ARM

平沢うづな

プロローグ 誰が死んでも泣かないだろう

 西暦二〇四〇年、私が五歳だった頃。脳のほんのわずかな窪みに入り込み、決して消えない思い出として残り続けている何でもない日常の一コマ。

 ニューナルイシティの政治的中心地、イースト・ポイント。市庁舎から南へ碁盤状に広がる生活区の一角に私の家はあった。南向きのテラスには陽がよく射し、ネバダの寒い冬にも私は好んでその場所でお爺ちゃんに遊んでもらっていたものだった。

 空を遮るものはなく。

 大声で叫べばどこまでも、天国の両親のもとへさえも、届いてくれるんじゃないかと思える世界。

 そよぐ前から木々が枯れてしまうその街で、太陽だけが身近な自然だったから。

 ペンキで白く塗ったテラスに立つと、自分が物語の主人公になったような気になったから。

 小さなからだで。

 精一杯の背伸びをする。

 ——べに

 ——紅。おいで。

 大好きなお爺ちゃんが呼んでいる。車椅子の上で、まだ若い頃と変わらないと言われる艶っぽい黒の瞳で私を見る。

 私は少しでも早くそばに行こうと焦る。

 まだ傷一つない柔らかな足が絡まり、転んでしまう。

 床に頭を打って泣いている私を、お爺ちゃんは優しく抱き締めてくれた。

 車椅子から崩れるように落ちて、私を、心から抱きしめてくれた。

 あの頃既に、私の身近には銃があった。庭の地下には避難用シェルターが作られ、色んな種類のサイレンが毎日のように鳴った。けどそれは私にとっての普通であり、日常であり、お爺ちゃんのそばに行こうとして失敗してしまったことに比べれば大したことはなかった。

 ——泣きやんでおくれ、紅。

「うん。お爺ちゃん、ごめんなさい」

 ——謝ることじゃないよ。私が呼んだのが悪かったんだ。

「呼んでくれなきゃいや」

 ——わかった、わかったよ。でも怪我をしちゃあいけない。気をつけるんだよ。

「お爺ちゃんが、どっかいっちゃうかもって。みんな言ってるの」

 病気が日に日に悪くなり、車椅子生活さえままならなくなっているのにも、私は気づいていた。

「どこに行くの?」

 ——どこにも行かないよ。私は紅の傍にいる。私のたった一人の孫なんだから。置いていくわけがないだろう。

「どこか行くときは、私も呼んでね」

 お爺ちゃんはそのとき、ほんの少し間を置いてから、大きく頷いた。

 ——ああ。約束だ。

「嘘はだめ」

 ——もちろん、嘘は駄目。私も紅と同じ頃に習ったよ。嘘は、絶対にいけないことだ。

 あの時のお爺ちゃんのぬくもり。

 私の世界には、他のどこにも存在しないぬくもりだった。

 いつか冷めるものだとも知らずに。

 その後、学校の授業の一環で、戦没者の墓地に連れて行かれたことがある。

 ずらりと並ぶ墓石を見ても、何の感慨も湧かなかった。

 お爺ちゃんが死んだとき、私は泣いた。

 時が経ち、私は自衛隊に入った。十七歳、まだ新米ではあるけど、厳しい訓練を乗り越え、幾度となく自分と向き合い、それなりに成長したという自負がある。

 だから、たぶん、もう。

 誰が死んでも泣かないだろう。


 それから、また、私の時間は驚くべき方向へ、思いがけない進み方をする。

 二〇一九年、八月二十一日。

「ん……」

 目覚めるよりも早く、痛みが私の頭蓋を襲った。

 前方のモニタで打ったみたい。額からわずかに血が流れている。

 グローブを外し血を拭う。コクピット内は真っ暗だ。

対異界獣人型機動兵器ARM〉が沈黙している証拠。

 体を座席の背もたれに預け、深呼吸をする。

 手足が動く。

 呼吸が出来る。

 脳みそはちゃんと思考している。

「まずは前進、かしら」

 しばらくそのままの姿勢で気持ちを落ち着けていると、徐々に目が暗闇に慣れてきた。右腕に巻いた時計は二十三時四十七分を指している。この世界に到着して四十分以上は眠っていた計算だ。

 でもこれは誤差範囲。

 タイムリミットまでは八十時間一四分ある。

 目的地に到着すると共に、機体は自動的に稼働停止するよう設定していた。そのせいで外の様子はわからないけれど、予定では嵐のはず。台風十一号、名称〈バイルー〉。ちゃんと日本列島に上陸するコースを取ってくれていることを願う。

「それにしても痛いわ」

 ただ打ち付けただけじゃなく、時間跳躍タイムリープの影響もありそうだ。脳みそが重い振り子になって、頭蓋骨の中で揺れてるみたい。それが収まってきてやっと、私は前にいるノーマン大尉の様子を確認する余裕が生まれた。

 大柄なノーマン大尉だけど、私のいる後部座席は〈操縦者パイロット〉が座る前部座席よりやや高い位置にあるから少し見下ろす形になっている。大尉の体はやや窮屈そうな座席に収まったまま、さっきから動いていない。

 さすが場数が違う。私のように頭を打つなんて真似は、しないんだ。

 感心しながらも、まだ意識が戻っていないのだろう大尉を起こすため、自分の腰に回っているベルトを外す。上体を固定していたベルトはちぎれていた。

「大尉。起きてください」

 声はコクピット内によく響いた。

 胃が、気持ち悪くなって、私は座席横に固定していたバックパックから水筒を取り出す。喉を鳴らしてたっぷりと水分を取った。水筒を自分の座席の上に置き、狭いコクピットの中ノーマン大尉の前までどうにか移動する。

「大尉。成功ですよ」

 正確には目的の座標に到着していることを確認して初めて、成功と言える。

 そのためにもノーマン大尉に早く起きて欲しかった。

 でも……。

「大尉?」

 顔を見るのが遅すぎた。

 

 目玉がやや前に飛び出て、歯を食いしばっている。腕や体も自然に椅子に腰掛けているというようには見えない。体中に力みがあり、お尻はやや浮いている。

 首に手を当てると、やっぱり脈はなかった。

 軍服は綺麗なものだった。外傷はまったくない。タイムリープ中は当然のこと、密室であるこのARM内で外部からの攻撃を受けることは考えられない。つまり、タイムリープそれ自体が大尉を殺したのだ。その仕組みにそもそも問題があるのか、イレギュラーなのか、どちらかはわからないけれど……。

 ——なんて。

 そんなことはどうだっていいのに。

 パイロットである大尉が死んだ、重要なのはその一点だ。

 私はこんな時でも冷静に分析しようとして。

 有効な対応策というのを考えようとしている。

 悲しみでも憤りでもなく。

 そのように訓練されているし、その適性があるからこそこの仕事に就いている。

 私一人で、任務を完遂する。

 大尉の死に報いる方法は、それしかないのだと、言い聞かせて。

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