第1話:大失敗
馬蹄をひっくり返したような形をしている国、ミグ=アヴェスタ。
世界を一つの絵にすると、左端に小さく描かれている伝説の国だ。土地こそ狭いが、そこには不思議な力をつかう人々が住み、発達した技術と肥沃な大地があるという。
一体なぜ、そんな不確かな言い方なのか。
それは、誰もこの国に辿り着けたことがないからだ。
島国であるミグ=アヴェスタへ行くには船でなければならない。ある者はその稀有な技術を手に入れようと、またある者は未知の力を我が物にしようと、多くの船乗りたちは島を目指して出発した。
だが、近付く者を阻むのは四方を囲む海。まさに絶海の孤島というべき場所。潮の流れが早く、そう簡単には船をつけることができない。運良く岸に近づけたとしても、何者かに阻止されるように、突然海が渦を巻くのだという。
あれよあれよという間に船は飲み込まれ、侵入を企んだ者たちは死んでしまうのだ。渦潮から命からがら逃げ帰ってきた者はそう喧伝した。
さて、この国の東の地、アルフォレムには一人の駆け出し魔法師がいた。
◇
ボンッ!と大きな破裂音がしたかと思うと、可愛らしい赤い屋根のついた細長い小屋は身震いするように揺れた。空に向かって伸びた細い煙突からは何とも怪しげな深紫色の煙が上がっている。
と、その時。突然扉が開いたかと思うと、濛々と煙を纏った一人の少女が転がり出てきた。
「ぅげっほ!ぶはっ!げほっげほっ!!!」
少女は肩を息をしながらも、何度も咳き込む。その度に、口から微かに紫色の煙が吐き出された。
細くしなやかな亜麻色の前髪は、爆風のせいですっかり反り上がってしまっている。
通りすがる生徒たちは少女を白い目で見つめて足早に立ち去っていった。中にはひそひそと噂話をして、笑い声を零す者もいる。
「げほっ、……何で失敗するんだろう。今回は念には念を入れて調合したのに。もしかして、ダレグスの花がしっかり咲いてなかった?いや、フォシカルの羽が短すぎたのかな。でもなぁ……」
けれど、当の本人はそんなことを歯牙にもかけない様子で、未だに苦しそうに咳き込みながらもぶつぶつと何やら呟いている。
だが、徐に手を翳して「セアット・アリュセキス」と唱えた。左手の甲はきらきらっと瞬間的に緑色の光が伝って何かの模様を描いたかと思うと、どこからか起こった風が少女の身を撫でるように通り過ぎる。すると、怪しい液体で汚れた服も、爆風に煽られて絡まった髪も元どおりになった。
「これは成功……っと」
左手を開いて閉じて確かめるように見つめた彼女は、何を思ったか折角整えた髪をぐしゃぐしゃとかきまわした。ただでさえうねりの強い髪は、さながら鳥の巣である。
「……セアット、アリュセキス」
もう一度呪文を唱える。先程と同じように広げた左手の甲には光が立ち上がったが、忽ち何かに掻き消されそうになる。少女の手の甲に浮かび上がった複雑な模様は、何度か明滅を繰り返した。やがて、頼りない様子でゆっくりと乱された髪は元に戻った。最後の一房が元に戻るや否や、力を失ったように模様は消える。
「今くらいのが毎回できるといいんだけどなあ」
少女は痛みを感じたかのように顔を顰め、誰にも聞き取れないほどの小さな声で呟いた。そして、また髪を派手に乱し、キッと前を睨みつける。
「……セアット・アリュセキス」
慎重な色を帯びた声音とは裏腹に、立ち上がった模様は強い光を宿して瞬いた。ぶわりと湧き起こった風に揉まれ、少女は目を見開いた。風に巻きあげられるようにして髪や服はばたばたとはためき、踊るようにして左右によろめいた少女は苦しげに顔を歪めて捥がく。
「……っぷはぁ!」
最後の一陣が過ぎ去ると、崩れ落ちるかのようにそのまま芝生の上へ倒れ込んだ彼女は荒い息を繰り返しながら唇を噛み締めた。
「なんでいつもこうなの?このままじゃ、今度こそ落第しちゃう。どうにかしなくちゃ……」
