診察12【堀内キヨ】

 堀内ほりうちキヨはゆっくりと目を開けた。まだはっきりとしない意識の中で、ここはどこだろうと思った。目線だけを彷徨わせてあたりを伺う。見慣れた自宅の天井の木目が見当たらない。

 真っ白な天井に真っ白い壁。その壁にいくつも折り紙が貼り付けてある。紫陽花。傘。蛙。長靴とレインコート。そのカラフルな折り紙がなんであるかを考えるうちに、少しずつ意識がはっきりしてきた。

 自分の上に繋がれた点滴が視界に入り、病院の匂いを感じ取ってようやく自分の置かれた状況を察した。

 どうやら自分が寝ているここは、自宅ではない。

 体を起こそうとしたそのとき、扉が開いてかかりつけの医師である正明が現れた。

「堀内さん、おはようございます。ご気分はどうでしょう?」

 言いながら自分の寝ているベッドに歩いてくる正明の言葉を聞いて、今は朝なのかと思った。昨夜は、昨夜の自分はどこで何をしていたのだったか。思い出せない。

「ええと……」

 キヨは混乱して、言葉に詰まる。どうも頭にもやがかかったようで、うまく働いてくれない。それでも必死に考えて、正明に尋ねる。

「私は、どうしてここに?」

 目が覚めたら診療所にいた。少なくともキヨは自分の意思で訪れた記憶はなかった。

「昨日の夜、堀内さんが倒れているのを川村さんが見つけて、ここまで運んで下さったんですよ」

 キヨは隣に住む川村志津子の顔を思い浮かべた。

 なるほど、と納得した。いつも志津子は隣に一人で暮らすキヨを気遣い、一日一度は声をかけてくれる。しかしいつも顔を出すのは大抵昼か夕方で、夜に訪れたことはなかったように思う。

 考えることはたくさんあるが、とにかくだるい。

 キヨの体はそろそろ限界を迎えているようだ。


 川村志津子は朝になるのを待って、診療所を訪れた。昨夜倒れたキヨが心配でならなかったのだ。

 昨夜、志津子が夫の満彦と夕食をとっているとき、キヨの家から犬の声がやたらと聞こえた。キヨの飼っているハナコは大人しくて利口な犬で、普段はほとんど吠えることがない。嫌な予感がして満彦と顔を見合わせ、志津子が慌てて様子を見に行くと、キヨが庭先で倒れていた。

 ハナコの餌皿を手にして犬小屋の前に横たわるキヨを見つけたとき、志津子は心臓が止まるかと思うほど驚いて、慌てて「おばあちゃん! おばあちゃん!」と何度も呼びかけたが反応はなく、その声を聞きつけて追いかけてきた満彦が脈を確認してから急いで車に乗せて、診療所まで運んだのだ。


 受付で様子を尋ねると「もう目は覚めていて、面会も問題ない」とのことだったので志津子はほっとした。

 病室の扉を開けると、キヨは機械と点滴に繋がれてベッドに横になっていた。ベッド脇に近付いて顔を覗き込むと、キヨは閉じていた目を開けて志津子を見た。

「おはよう! おばあちゃん、起きた?」

 志津子は大きな声で聞いた。キヨはもう耳が遠いので、大きな声で話かけないと気が付かないのだ。

「ええ。ありがとう。志津子さんが見つけてくれたんだって?」

 キヨはベッドに横になったまま、顔だけを志津子に向けて言う。その弱々しい声を聞き、志津子は切ない気持ちになった。

「そうなの! びっくりしたわよぉ!」

 内心を隠し、志津子は務めて明るく振る舞った。キヨの体の調子が思わしくないことは、毎日見ている志津子が一番よく分かっている。けれどどうすることも出来ない。せめて志津子に出来ることはといえば、毎日明るく話しかけて、キヨを少しだけでも笑わせてあげることぐらいだ。

「あの、志津子さんにこんなお願いをするのは申し訳ないんだけど……」

 キヨは真面目な顔をして、そう切り出した。

 志津子は緊張した。身寄りのないキヨが、しかもこのタイミングでお願いなんて、きっと重大な頼み事に違いない。出来るだけ希望を聞き入れたいと、ドキドキしながらキヨの次の言葉を待った。

