るのが沙織の役目だよ」って言ってもくれたし。うふ。
でもね。そしたらね。その部屋探しのせいで、みるちゃんと彼氏さんのあいだの雲行きが怪しくなってきちゃったの。
なんでも、みるちゃんの見つけてくる物件のことを、彼氏さんがことごとく難癖を付けるんだって。実際見たわけでもないのに(まあ、ネットとかでは調べてるんだろうけど)。みるちゃんはがっかりしてた。だったらどんなのがいいのか教えてって、みるちゃんは彼氏さんに訊くんだけど、彼氏さんは、自分にはそんな権利ないって言うんだって。「なら難癖もつけなきゃいいのに」ってみるちゃんはだんだん怒ってきちゃって、わたしが「きっと本当は心配なのよ、みるちゃんが一人暮らしするのが」ってなだめても、「だって、彼のためでもあるのよ」って、ついにはわたしがあんまり好きじゃない、『高飛車みるちゃん』が顔を出す始末。
そうこうしてるうちに、バレンタインデーが近づいてきたの。みるちゃんは彼氏さんがスケジュールを空けてくれることを期待してたのに、彼氏さんにそんな気配はまったくなし。お互い忙しいのはいつもだけど、付き合って初めてのバレンタインだし、運良く一緒の休みが取れれば、みるちゃんはチョコレートとプレゼントを買って、大阪に行くつもりだったんだから。あとそれと、イケメンの彼氏さんがたくさんのチョコレートをもらうのに決まってるから、心配だって言ってた。クリスマスに大阪に行ったときも、すごい数のプレゼントをもらってたんだって。きっとバレンタインはもっと多いに違いないって――だから今さら、みるちゃんからチョコをもらっても、そんなたくさんの中の一つと同じで、嬉しくもないんだろうって、卑屈になっちゃって。わたしがそんなはずないよ、彼女からのチョコは特別だよって言ったけど、それでますます、みるちゃんのテンションは下がっていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます