診察20【青木千秋】

「ああ。痛い、痛い」

 青木千秋あおきちあきは夫の母である瑛子えいこの診療所通いに付き合っていた。

「お義母かあさん、いきますよ」

 瑛子に自分の肩を差し出して、車の後部座席から車椅子に座らせる。ずしっと千秋の肩に体重がかかる。思わず顔をしかめた。

 膝が痛くて歩くのに難儀する義母を、千秋は毎回こうして診療所まで連れてくる。

 診療所の入り口まで車椅子を押すと、瑛子は中に見知った顔を見つけたらしく右手を上げて車椅子を操り、勝手に中に入っていってしまった。ここまで連れてきた千秋を振り返る素振りは一切なかった。

 ……私はお義母さんの召使いじゃないんですけどね。

 ため息をつくと駐車場に戻り、車に乗り込む。瑛子の家に着くと鍵を開けて中に入り、掃除や洗濯に取り掛かる。瑛子は全く和え受けない訳ではない。自分のことはやろうと思えば自分で出来る。ただ、やはり掃除や洗濯までは厳しいらしい。重たいものを持ったり、踏ん張らなくてはいけない作業は瑛子は出来ない。だから千秋はこうして瑛子の身の回りの世話をしている。

 瑛子は夫の聡介そうすけと共に千秋の家から徒歩五分の場所に暮らしている。その距離感だからこそ、なんとかなっているのだ。千秋の義父にあたる聡介はまだ現役で、今の時間は働きに出ている。川村土建で働く聡介は、夫の啓介とは違い、大きな口を開けて大胆に笑う豪快な人だ。

 洗濯機を回し、掃除機をかけ終えてシンクの前に立つ。またしても使い終えた食器すら洗って行かなかった瑛子に腹を立てながら、それでも食器を洗う。早く終わらせて、自分の家の家事もこなさなくてはならないのだ。時間の余裕はそんなにない。

 本当、召使いみたいだな。と千秋はいつも思う。

 夫の啓介が病気になってからすり減った神経が休まる事はない。啓介がようやく立ち直ってきたと思ったら間を置かずに瑛子の膝が悪化し、家事もままならないと言うので千秋は長年勤めたパートも辞めて、こうして瑛子の家の家事の補佐までしている。

 スポンジを取り落とし、千秋は舌打ちしながらそれをもう一度手にした。最近手先が痺れて力が入りづらいことが増えた。けれど忙しさにかまけてその事実から目を逸らしている。早くしないと、瑛子のお迎えの時間が来てしまう。洗濯機のピーという電子音を聞いて、千秋はまた舌打ちをした。今行くよと洗濯機にまで苛立つ自分にうんざりして、涙がこぼれそうになった。



 最近、ママはイライラしてる。青木翼は不満だった。

「もうすぐ中学生なんだから、自分の事は少し自分でやりなさい」 

 翼が何も悪いことをしていなくても、隙あらばそう言って叱られる現状をおかしいと感じていた。

 けれど今日は嬉しいニュースがある。翼が授業で描いた絵が、県のコンクールに出品されることが決まったのだ。翼はうきうきして、「今日ぐらい褒めてくれるでしょ」と弾む足取りで帰宅した。

 千秋が正座して洗濯物を畳む姿を見て、後ろから抱き着くようにのしかかり、

「ママー! ただいまあ!」と甘えた。

 すると千秋は「重い重い!」と翼を振り払い、

「今忙しいの! 見て分かんない?」と苛立ちを隠しもせずに言ったのだ。

「ごめんなさい……」

 翼がしゅんとして離れると、千秋は畳み終えた洗濯物を手にして立ち上り、

「おばあちゃん家言ってくる。悪いけど、ご飯だけ炊いておいて」と言い残して歩き出した。

 翼は、ママの馬鹿、と思いながらその背を見送った。話くらい聞いてくれたっていいのに。


 その夜、仕事から帰宅した啓介に県のコンクールに自分の絵が出品されると報告をした。すると啓介は目を輝かせて翼の頭を撫でた。

「おめれとう!」と言った啓介の顔は喜びに満ちていて、翼はちょっと照れ臭くなった。

「大げさだなあ。パパは」

 啓介は手持ちのパソコンを開いて、『ママには言ったの?』と聞いてきた。

 翼は頬を膨らませて答える。

「言ってない。忙しそうだし、イライラしてたから」

『そうか。喜ぶと思うけどな』

 啓介は風呂場の方に目をやった。千秋は今、お風呂に入っている。

「最近のママ、イライラしてばっかりで、翼どころじゃないもん」

 翼が不貞腐れてそう言うと、啓介は『ママにはパパから言っとくよ』と答えた。翼はその返事を見て、満足して自室に戻った。きっと明日の朝には褒めてくれるに違いない。でも今日は腹が立つから、ママにお休みは言ってあげないことに決めた。



