10

 朝、いきなり猛烈な吐き気で目が覚めた。布団から飛び起きて部屋を見回していると、キッチンらしきところから守本が顔を出して、

「おはようございます」

とにこやかに言ったが、僕の様子を見て

「トイレそこです」

と指差してくれたので駆け込んだ。

 何があったのかをまったく覚えていない。この部屋も知らないし自分がどうしてスウェット姿でここに居るのかわからない。布団に座って呆然としていると、ダイニングテーブルの上に何かが置かれた。

「しじみの味噌汁です、飲めたら飲んでください」

守本は部屋着ではなく、きちんと着替えた格好をしていて、どこからか洗濯機を回しているような音もする。

「ありがとう、えーと、ここは、守本の家かな? 今、何時だろう」

やっと出た声がガラガラすぎて自分で驚いてしまった。

「今10時ですよ、そしてここは俺の家です」

返事を聞きながら、ダイニングチェアになんとか座って、しじみの味噌汁を見つめるものの、まだ吐き気が強くて飲めない。じっと見つめていると向かいにコーヒーカップを置いて守本が座る。

「あれ、飲めなさそうですか? コーヒーもありますよ? 飲みます?」

視線を上げると、二日酔いとは無縁のさわやかな青年が座っている。

「あ、えーと水もらえると、ありがたいかも」

あー、そりゃそうだ。と言うと水をグラスに注いで持ってきてくれた。とりあえず水を一気に飲んだら、ひとまず吐き気が抑え込まれたような気がする。

「えーっと……、なんでここに居るんだっけ?」

テーブルに突っ伏しながら聞くと

「覚えてないんですか?」

と少し大きめの声で返されて頭に響いた。

「昨日は、門前さんの家でたこ焼きを食べて、常松とか奈須とかが居たのは覚えてて、で、確か、終電逃して、タクシーに乗った?」

テーブルにマグカップを置く振動が伝わってくる。

「だいたい合ってますね。でも最後が違います。」

ピー、ピーと電子音が聞こえてきた。

「あ、ちょっと待ってください」

洗濯が終わったようだ。部屋の奥へ消えていく守本を見ながら、昨日のことを思い出していた。確か、終電がなくなったんだったと思うけど、その後の記憶がごっそり抜け落ちていて、普段酒を飲んで記憶を失うことなんてないのに……、と考えているとあることに気づいた。洗濯かごを持って戻ってきた守本に確かめてみることにする。

「昨日さ、日本酒飲んだりした……?」

ベランダへ向かいながら少しだけこちらを見て、

「そうです、思い出したみたいですね」

と笑顔で守本は言った。ガラガラと掃き出し窓が開く音がする。外の風の匂いが部屋に入ってきて、嗅覚が一気に戻ってきた。だらしなくテーブルに放っていた腕や顔を持ちあげ、しじみの味噌汁を手に取って飲んでみた。喉から胃にかけて液体が落ちていく感覚で、体が目覚め始めたような気もする。ベランダ越しに快晴の空が見えて、光を浴びながら守本が洗濯物を干している。

「ここ何階?」

外が気になってベランダに近づくと

「8階ですよ」

と返ってきた。洗濯物を干し終わった守本が部屋に戻ったので、サンダルを借りてベランダに出てみると、右手に商店街が見えて左手には公園があり、真下には川があった。商店街の先に駅が見えたので、なんとなく帰り道のシミュレーションをした。それにしても8階だとこんなに開けた景色なんだと、うらやましくなる。後ろでパタンという音がして、守本が別のサンダルを持ってきたようだった。隣で電子タバコをくわえている。

