診察21【井上晴翔】

海翔かいと見て! どんぐり!」

 井上晴翔いのうえはるとは誇らしげに今拾ったばかりのどんぐりを双子の弟海翔に見せつける。

「なんだよ! 俺の方がでっかいの見つけるもんね!」

「じゃあ俺はもーっと大きいの見つけるー!」

 二人はしゃがみ込んでどんぐりを探し始める。

「あったー! ほら俺の方がでかいー!」

 海翔は叫んで手に持ったどんぐりを頭上に掲げた。悔しそうに晴翔が反論する。

「海翔そっち言っちゃダメって言ったじゃん! ルール無視したから海翔失格ー!」

「無視してないよ! ここで拾ったんだもん!」

 海翔は地面をだんだんと踏んで、苛立ちを露わにする。

「いや、俺の勝ちー!」

「うっせー馬鹿晴翔!」

「海翔の方が馬鹿だよ!」

 とうとう喧嘩になってしまった。先ほどまであんなに仲良くしていたのに。

 二人の担任である安達美咲あだちみさきは、苦笑いを浮かべ、

「あ。喧嘩するなら教室、帰っちゃおっかなー」と言った。

「先生ごめんなさい!」

「もうしません!」

 二人同時に発したその声に美咲は笑い、うんうんと頷いた。

 秋色に色づく木々をじっくりと見て欲しくて、美咲は図工の時間にクレヨンを使って校庭で絵を描くように指示した。まず描くものを決めるための時間、と称してお気に入りの場所を探しているうちに、どうやらどんぐりに心奪われてしまったらしい。

「はいはい。じゃあどこで絵を描くかそろそろ決めなさい」

 美咲は手をパンパン、と叩いた。音は高い空に響くように吸い込まれていった。



 井上明日香いのうえあすかは三人の息子の母である。長男の涼太と、次男の晴翔、三男の海翔と育ち盛りの男の子のいる我が家は本当に騒がしい。

「あ。海翔いけないんだー! 帰ってきて手、洗わなかった!」

「今洗おうとしてたの! 晴翔はいちいちうるさいよ」

「でもこの前も海翔そう言ってやらなかったじゃん」

「嘘つくなよ! それっていつ? 何時何分何十秒? 地球が何回まわったとき?」

 家に入った瞬間からもううるさい。そんな息子達に声を荒げる。

「うるさーい! あんたたち、静かにしなさい!」と言って静かになるなら苦労はしない。普段から怒られ慣れているから、親から少し言われたくらいではうちの双子は動じない。

「だって海翔が!」

「晴翔が悪い!」

 なおも食い下がる二人に明日香はいつもの手を使う。

「そんなにうるさいと、山に捨ててくるよ! 二人とも!」

 すると二人ともぴたりと口を閉じ、怯えた目をした。以前あまりにも言うことを聞かないこの二人を外の物置に一時間ほど閉じ込めた事があった。それ以来、この二人は夜の闇が怖いらしい。

 ようやく静かになったと思ったが、苛立ちは収まらない。今度はすぐそばで本を読んでいた涼太に言う。

「あんたもお兄ちゃんなんだから弟の面倒くらいみなさい!」 

涼太は信じられない、というように目を見開き、「俺、関係ないじゃん」と言った。その顔に明日香は余計腹が立つ。

「自分さえ良ければいいなんて子に育てた覚えはありません!」と明日香は怒鳴った。

 涼太は立ち上がり、

「好きで兄ちゃんになったんじゃねえよ!」と叫んで外に出て行った。

 晴翔と海翔は顔を見合わせて大人しくなった。

 明日香はため息をついた。この程度は毎日のことである。飛び出していった涼太を追うようなことはしない。どうせ晩御飯の時間になれば不貞腐れた顔で家に帰ってくるのだ。

 今度は部屋中に散らかった晴翔と海翔のおもちゃに腹が立った。腹に力を込めて、明日香はまた怒鳴る。

「あんたたち、部屋の片付けくらいしなさい!」



 井上涼太は少し肌寒いこの季節に、なにも持たずに外に出た事を少し後悔していた。上着くらい羽織ってくれば良かった。いや、そもそも家から出なければ良かったのか。

 けれど、母が涼太に言う文句は理不尽で、どうにも我慢が出来なかった。晴翔と海翔が悪いのに、涼太までとばっちりで怒られる。例え涼太が注意をしたって、あの馬鹿二人は言うことを聞く訳がないのだ。そばにいれば喧嘩をするくせにいつも二人でいるものだから、ぎゃーぎゃーと騒いで喧嘩になり、それを見た母に三人まとめて怒鳴られる。涼太には事態を防ぐ術がない。