 千秋は風呂場で一人、悔し涙を流していた。何度思い出しても腹が立つのに、何度も思い出してしまう。

 それは今日、瑛子を病院から連れ帰ってきたときの事だった。

 瑛子はいつもの椅子に腰掛けると同時に、

「千秋さん、お茶入れて」と言った。

 はいはい、と内心で適当な返事をしなが瑛子の湯飲みを食器棚から取ろうとしたとき、手に力が入らなくて取り落としてしまったのだ。

「すいません!」

 すぐに拾い、湯飲みをさっと洗ってお茶を出した千秋に対し、瑛子は蔑むような視線を向けた。

「そんな嫌がらせまでしなくたって、いいでしょう」

「え?」

 瑛子の声には怒りが籠っていた。

「そうね。私なんかには、落とした湯飲みぐらいがちょうど良いわよね」

「いえ、そんな」

 急に怒り出した瑛子に戸惑いながらも必死で否定をしたが、瑛子には千秋の声など届いていないようだった。

「お茶なんか偉そうに飲まなきゃいいのよね。こんな思いをするのなら、自分でいれれば良かったわ」

 千秋はわざと落とした訳ではない。けれどそれを説明するのも馬鹿らしかった。どんなに千秋が一生懸命やったって、瑛子には響かない。自分の愛する息子を奪った憎い女としてインプットされた千秋を認める事はない。今まで千秋はありがとうを言われたことすらないのだから。

「帰ります」

 千秋は自分の頭に血が上るのを感じながら、辛うじてそれだけを言い残し、瑛子の家を出た。後ろから「あーあ。逆ギレだわ。怖い怖い」と聞こえてきたが無視した。

どうして私だけがこんな想いをしなければならないのか。全くやっていられない。そう思うと悔しくて悲しくて、涙が止まらないのだ。


 長風呂を終えた千秋に、啓介が紅茶をいれた。ダイニングテーブルに座った千秋の前にカップを差し出しながら、啓介は千秋の向かいに座った。

 千秋は「ありがとう」と言うことだけで精一杯で、カップの中に注がれた飴色の液体を眺めてぼーっとしてしまう。

 啓介が、かたかたと文字を打ち込んでディスプレイをこちらに向けた。

『お疲れ様。今日も大変だったみたいだね』

 千秋はその文字を見たら我慢が出来なくなり、先ほど泣いたばかりだというのにまたしても涙を流した。

「私、私ね……」

 千秋が話をしている間、啓介は眉間にしわを寄せて聞いていた。自分の親のことを悪く言われれば良い気はしないだろうと瑛子のことは啓介にずっと黙ってきたから、啓介にとっては初耳のことばかりのはずだ。けれど千秋もここまで悪意のある言われ方をして、明日からまた元通りに接する自信はなかった。自分の今までの気持ちも、自分の手の状態も正直に打ち明けた。

話し終えて啓介の方を見ると、啓介は

『いつもごめんね』とディスプレイに表示して、悲しい顔をした。その文字を見て、止まりかけていた涙がまたしても次から次へと溢れる。

啓介は少し考えるそぶりをして、こう打ち込んだ。

『いつも二軒分の家事をやるのは、大変でしょう? いっそ同居の方が良い?』

 千秋はその文字を見て、この人は何もわかっていないと絶望した。我慢できなくて、そのまま言葉にした。

「あなたはなにも分かってない。ずっと一緒にいなきゃいけないなら、そっちの方が苦痛! 手が痛くたって病院にも行けないのに、一緒の家に住んだら私の時間なんてなくなるに決まってるじゃない!」

 驚いた顔の啓介を一人残し、紅茶にも口を付けることなく、千秋は寝室へ逃げ込んだ。頭から毛布をかぶり、その暗い中で一人で泣いた。


 千秋は寝起きに体の異変を感じていた。自分の顔が泣きはらしたせいでぱんぱんに腫れていることと、手の痺れが悪化して、痛みとだるさを主張していることだ。手のひらを握ったり開いたりしてみても。その感覚がよく分からない。これはもう診療所に行くほかないなと観念した。

 いつもより時間をかけて朝食を用意し、翼の前に出した。手に取ろうとする何もかもを取り落とし、その都度苛立って全てを投げ出したい衝動にかられた。しかし翼の顔を思ってどうにかこうにか体裁を整えた。啓介は出勤がいつもより早かったらしく、千秋が起きるともういなかった。気まずくて顔を合わせづらかったのかもしれない。

