オレンジ

しらすな なかず

オレンジ


 「本当は、全部夢なんじゃないかって思うの」

 赤色じみた陽射しの射す図書室。訪れもしない客を待っている、ふたりぼっちの放課後。何処からか取ってきた色褪せた本を片手に美央は言った。

 「夢」

 「そう、夢。私にはね、どうにも信じられないの。例えば――アメリカで竜巻が起こったって、それどころか日本の何処かで。私たちの街で誰かがいなくなったとしても――何も見える世界に変わりは無いでしょう。それはきっと、私以外のみんな全部が私の頭の中で作られた幻想だから。そう考えればしっくり来る」

 「ぼくも、夢」

 「うん、きっと君も、私の頭の中で作られた夢なんだよ」

 そう言って笑う彼女であった。「そう思うだけだけれどね」。本を閉じて伸びをする。いつまでも退屈だとその全身で主張する美央。ぼくが、ぼくより好きな女の子。

 「知ってる。そういうのって独我論って言うんだよ」

 「ふう、ん」

 「自分だけが世界にあるたったひとつで、それ以外は全部嘘、っていう考え方」

 「なら、そうなんだよ。少なくとも、私は」

 「そっか」

 「うん」

 美央はふああ、と欠伸をする。ぼくはくるくるとペンを回していた。回して、考えていた。もしもぼくだけが現実で、他は、例えば美央が嘘だったなら。ここにいないというのなら――ぼくは独りだ。独りで、手のひらの上にないものをあると信じて生きている。「だったら」と、勝手に口が開いていた。

 「だったら、ぼくだけじゃなくて、君も夢だったならいいのに」

 「私も」

 「みんな夢だったなら、消えるときも一緒だ」

 「……夢を見ている人が起きたら、みんな消えちゃうんだよ」

 「いいよ。ひとりぼっちよりは、いい」

 孤独はぼくたちを殺せるくらいに強大で、死などよりもずっと明瞭な怪物だ!

――そう言い切る事が、ぼくにはきっとできる。それを裏付けるのは、ぼくの中の何処かにある恐れ。例えば、見えもしない残忍さと同じだ。

 「ひとりは、怖いの」

 「怖いよ。あんまりに救われない」

 「けれど、消える時だってひとりだ」

 「さっきと矛盾してるよ。ぼくたちは、たった一人の妄想でしかないんだろ。だから夢なんだろ」

 世界が破綻する瞬間をぼくたちは誰も知らないけれど、だからこそ救われることもある。終わることのかなしみがあるとするならば、それはきっと終末を受け入れた後のこと。ぼくの意識はそこにはない。夢を見たぼくたちにとっての『かみさま』だけがそこには居て、誰も知らない夢の続きを思案するだけなんだ。

 そうじゃないのかな。そう聞く。本当は『かみさま』が一番ひとりぼっちで、かなしい人なのかもしれない。夢の中は楽園で、何だって出来る。いないはずの人に囲まれて、孤独を欺くことだって、出来てしまうに違いない。

 「――そうだね。少なくとも、私は。でも君は、違う」

 「違う」

 「そう、違うの。君は、ばかだ」

 「どうして」

 「あのね」と彼女は言う。聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいに言う。美央は本当は残酷な人なのかもしれなかった。少なくとも、夢を見るだけの『かみさま』よりもずっと。もしかしたなら、蟻を踏み潰す感慨にも似た、冷え切った血をその舌先に廻らせている。けれども、ぼくの、ぼくより好きな女の子。

 「私たちの存在のどうこうをあれこれ考えるより、これからどう生きるかを考える方が、よっぽど価値のあることなんだ。夢が破綻して消えてしまう先を考えるより、今日の晩御飯が何なのか。それを考えた方が、よっぽどましな生き方だ。違うかな」

 彼女の口から放たれるのは、かなしみだった。それでいて優しさでもあった。何より、憐れみだった。同情の色をした瞳をしていた。ぼくのきらいな彼女。だけど、一番嫌いなのは、美央に腹を立てるぼくだった。

 「考えていたのは、ぼくじゃない。君じゃないか」

 彼女が何を言いたいのか、判らない訳でもないことが悔しかった。ぼくは痛いことから目を背ける臆病者だ。かなしいことは見ないふりをして、幸せを嘯いている。それが判っているのにまだ、ぼくのためだけの美央を望み続けている。

 「否定をしたのも、君だ」

 「夢の中は、自由だ」。美央は呟く。頭の中では、どんなことだって、できる。空を飛ぶことだって、深海を歩くことだって好きな女の子を振り向かせることだって簡単に出来てしまう。だからこそ、嘘は正しいんだ。なのに。