「ハナコに、ハナコにご飯をあげてもらえないかしら」


 志津子は見舞いを終えると院長室のプレートが飾られた扉の前に立ち、コンコンとノックした。返事を待たずに扉を開き、中に入る。中には部屋の主人である正明と、そのデスクの前に立つ真治がいた。二人とも驚いた顔で志津子を見ている。

「あら。若先生もいる」

 志津子の声を聞いて、真治は苦い顔をした。


「川村さん、関係者以外は入ってきちゃ駄目ですよ」

 志津子は即座に反論をした。

「あら若先生ったら、私の話も聞かないで! だから彼女も出来ないのよ!」

 痛恨の一撃を喰らって真治が言葉を失っている間に、志津子は正明の側に寄り、手を合わせて言う。

「ねえ、院長先生にお願いがあるの」

 正明は「まあ立ち話もなんですから」と応接用のソファーを志津子に勧めたので、志津子は大人しく従った。正明が「まあお茶でも」と言って立ち上がったのを見計らい、真治が「診察、行ってきます」と院長室の扉に手をかけた。志津子が「可愛い患者さん、いるといいわね」と言うと、何か言いたげな顔だけを志津子に向けて、結局何も言わずに院長室を出て行った。

 正明はすぐに湯気のたつ湯呑みを二つ持って戻ってきて、テーブルの上に置いた。一つを志津子の前に差し出して、もう一つは自分の方に寄せながら志津子の向いのソファーに腰掛けた。

「ねえ、院長先生、堀内さんの容体、良くないんでしょう?」

 志津子はソファーから身を乗り出してそう尋ねる。正明が困った顔をしたのを見て、志津子は付け足した。

「そうか。お医者さんがそう簡単に患者さんの話、出来ないわよね。家族じゃあるまいし。ええっと、分かった。じゃあ私の話を聞いてもらえるかしら」

 志津子は目の前の湯呑みを手に取り、お茶で口を湿らせると、咳払いをして話し始めた。

「堀内のおばあちゃんはね、戦争で家族を亡くしてるの。旦那さんも、お子さんも。それ以来、再婚することもなくやってきて、唯一の身内だったお姉さんも亡くなって、今はもう身寄りがないんですって。だけどね」

 志津子は正明の目を見て、懸命に語りかける。

「ハナコって犬を飼ってるの。もう七、八年になるかしら。とっても仲が良くってね。おばあちゃん自身も、ハナコだけが生き甲斐だって言い切ってるの。それはもう可愛がっててね。だから、まあ、変な話だけど、おばあちゃんが先に亡くなったらうちで飼ってくれないかって頼まれてたりもするんだけどね」

 正明は頷く。

「で、それは構わないんだけど、おばあちゃんがもし、もう家に帰れないなら、その間だけでも一緒に診療所にハナコを置いてもらえないかしら。面倒を見るのが嫌な訳じゃないの。そうじゃなくて、おばあちゃんとハナコは本当に、仲が良いのよ。引き離すのが可哀想なくらい。だけどおばあちゃん、もう一人じゃ暮らせないくらい弱っているでしょう」

 志津子は昨夜、志津子がキヨに気付いてからはぴたりと鳴きやんだハナコの姿を見た。すごく悲しげな瞳で、運ばれるキヨから片時も目を離さず、すぐそばにあるご飯にも手を付けなかったハナコの姿が頭をよぎる。

「もう無理だって、私思うの。ご飯を飲み込むのもやっとなのよ。毎日見てるから、分かる」

 志津子はキヨから「がんが全身に転移しているから、自分はいつ死んでもおかしくない」と聞いていた。「だから、もしものときは、ハナコをお願いね」と言ったキヨの真剣な顔を思い出し、思わず流れた涙をハンカチで拭う。

「だけどね、ハナコともう会えないと思ったら、無理矢理にでも退院したがるわ。ハナコだけがって言うのがおばあちゃんの口癖なの。私、毎日ご飯あげに来てもいい。散歩もするわ。だから、おばあちゃんのそばに、ハナコを置いてあげてもらえないかしら」