 家から少し離れたところにある公園のブランコに腰掛ける。木製の四人乗りのそのブランコは、二人ずつ向かい合って座るような作りになっている。屋根もついているので、ちょっとした小部屋のようなその空間が涼太は好きだった。座っていても遠くからは見付けにくいし、外からも少し遮断されている気がする。涼太は一人になりたかった。

 涼太はそこから、薄暗くなった空を見上げた。もう星が少し見えている。足をぶらぶらさせて思考を巡らせる。

 兄貴って、損だよなあ。たった二年、生まれたのが早いだけで、言うことを聞かない弟の面倒も見なければならないし、わがままにも耐えなければならない。親は弟につきっきりで、涼太の方なんて向いてくれない。

 涼太が今の晴翔と海翔と同じ年くらいの頃は、もっと良い子だった。もう少し話が通じたし、あんなに獣じみた叫び声をあげたり、ものを投げ散らかしたりはしなかった。

 だけどそれを褒められることはない。どんなに頑張ったって、涼太はあの家で、父と母にとっての一番にはなれないのだ。

 ブランコを揺らそうとしてみた。一人ではびくともしなかった。


 明日香は帰ってきた涼太の姿を見て、晩御飯の支度を手伝うように言いつけた。返事もせずに食器を並べ始める涼太の姿を横目で見ながら、何合炊いてもすぐになくなってしまうご飯を、これでもかとそれぞれの器によそう。

 夫の康生こうせいはすでに晩酌を始めている。その横に晴翔と海翔が座り、涼太が向かいに座って子供達がご飯を食べ始める。明日香は洗い物を片付けて、ようやくその輪に加わる。しかし涼太の横に座ろうとしたところで、康生にビールのおかわりを要求された。

 もう一度キッチンに戻り、冷蔵庫を開ける。康生の缶ビールを手にして戻り、ようやく座れると思うと、今度は晴翔が「おかわり」と茶碗を差し出してきた。それを終えれば今度は涼太で、明日香が落ち着いて自分の皿に手をつけた時には、味噌汁はすっかり冷めていた。

 明日香が食事をしている脇で、すでに子供達はテレビを見ながら横になっていた。テレビでは、『あの人は今!』という番組をやっていた。生き別れになった親やら子供やらと再会するためにテレビ局が総力を挙げて捜索し、その再会シーンでスタジオの芸能人達が涙を流すのが定番のその番組を、明日香も食事をしながらぼーっと眺める。

 康生がふと思いついたように言う。

「お前らも、ああやって探されてるかもしれねえな」

「どうして?」

「誰に?」

 いつものことながら、晴翔と海翔の返事は同時だ。そこまで息が合うなら全く同じことを聞いてくれればいいのに、と明日香は思う。どっちが何を言っているか非常にわかりづらい。

「だってお前ら全員、捨て子だったからな。本当の親が探してるかもしれねえぞ」

 康生は大分酔っているようで、少し呂律が怪しい。

「嘘だ!」

「嘘だよ!」

 晴翔と海翔が叫ぶ。涼太は黙ってテレビを見ている。

「本当だよ。なあ、涼太」

 涼太の反応がなかったのが気に入らなかったのか、康生は涼太に呼びかけた。すると涼太は勢いよく康生を振り返り、か細い声で返事をした。

「俺、捨て子なの?」

 涼太の問いに、康生はがははと笑って言った。

「そうだよ。今まで黙っててごめんなあ」

 涼太は立ち上がり、駆け出した。あっという間に玄関から外に出てしまい、玄関の扉が閉まる音が「バタン!」と強めに響いた。その音を聞き、晴翔と海翔が顔を見合わせて「兄ちゃん!」と後を追った。

 康生は呑気に「どうしたんだろうな?」と言った。

 明日香は「さあ。傷付いたのかもね」と返事をする。

 そして続ける。

「まあ、晴翔と海翔が行ったから。どうせすぐ帰ってくるよ。いつもそうだから」

 これでご飯が静かに食べられる。明日香は少し冷めてしまった焼き鮭の骨を取りながら思った。



「兄ちゃん!」

「兄ちゃん!」

 晴翔と海翔がついてきたことに気付いた涼太は、いつもの公園を超えて、川沿いまで逃げることにした。

 なんでついてくるんだよ。と忌々しい気持ちになった。

 川沿いまで全力で走ったのはいいが、息を切らして涼太は座り込んだ。

 頭の中は先ほど康生に言われた言葉でいっぱいだった。そうか。やっぱり捨て子だったのかと納得してしまう自分がいる。だから俺にだけ強く当たっていたのかと思った。

 晴翔と海翔は父と母の実の子だ。だって涼太はおぼろげながらに母が出産した病院にお見舞いにいったことを覚えている。「良いお兄ちゃんになるのよ」と言った明日香の腹が出ていたことも、その後退院してきて晴翔と海翔に両親を取られてしまった悔しい記憶も、涼太の中にはある。