「街を眺めながら飲む味噌汁はどうですか」

「すごくおいしい、体に染み渡るよ」

だいぶぬるくなっていた味噌汁を飲み干した。吐き気ももうなくなっていた。

「日本酒飲むとさ、記憶飛ぶんだよね」

「そうだったんですね、結構平気そうに飲んでましたけど」

「なんで日本酒飲んだんだっけ?」

「寒かったからですよ、うちまで歩く途中で寒かったから居酒屋に入って熱燗飲んだんです。で、その後店から出たらタクシーが居たんでそれで帰ってきました」

「そっかぁ……」

まったく覚えていなかった。普段日本酒は避けていたのにどうして飲んだのかもわからない。

「……なんか、変なこと言ったりしなかった?」

気が進まなかったが、念のためおそるおそる聞いてみた。

「いや、別に普通でしたよ、楽しそうでした。あ、でも、彼女さんの話でちょっと荒れてたかも」

「え? そんな話したの?」

男を女に置き換えて話すくらいの余裕は残っていたようでほっとした半面、そんな話を守本にしてしまった自分の軽率さをものすごく後悔した。

「あー……、ということは覚えてないんですね」

「覚えてないって、何を?」

「ほんとは彼女とは別れてないって言ってました」

「どういうこと?」

「いや、なんでもないです」

そう言って部屋の中に戻ってしまった。すごく気になる一方で、とりあえず何であっても忘れたことにしてしまえばいいか、という横着な考えもよぎった。日射しがあるとはいえ、冬の風はすぐに体を冷やしてしまったので、守本のあとを追って部屋に入った。

 お椀を洗おうとキッチンへ行くと「置いといていいですよ」という声が聞こえたが、聞こえなかったふりをして洗った。リビングに戻ると布団が片付けられている。

「あ、ごめん片付けてもらっちゃって」

時計を見るともうすぐ11時になるところだった。これ以上長居しては申し訳ないと思い、着替えようと思っていると

「着替えですか?」

と聞かれたので、頷くと洗面所の方から、ハンガーにかけられたジャケットやシャツを持ってきてくれた。

「あー、ありがとう……」

自分でハンガーにかけた覚えがないので、脱ぎ散らかしていたのかと思うと申し訳なさと情けなさで気が重い。

「今日、何か予定あるんですか?」

「いや、特にないけど……」

ジャケットを羽織ると、ほのかにいい匂いがした。

「じゃあ、ランチ一緒に食べませんか」

味噌汁が呼び水になったのか、空腹感に襲われていたので、二つ返事で快諾した。

 駅に続く商店街を歩いていると、日曜日なのもあってか、この街の住民と思われる家族連れやカップルでにぎわっていた。一歩路地に入ると洒落たカフェやレストランがあるようで、住みやすそうな街だ。

「ここでどうです?」

サンドイッチやハンバーガーの店のようで、アメリカっぽい雰囲気のよさそうな店だ。

「いいね」

「じゃあここにしましょう」

守本が声をかけると、親し気に店員さんが席に案内してくれた。テラス席でおとなしく座っている犬を横目に店内に入ると、意外にこぢんまりとしていたが、大きな窓から射す光で開放感があった。カウンターに座ると、ランチメニューをもらう。ハンバーガー、サンドイッチそれぞれ3種類があって、どれもおいしそうだなと眺めていると、守本はもう決めているようだった。迷ったが、さっぱりしたものにしようと思い、スモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチにした。守本はチーズバーガーを頼んだ。

「いい店だね、よく来るの?」

店内の装飾を眺めがら訊くと

「結構来ますよ、休みの日のランチとか、たまに夜も来ます。酒も飲めるんで」

先にコーラが二つ、運ばれてきた。

「なじみの店があるっていいよね。この商店街もいい感じで住みやすそうだし」

外を見ながら話していると、テラス席の犬と目が合った。

「そうですね、いいところですよ」

そう言ってコーラを一口飲むと

「やっぱもしかして予定とかありました?」

と聞かれた。

「え、ないけどなんで」

「いや、さっきから落ち着かない様子だなと思って」

「いや、いい店だなって思ってつい見てただけだよ」

そうは言ったものの、実際は、けっこうそわそわしていた。日曜日にゆっくり起きて、近所の商店街を歩いて、ランチを食べる、という状況、そしてその相手が守本だということが、そうさせていることに気づいていた。

「そっか、ならいいですけど。うん、いい店ですよ、ここ」

するとキッチンの方から、ややいかつい感じの男性が顔を出してきて

「お、守本くん。ごめんな今ちょっと混んでて」

そう言うと、サービスだと言ってナチョスを持ってきてくれた。守本がお礼を言う横で、僕も会釈すると

「お、この人は新しい彼氏かい? なんてなー!」

と言ってキッチンに戻っていった。守本はハハハと笑っている。

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