少女は真剣な表情で青く晴れた空を睨みつけた。決意に満ちた表情ではあるが、先ほどの “ 失敗 ” を引きずっているのか少し泣きそうに見える。
すると、時を告げる鐘の音がガランゴロンと鳴り響いた。音を耳にした途端、亜麻色の髪をした少女は弾かれたように立ち上がった。
授業の始まりを告げる鐘である。
「あわわわわ……」
少女はその場で落ち着きなく動き回ったかと思うと、小屋に戻って自分の鞄を引っ掴む。そして、足を縺れさせながらもどこかに向かって走り出した。
◇
生徒たちが並んで歩き、賑やかなはずの広い廊下は、今はしんと静まり返っている。もちろん、人影はない。
少女はその静謐な空間をぶち壊すように、派手な足音を立てて爆走していた。
頭に被った濃紅色のベレー帽がまるで生きているかのようにぴょんぴょん跳ねては頭の上に着地する。
「あわわわわ……、授業にまで遅れたら落第どころか退学にされちゃう……。退学はダメ、退学だけはダメッ!」
完全に気が動転して、独り言を呟きながらも足取りは迷うことがない。
午後一番に受けるはずの基礎薬草学の教室は、ウォルティア館六階の一番端に位置する。長い長い階段が最大の難関だった。
最初は勢いがあったものの、四階まで休みなく駆け上がっていれば息は乱れてくる。少女はふらふらと蹌踉めきながらも一段一段踏みしめるようにして上っていく。
「怒られませんように、バレませんように、落第、しません、ように……」
肩で息をして、喋るのも辛そうな様子なのにも関わらず、独り言は相変わらず落第の心配ばかりだ。
階段を登りきり半ば這いずるようにして、教室に辿り着く。最後の力を振り絞って、少女は重いドアを開けた。
「____ですから、ニュジェは遥か昔からよく効く風邪薬の元として利用されており……」
扉の先には薄暗い、しかし数え切れないほどのカンテラで照らし出された階段教室が広がっていた。
教壇を取り囲むように席が設けられており、円の中心で魔法植物学の教授であるクログレス・アドネットが熱心に解説をしている。
着席した生徒たちは視線を教科書に落としていたり、黒板に書かれた内容を書き写したりと忙しなく動いているのが見てとれた。
少女は教授に見つからないように扉を素早く閉めて、コソコソと床を這うように空いている席を探し始めた。
基礎薬草学の授業は必修科目である。これほどに大きな教室であっても、人がみっしり詰まった中から席を探すのは容易なことではない。
足音を立てないよう慎重に階段を二、三段降りた時、前方から鋭い制止の声が掛かった。
「リゼット・ラーングレイ!あなたが遅れて入ってきたのは分かっています。こそこそせずに名乗り出なさい!」
ぶるぶると震えだす体でゆっくりと頭を上げると、案の定教授は刺すような眼差しで睨んでいた。女性にしては上背がある彼女が前のめりになると迫力が増す。
バレてしまったなら仕方がない。少女リゼットはそそくさと直立の姿勢をとって大声で謝った。
「遅れて申し訳ありませんでした!!!」
「……そちらはもう空いていません。一番前の列、左から二十四番目の席空いています、早く座りなさい」
「はい」
返事をして、彼女は階段を下りはじめた。
お喋りの輪はさざ波のようにして広がっていく。中にはリゼットの失態を嘲笑うようなものもあった。言葉と視線から逃れるように身を縮こまらせて、言われた通りの席に着く。
アドネットは指示に従って動き出したのを見届けると、ぐるりと教室を睨みつけて囁き合う生徒たちを黙らせた。
「ラーングレイ、こちらに来なさい。話があります」
鐘が鳴ると、アドネット教授はさっさと講義を切り上げて少女を呼びつけた。
大勢の生徒がぞろぞろと教室を出ていく中、何事かと面白がるような視線が感じられる。
「はい……」
先程の失態について何かしら怒られるだろうと腹をくくってはいたものの、見るからに不機嫌そうな教授を見てしまうと覚悟は萎んでいく。