 自分も含めて家族だと思っていたのに。血のつながりを疑った事はなかったのに。

 そうか、だから、お父さんもお母さんも、俺のこと、嫌いなんだ。

 そう思うと悔しくて、とにかく悲しかった。信じていたのにと思い、唇を噛み締めた。

 涼太が暗闇の中で悲しみと戦っていると、晴翔と海翔が息を切らして現れた。

「兄ちゃんいた!」

「良かった!」

 その無邪気な声が腹立たしかった。だから涼太は大きな声を出した。

「なんで来るんだよ!」

 晴翔が気まずそうに「……だって」と言った。しかしその声にかぶせて涼太は叫んだ。

「一人にしてくれよ。俺はお前らみたいな弟にうんざりしてんだよ!」

 涼太を見つけたときの嬉しそうな声は一瞬にして泣き出しそうな声に変わる。

「兄ちゃん……」

「俺はお前らの兄ちゃんじゃねえ! 話しかけんな!」

 振り返って走り出そうとした、そのとき。

「晴翔!」という声と共に、どすっ、という音が響いた。

 涼太がそちらに向き直ると、薄暗闇の中に倒れている人影と、そこに駆け寄る人影が目に映る。背格好の同じ二人は、暗い中ではどちらがどちらか見分けがつかない。

 転んだのか、と少し心配になって立ち止まった涼太の耳に海翔の叫び声が聞こえる。

「兄ちゃん! 晴翔、血だらけだよ!」

 涼太は驚いて駆け寄る。晴翔は石だらけの川の浅瀬に倒れたらしく、足とズボンが濡れていた。月と星の明かりがきらきらと川の水を照らす中、よく見ると黒っぽい液体が一緒に流れている。すぐに晴翔の膝からその液体が流れていることが分かった。 そうかこれは晴翔の血かと涼太は焦る。

「兄ちゃん、俺、死んじゃうの?」

 晴翔は泣いていた。涼太はその体を背負い、立ち上がった。そして走り出した。

 その背後にはぽたっ、ぽたっと水音が響く。晴翔の足から落ちる水が涼太の背中にもつたう。晴翔を背負うときに川に入ったので、涼太の足元も濡れていた。少しだけ振り返ると黒い自分の足跡と、丸い水滴の跡が点々と続く。海翔も後ろを走ってついてきていた。

 涼太の背中で晴翔が

「兄ちゃん、ごめんなさい」と言って涼太にしがみつく手に力を込めた。

 涼太はぜえぜえと上がる息の合間に「うるせえ。黙ってろ」と返事をした。それきり晴翔は静かになった。

 真っ暗な夜道は静かで、不気味だった。

「すいませーん! すいませーん!」

 診療所の前にたどり着いたものの、シャッターが閉まっていた。涼太は中に向けて全力で叫ぶ。気付くと海翔も一緒になって叫んでいた。

 ほどなくして、真治が姿を現した。当然白衣は来ておらず、不思議そうな顔で三人を見る。

「こんばんは。どうしたの?」

 真治が言い切る前に、海翔が泣き出した。

「晴翔が死んじゃうー!」

 涼太はそれじゃ分からないだろうと弟の説明の不十分さに苛立ちながら、

「弟が川で転んで、血だらけなんです」と言った。

 真治は頷いて急診用の扉を開き、診療所の中に三人を招いた。

 晴翔は両膝と、本人は気がついていなかったようだが転ぶときに手をついたようで、手からも血を流した跡があった。真治が見たときにはそれはかさかさした跡になっていて、血はもうとっくに止まっていた。傷口の洗浄と消毒をして、ガーゼを当てて包帯が巻かれた。あっという間の措置だった。

「よし」と言う真治の声を聞き、海翔が口を開く。

「先生! 晴翔、大丈夫?」

「うん。もう大丈夫」

 真治のその言葉に涼太はほっとして、椅子から滑り落ちそうになった。先ほどまでずっと泣いていた晴翔も泣き止んでいて、海翔の顔にも笑顔が戻った。ああ、よかったとほっと胸を撫でおろした涼太の顔を見て、真治は笑顔を引っ込めて尋ねた。

「だけど、もう結構遅い時間なんだけど、どうして子供達だけで、しかも川なんかに行ったのかな?」



 明日香は食器を片付け、テレビを見ていた。そうしながらもチラチラと時計に視線をやってしまう。いつもならとっくに風呂に入っていびきをかき始める康生も、グラスを握ってじっと無言でテレビを見つめている。