 翼がしきりに「ママ私になんか言う事ない?」と聞いてきたので「なに?」と返した。朝から何を言っているんだと思った。

すると、その答えが満足いかなかったようで、せっかく作った朝食を半分以上も残して翼は学校へ行ってしまった。思春期の娘は何かに怒っているようだが、怒りたいのは自分だ。正直これ以上問題を増やさないでくれ、と千秋は思った。

 もやもやした気持ちを引きずりながらどうにか支度を整えて、診療所へ向かった。自分の診察で訪れるなど何年ぶりだろう、と思った。

「なるほど、なるほど」

 真治は診察室で頷いた。レントゲンなどを経た後、千秋に診断が下された。

「手根管症候群ですね」

「しゅ……?」

 聞きなれない病名だったので、千秋は一回で聞き取ることが出来なかった。

「手根管症候群です。神経が圧迫されて痛みとか痺れが出るんですけど……。ちょっとひどいんで注射をしましょう。それと飲み薬で様子を見ますかね。あ、湿布も出しますね」

 真治はそう言うと鮮やかな手つきで千秋の手首から注射をし、飲み薬の副作用を説明した。

「眠気が出るかもしれないんで、運転はなるべく控えていただいて、あとはなるべく手を休ませてあげるといいですね」

 さらっと言われたその一言を、千秋は聞き流せなかった。

「手を休ませる?」

「はい。手を酷使する方がなることが多い症状ですから、出来る限りお休みさせてあげて下さい。あとはこの注射がどれくらい効いたかも知りたいので、一週間後にまたいらして下さい」

 診察室を出て、千秋は先ほど聞いた言葉を反芻した。そして思った。

手を休ませるなんて、出来るもんならしたいけど。

 千秋は携帯を取り出して仕事中の啓介に、今受けた診察の結果報告のメッセージを送った。

 診療所を出て帰宅するとき、瑛子の顔がちらりと浮かんだが、すぐに頭を振って振り払った。今日一日ぐらい、休ませてもらおう。そして家に帰り、言われた通り湿布を貼ってリビングのソファーにゆっくりと体を沈めた。ため息をつくと、体の何もかもが抜けていく気がして、そのまま睡魔に襲われる。自分はやはり疲れていたのだと自覚しながら、そのまま眠りにおちた。



 翼は学校帰り、結奈に誘われて診療所を訪れた。結奈はここの看板犬、ハナコに夢中なのだ。翼としても家にはまっすぐ帰りたくなかったので、誘いにすぐに乗った。

 診療所に入って断ると、ハナコを駐車場の脇の小さな小屋につないでくれる。そこでハナコとじゃれていると、診察を終えた真治が出てきた。

「おおー。ハナコ、いっぱい遊んでもらってよかったなあ」と言いながらハナコの頭を撫でる。ハナコは嬉しそうに尻尾を振った。

「先生!」

「診察終わったの?」

 結奈と翼が声をかけると真治は頷いた。

「うんそう。今日は午後の患者さん少なかったからね。ハナコを早めに散歩に連れて行こうと思って。二人とも、そろそろ暗くなるから帰らないとおうちの人が心配するよ」

 優しい真治の言葉に結奈は頷いたが翼はうんとは言い切れなかった。

「どうせ私が遅くなったって、ママは心配しないよ」

 心の声が漏れた。結奈が心配そうに翼を見つめるが、翼は唇を尖らせて下を向いた。

 真治はそんな翼を見て、少し考え、

「じゃあ翼ちゃんは僕と一緒に散歩に行こう」と言った。

 翼は力一杯頷いた。結奈は心配そうにしながらも「また明日ね」と帰って行った。いいな、結奈ちゃんは早く帰りたいんだと少し妬ましく思った。

真治の横を歩きながら、ハナコの尻尾を見る。いつも元気なハナコは、たくさんの愛情をもらっているから無邪気に尻尾を振るのだろう。そう思うと、翼は悲しくなってきた。

「先生、私ね、いらない子なのかも」

「どうして?」

 翼が思わず口にした言葉に、真治はゆったりと優しい口調で返事をした。

「だってママは、私さえいなければおばあちゃんとお父さんの面倒だけ見てればいいんだもん。最近全然私の話も聞いてくれないし、きっと私に興味がないんだよ」

「うーん。そうかなあ。でも、学芸会、すごく仲良く歌ってたじゃない」

 言われて翼はあのときのことを思い出す。確かにパパとママとそれぞれ手を繋ぐのは久しぶりで、とても幸せな気持ちになったものだ。けれどそれからママはどんどんイライラするようになって、今となっては毎日怒ってばっかりだ。「それはそうだけど、それはきっとパパがいたからだよ」