仕方なく立ち上がろうとしたが、次の瞬間リゼットは目を丸くして固まった。
____動けない。
正確には、まるで椅子とお尻がくっついてしまったかのように、両腕両足に力を込めても腰が浮かないのだ。
こんなことは魔法しかありえない。誰かが意図的に仕掛けて、彼女の反応を楽しんでいる。いつもと同じ、誰かの仕業。
以前にもこんなことがあったのを瞬間的に思い出す。
教室内を見回さずとも、探していた相手はすぐに見つかった。教壇脇にある出口横に佇み、にやにやと底意地の悪い笑みを浮かべたお供を連れて傍観している。
またか、と胸に形容し難い苦い思いが広がった。
「何しているのですか?早くこちらに来なさい」
その間にも教授の瞳は険しくなっていく。口調に苛立ちが混ざっているのが彼女の心を焦らせた。
魔法を使うべきだとわかってはいるけれど、もしここで失敗したらどうするのだと理性が押しとどめた。教授が見ている。目の前で魔法が暴発してしまったら、怪我をさせるかもしれないし(教授なら咄嗟に身を守るくらいは出来るだろうが)、椅子や机は壊れるだろうし、何よりまた失敗したところを見せてしまえば、退学処分に近づいてしまう。
そもそも、相手がこんなことをしているのは、リゼットが教師の目の前で失態を犯すのを面白がりたいからなのだ。魔法を使うのは彼の思う壺なはず____。
「ふんぬぅ!」
リゼットが下したのは力ずくの手段である。言うまでもないが、お尻はピクリとも動かない。
一際勢いをつけて立ち上がろうとした途端、冷ややかな浮かべた少年と目が合った。微かに口元が動いて、何かを囁くと教室を出ていく。
すると、突然つっかえていたものが取れたように体が軽くなった。勢いを止められないまま、リゼットは前につんのめってしまう。体重を支えきれなかった両腕が机の上を滑り、顎をしたたかに打ち付けた。目の前に星がちらつく。
残っていた生徒から抑えた嘲笑が溢れるのを、アドネット教授は睨みを利かせて黙らせた。溜息をつきながら、彼女は机に突っ伏しているリゼットに歩み寄る。
「いっ……たぁ」
リゼットはぶつけた箇所を涙目になって摩っている。
こんな低俗な悪戯すら躱すことができない彼女に同情したのか、それとも寄ってたかって弱い者いじめをする生徒たちに呆れたのか、教授は眉間の皺を揉みながら手を軽く振った。
赤くなった顎に向かって淡い光が集まったかと思うと、冷気が集いはじめる。冷却魔法だ。
「まったく……。大丈夫ですか?」
「ありがとうございます、教授」
リゼットはぱっと花が咲いたように笑い、頭を下げた。あんな目に遭ったというのにちっとも気にしている様子がない。それが彼女のいいところではあるのだが。
何度目かの溜息を漏らした教授は、他の誰にも聞こえないように顔を近づけて囁いた。
「……学院長先生がお呼びです。授業が全て終わったら、学院長室へ向かうように」
それだけ言うと、教授は教壇に戻り荷物をまとめ始めた。
「……へ?今、なんて?」
そこにあったはずの、先程の明るい笑顔が跡形もなく消えている。リゼットは信じられない、とばかりに目を見開き、呆然と呟いた。
重ねた書類を抱え、アドネット教授は眉間の皺をより深める。
「そんな。学院長先生って、そんなまさか……!わたし、今期も頑張ります。次こそ成功させますから。どうかそんな……、いやです!お願い……!!!」
「いいから。早く行きなさい」
今にも頽れそうなほどに頼りなくなった少女から目をそらすように、強い口調で言い放つ。
「話は以上です。絶対に、学院長のお話を聞くのですよ」
それだけ言い残し、教授は部屋を出て行った。
「そんなぁ……」
誰もいなくなった教室で、リゼットはヘナヘナと座り込んでしまう。
これが彼女にとっての新しい出発点だとは、この時誰も思わなかったのだった。
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