 「けれど、君は今、私を抱き締めることができるけれど、君が抱いているのは私じゃない。それは君だよ。君のさみしさだ。かなしさだ。あらゆる君の弱さが、私、美央のふりをしているだけなんだ」

 その通りだった。夢は、醒めることが決まっている。ぼくが、何も知らない夢の中の幽霊だったなら、かなしみの先を知ることもないはずなのに。ぼくは『かみさま』だった。少なくとも、ぼくと美央の夢の中では。美央はぼくのための美央で、ぼくを幸せにする美央。いつだって抱き締められる、嘘でできた女の子。

 「夢はいつか醒める。醒めることが決まっている。破綻の瞬間を、君ですら知らないんだ。そんな不確かなものに私をまた閉じ込めて、殺そうとしているんだ。君は」

 何故、美央は忘れさせてくれない。『かみさま』が望むのなら、信じるのなら。それはいつだって本当なのだ。彼女の傍の色褪せた本の名前は『オデュッセイア』。あらゆるかなしみのない、楽園がある世界の話。なんという皮肉だろう。夢の中でまで、楽園はぼくを祝福してはくれない。好きと言って欲しかった。愛して欲しかった。例え本当の美央が、ぼくのことを嫌っていたとしても、好いていたとしても、今ここにいる美央の言葉とは関係のないものなのだから。誰にだって、都合のいい夢を見る権利がある。

 いつか夢が破綻する瞬間、確かにぼくの中の美央は死んでしまうけれど。それは間違いなくぼくの頭の中で殺される、そういうことなのだけれど。つまりは何度だって蘇らせられる、慰み者にしか過ぎない。ぼくたちが無意識のうちに蟻を踏み殺すそれに感慨を抱かないように、破綻の瞬間にかなしみが生まれることもないはずなのだ。

 「愛してる」

 「夢の中の、都合のいい私を」

 「うん、そうだ」

 「私しかいないもんね。もう、君には」

 例えば、こんな風に美央のうなじを撫でたことは、今までない。けれども今それは結実した感触になっている。それすらも全て嘘だというのなら、さらに嘘を重ねればいい。いつだってやさしさは脳内麻薬だ。オーバードースの背徳感も、夢の中なら消え失せる。そのまま倒れていくふたりを、誰に嘲る権利があるのか。けだものが駆けるみたいに、心臓はばくばくと脈を打っていた。力を込めて彼女の頸を寄せる。ぷっくりとした唇だけを見ていれば、楽園は訪れる。それだけでいい。下手に顔を上げて、美央の悲しげな顔を見たなら、きっと全て崩れてしまう。今のぼくは『かみさま』なのに、どうしようもなく臆病者だった。唇と唇が触れ合う瞬間、ふわり、と風が凪いだ。はっとして顔を上げると、窓が開いて、黄ばんだカーテンが揺れていた。遠くにはまんまるの目玉みたいに夕日が浮かんでいて、ぼくの愚かさを見下ろしている。『見ていたぞ、おまえ』。どこからともなく、そう聞こえた気がした。訳も分からないで美央を見ると、悲しげな顔もしないでぼくを見つめていた。

 「行かなきゃ」

 「何処へ」

 「楽園だよ。何も考えなくていい。悩まなくていい」

 「行くなよ」

 「でもきっと、私はもう、そこにいるんだよ」

 逃げないように腕を摑もうとした、瞬間、美央は霧散した。塩水の匂いがした。かなしみの匂いがした。途方にくれて動けないでいる僕を、夕日はずっと見つめ続けていた。



――。

―――。

 夕日が射していた。いつだったか、ぼくの好きだった、死んでしまった女の子のいた図書室。カウンターの上の色褪せた本を見ないふりをして、はあ、と息を吐いた。どこから引っ張ってきたのかも判らない、たったひとつの美央の痕跡。『オデュッセイア』。蓮の実を食べて、何もかも悩みが消える楽園。それはつまり、死なのではないかと、思う。死んでしまった後、何処かに消えてしまうというのなら……。美央が楽園にいると言ったのは、そういう訳で。

 そして、ぼくの中でも美央が、楽園に向かっている。それはきっと、ぼくの頭の中で彼女がだんだんと薄まっているということなのだろう。どれだけ好いていても、時間は記憶の中の彼女を殺す。そしていつか、殺しきってしまう。だから、忘れていくかなしみが、ぼくと口づけた相手だった。きっと、塩の味がしたのだろう。

 カウンターの上の、むんとした塩水を袖で拭った。オレンジに染まる思い出に濡れた図書室は、ぼくひとりだけを包んでいた。

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