 野本晃太と谷崎賢人は高台の公園に遊びに行く途中で、犬の散歩をする真治を見つけて駆け寄った。

「うわー! 先生、犬飼ったの?」

「それって柴犬? 触ってもいい?」

 真治がどちらの質問に先に答えるべきかと悩んでいるうちに、もう賢人がハナコに触っていた。ハナコは頭を撫でられて、気持ちよさそうに目を細めた。

「えーっとこの子はうちで預かってる犬で、柴犬かどうかは分からない。僕もそうじゃないかなとは思うけどね」

 真治は律儀にどちらにも返事をした。

「何て名前なの?」

 賢人はもう触り放題ハナコを触りながら聞く。晃太は優しい手つきでハナコの頭に触れた。ハナコは嫌がることなく二人を受け入れている。

「ハナコ」

 真治が答えると、ハナコは座った。

「ハナコなら女の子だね!」

 嬉しそうに言う晃太の手を、ハナコが舐めた。晃太は少しびっくりしたようで、目を大きく開いた。

「あ、晃が太ハナコに気に入られた! 女にモテるな晃太ー!」

 嬉しそうに冷やかした後、賢人はハナコに「お手!」と言った。ハナコはきちんと賢人の小さな手に自分の右手を乗せた。

 晃太は先程自分が冷やかされたことも忘れたかのように

「ねえねえ俺もやりたい! お手!」と割り込んだ。

 ハナコはまたきちんと晃太の小さな手に自分の右手を乗せた。晃太はそんな自分の手を、嬉しそうに眺めた。

「ねえ、ハナコはいつまで先生のとこにいるの?」

 賢人の問いに、真治は「わかんない」としか答えられなかった。


 病室のキヨの病状は、緩やかに進行していた。

 キヨの心音を代わりに響かす『ピッ、ピッ、ピッ』と言う機械音だけが、キヨの生きようとする姿を表明していた。

 キヨの意識は数日前から戻らない。

 それまでは毎日車椅子で、診療所の裏手にある正明と真治の自宅の庭に出来たハナコの犬小屋まで通って、ほぼ一日中、そこでハナコと過ごしていたのだけれど。

 ちぎれんばかりに尻尾を振るハナコと、穏やかに何かを話し合っていたのだけれど。

 ある雨の日に意識を失ったキヨは、それからずっと目を覚まさない。

 正明は機械音の響く病室を後にし、ハナコにご飯をやりに行った。病室のキヨのそばには、今は真治が控えている。

 どんよりとした曇り空の夜。ハナコは犬小屋で大人しく待っていた。

「ハナコ、ご飯だよ」

 正明はハナコの餌皿を置き、近くにしゃがんでハナコが食事をする様子を見守る。

 するとふいに、ハナコが急に吠え出した。

「ワンワン!ワンワン!」

 いつもはこんなに吠える犬ではない。

 なにかの異変か? と慌てて「ハナコ!ハナコ!」と名前を呼ぶが、ハナコは鳴き止まない。

 正明はまさか! と思い、キヨの病室に慌てて戻る。

「堀内さん! 堀内さん! 聞こえますか! 堀内さん!」

 真治が必死に措置を行なっている所だった。先程まで聞こえていた緩やかな感覚の電子音が聞こえず、代わりに『ピーーーーー』と言う、冷徹な音になっていた。


 夜を徹した真治と正明の措置の努力は実らず、とうとうキヨが戻ってくることは無かった。

 もう自分達に出来ることは無い。後のことを真治に任せ、ハナコに悲しい報告をする為に正明は病室を後にした。

「ハナコ。ハナコ」

 正明が呼ぶとハナコは犬小屋から出てきた。が、いつもは振ってくれる尻尾は力なく垂れたままだ。

「あのな、お前のご主人様は、先に行って待ってるってよ。ごめんな。もう、会わせてやれなくなっちゃって」

 正明はハナコに詫びた。そして、ハナコの頭を撫でた。ハナコは少し目を細め、正明の顔を下から覗くと、体を反転させ、正明に背を向けて立ち上がった。

 そして、

「ワオーーーーーーーーーン」と、吠えた。

 それはそれは立派な遠吠えだった。

 その遠吠えが終わると、もう一度正明の方を向いて、座った。

「お別れ、すんだか?」と正明が問うと、ハナコは「ワン!」と返事をした。

「ご主人様、なんだって?」

 ハナコは再度、「ワン!」と鳴いて、空を見上げた。

 つられて正明も、空を見上げる。空からはぽつりぽつりと雨が降り始めてきた。

 ハナコはそれでも、空を見上げて動かない。

 正明は一緒になってその雨に濡れた。そしてハナコの気がすむまで、一緒に空を見つめ続けた。

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