 翼がそう言うと、真治は歩みを止めた。横を歩いていた翼も一緒に立ち止まる。

「翼ちゃん、いいかい?」

 真治は翼の顔を見て言った。

「翼ちゃんがそう思うのは、お母さんが大好きだからだろう? 今少しだけ話を聞いてもらえないからって、翼ちゃんとお母さんの今までを否定しない方がいいよ。お母さんだって翼ちゃんのことが大好きだ。だから今までずっと仲良しだったんだよね」

 真治は一度微笑んで続ける。

「きっと、お母さんには今余裕がないんだ。だから分かってくれる翼ちゃんに甘えてるんだ。翼ちゃんに甘えるくらい、お母さんも辛いんだよ」

 翼は千秋の顔を思い浮かべた。確かにママは、最近余裕がないのかもと思った。

「大人なんて、完璧なように見えて全然完璧じゃない。見えないものも出来ないことも、いっぱいある。それでも完璧なように見せないといけないからみんな頑張ってるんだ。だから」

 真治は人差し指を立てて、顔の横に添えた。

「翼ちゃんはお母さんが一生懸命頑張っている姿を、応援してあげないとね」



 千秋が目を覚ますと、味噌汁の香りが鼻をくすぐった。不審に思ってすぐに寝室を出ると、啓介がエプロンをしてキッチンに立っていた。

「どうしたの?」と聞くと、

『ママの手を休ませないといけないからね』とキーボードで返事が返ってきた。千秋は戸惑い、言葉を失う。

「ママおはよう」

 翼も千秋より早起きをしたらしく、洗濯籠を手にして通り過ぎ、物干し竿に洗濯物を干し始めた。

「ママは座ってて」

 翼にそう言われ、よく分からないまま洗顔をしてダイニングの椅子に座った。夢でも見ているのかと思うほど都合よく物事が進み、あっという間に千秋の前に朝食が用意された。

 啓介も翼も食卓につき、手を合わせて「いただきます」と言った。千秋も慌てて手を合わせる。顔色を窺うと、啓介はにこやかで、翼も笑っている。

「ママ、パパね、ママのために有給休暇取ったんだって」

 翼の言葉を受けて、啓介がにやっと笑った。そんな話は聞いていなかった。啓介は昨日の夜も何も言わなかったのに。千秋が呆然としていると、翼が続ける。

「そして今日は学校も創立記念日でお休みなので、私とパパはこれを食べたらおばあちゃん家に行ってきます」

「いっへひます」

 啓介が翼の後にそう言って右手を額のあたりにくっつけ、いわゆる敬礼のポーズをとった。翼も同じポーズをとる。

「ママ、これ」翼が瑛子の家に行く前、封筒を手渡した。

「私がいないときに読んでね」

 翼がはにかんで笑う。その表情を見るのは久々だなあと千秋は思った。

 千秋は一人で家に残され、混乱したまま翼からもらった封筒を開いた。中には手紙が入っていた。

『ママ、いつもありがとう。

頑張ってくれてるの知ってるけど、ちゃんと私の話も聞いてね! (プンプン)

今日はママはなんにもしないで下さい。

一緒に入ってるのは主婦業お休みチケットです。

なんと今日は特別に、チケットなしでお試し出来ます。

何回でも使っていいからね!

ママ。大好きだよ』

 手紙を抜いた後の封筒をもう一度見ると、切手代の紙が数枚入っていた。そこには翼が最近気に入っている犬のキャラクターと、「お休みチケット」と言う文字がカラフルに描かれていた。

 千秋はその紙を大事に手のひらに乗せて眺めてから、そっと封筒に戻した。

 翼と啓介が家を出たときの、嬉しそうな顔を思い浮かべた。悪巧みが成功したような顔の啓介。はにかんだ翼。その顔を思い浮かべただけで、涙が出てきた。 

 啓介と結婚して、良かったと思った。そうでなければ翼も生まれなかった。

 瑛子は相変わらず許せないが、自分にもう少し余裕があれば、ここまで腹が立つこともなかったのかもしれないと思う。

 ちょうどその頃、瑛子は啓介と翼に激しく怒られているのだが、千秋がそれを知る術はない。

 目からは涙を流しているが頬は自然と緩む。千秋は涙を拭い、早く治りますように、といつも頑張っている自分の手をそっと撫でた。

 痺れて感覚がよく分からなかったが、いつもより暖かい気がした。

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