「ねえ」

 口火を切ったのは明日香だった。

「大丈夫かな?」

 康生の反応は鈍かった。

「……お前が大丈夫って言ったんだろ」

 明日香は自分の不安な気持ちを抑えきれない。

「でも、さすがに遅いよね」

「……」

 康生は考え込むように黙っている。

「涼太が捨て子なんて言うから……」

 明日香はわざとらしく大きなため息をついた。

「俺のせいだって言いたいのか?」

 康生の声が途端に怒りを帯びる。

「そうは言ってないけど」

「お前だっていつもいつも、涼太が外に逃げたくなるようなこと言ってんだろ」

 明日香はカチンと来て、勢いよく言い返す。

「あんたにそっくりなうるさいガキ三人もいりゃあ、そりゃあそういうときだってあるわよ」

 すると康生は「なんだと?」と目をぎらつかせた。

 そこで急に家の電話の着信音が鳴り出し、明日香の心臓は派手に踊った。

 まさかと思い、康生と顔を見合わせる。

 どうか不吉な電話じゃありませんようにと願い、受話器を取った。



 真治から連絡を受けて診療所へ子供達を迎えに来た明日香は、涼太のTシャツに付いた血に驚いた。その表情の変化に気付いた真治から「心配いりません。晴翔くんの血です」と説明を受け、晴翔を見ると怒られる前の顔で下を向いていた。包帯が巻かれてはいるものの大きな傷ではないそうで、明日香はとにかくほっとして、何度も真治に頭を下げた。康生も「本当に申し訳ありません」と家での顔とは全く違う口調で真治に礼を言い、子供達の手を引いて診療所を出た。

 ひとまず車に乗り、エンジンをかける前に明日香は後部座席を振り返り、そこに座る子供達に怒鳴った。

「この馬鹿共が! どれだけ親に心配かければ気が済むの!」

 三人とも膝の上で拳を握りしめて、うつむいて背中を丸めている。その姿を見たら、力が抜けた。

「全くあんたに似て、無鉄砲なガキなんだから」

 明日香は助手席に座る康生に話を振った。

「お前に似て、思い込みが激しいんだよ。なあ、涼太」

 康生はそう言って涼太を振り返る。涼太は体をびくっとさせて黙ったままだ。

 その姿を見たら、笑いが込み上げてきた。ようやく無事でよかったと安心したのかも知れない。横を見ると、康生も笑いをこらえる表情をしていた。

「でも、私達の子にしては、まあ上出来か」

「確かにな」

 そう言って笑いあった後、振り返って言う。

「ちょっとドライブでもして帰ろっか」

「いいねえ」と康生が言う

「悪ガキだからちょっとくらい夜更かししてもいいやな」

 家族でドライブなんて思えば久々だなあと思いながら明日香はエンジンをかけ、車を発進させた。暗い夜道を照らすヘッドライトが、やたらと明るく感じた。




「あっ」

 海翔が転んだ。放課後ランドセルを置いて出かけようとした涼太の後を追いかけていて、転んだのだ。

「大丈夫?海翔」

 晴翔がすぐさま駆け寄って起こすところを、涼太は振り返って見ていた。

「どんくせーな。だから嫌なんだよ」

 涼太がそう言うと、「えへへ」と海翔は笑って立ち上がった。

うちの弟はよく転ぶ。落ち着きがなくて、ちゃんと前を見ていないから、よく転ぶ。何度注意をしても治らないから、今まではそのたびにイライラして、振り返ることもしなかった。

 けれど最近の涼太は、転んだ弟を待つことにしている。目を離した隙にけがをされていたらと思うと気が気でない。血を流す晴翔を見たときは、心臓が縮み上がった。あんな思いはもうしたくない。

 何度付いてくるなと言っても勝手に付いてくる弟達に、涼太はもう付いてくるなとは言わない。どうせ言っても無駄だからだ。勝手に付いてくれば良い。そう思って弟達の歩調に合わせることもしない。こっちがどうして合わせてやらなきゃいけないんだと思う。

 その代わり、転んだときだけは待っててやろうと思った。立ち上がって、また歩いたり走ったりするようになるまでのほんの一瞬。意地でも手は貸したくない。けど待っててやるくらいなら、いいかと思った。

 今日も勝手に付いてきた晴翔と海翔と公園のブランコに乗り込んで、三人で力を合わせて揺らした。

「あはは」

 涼太は笑った。一人だとびくともしないブランコは、三人だと力強く揺れる。

 晴翔と海翔は涼太が笑ったのが嬉しかったのか、いつも以上に笑っていた。

 ブランコが揺れるときに吹き抜ける風が涼太の頬を撫でた。気持ちいいな、と涼太は思った。

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