同僚がゲイなのではないかという思い込み

teran

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「あれ、今日は回鍋肉ですか?」

斜め後ろから声をかけられた。びくっとしてしまい、思わず読んでいた文庫本を乱暴にひっくり返したので、読んでいたページに折り目がついたような気がする。咀嚼するのを一時停止してゆっくり振り向くと、思ったよりも近くに顔があってまたびっくりした。

「ああ、その本、それ面白いですよね」

左手の指の隙間から本のタイトルが見えていた。とはいえ、僕は今さっき読み始めたばかりなので、面白いかどうかわからない。目を伏せたまま返事をせずに、数秒間、口を動かしてものを飲みこんでから、

「いきなり声かけられるとびっくりするからやめてもらっていい?」

と注意した。「すいません」と言いつつも反省している様子はなく、笑顔で弁当箱を見せてきた。

「今日は俺、唐揚げです、昨日、仙川さんが唐揚げ食べてたの見て食べたくなったんで。ていうか今日はお弁当作ってきたんですね。いつも買ってるのに」

「よく見てるね」

「毎日見てますよ!」

爽やかな笑顔で言うと、同僚が集まって昼食をとっているテーブルへ歩いていった。変なやつだと思った。続きを読もうと文庫本を見るとくっきり折り目がついていて、借りものなのに困ったなと思った。

 守本は去年新卒で入社した後輩で、僕より多分8つか9つ年下なはずだ。人懐っこい性格なのか、普段たいして絡みのない他部署の僕にも、こうやって突然話しかけてきたりする。テーブルで盛り上がる若者たちの声を聞いて、あの世代は皆そんな感じなのか……? と思いつつ回鍋肉を平らげた。昨晩二人分作ったのに、彼氏が急に外食してくると連絡をよこしたので、今日は弁当を持ってくることになったのだった。昨日やけ食いしたせいで、今日のおかずは量が少ない。

 満たされない腹をさすりながら、給湯室に弁当箱を洗いに行って、そのままエレベーターに乗った。ビルを出ると冷たく乾いた風が吹きつけると同時に、目を細めたくなる強い陽射しが降ってきて、暑いのか寒いのかわからない感覚になる。こんな秋晴れの日は散歩をするには最適だ。都内のビル街には意外と休憩できる広場がある。職場の近くにもちょっとした花壇とそれを囲むように配置されたベンチが並ぶ場所があって、道路よりも一段高くなったそこからは、昼休みに街を行き交う人たちの姿が見える。すぐ近くには高校があって、放課後の時間になるとベンチは生徒たちに占拠されてしまう。なんとなく居づらくなるので、基本昼休みにしか来ない。

 ベンチに座ると両手足を伸ばして、午前中の仕事で固まった体をほぐす。空が青い。持ってきた文庫本を開いて続きを読む。女友達の家に遊びに行ったとき、なんとなく本棚を見てみると、昔好きだったTVドラマのタイトルが目に付いたので、興味をそそられ手に取ったら、友達が持ってっていいよと言ってくれたのだった。短い昼休みの間に30ページくらいを読み進めたところで、どうやら自分が昔見たドラマと、この小説は何の関係もないということに気づいた。

 午後の仕事に戻ると、机に付箋が貼られていて、折り返しの電話をするよう書いてあった。今動いているプロジェクトでやりとりしている取引先の営業さん宛てだ。電話をすると、今ちょっと出先なのであらためてご連絡します、とのことだった。

「仙川さん、さっきの山下さんからのお電話、どんな件でした? すごく急いでた感じでしたけど」

常松が横のパーティションから顔を覗かせる。付箋でメモを残してくれたのも彼女だ。

「いや、客先にいるっぽくてまた連絡します、ってことだったよ」

「そうですか」

そう言うとパーティションの奥に姿を消した。このパーティションは、仕事に集中したいときにはいいのだけど、隣の同僚と会話するときには立ち上がるか、常松のように椅子の背もたれを最大に倒す勢いで顔を覗かせるかしないといけないので、皆、基本声だけでコミュニケーションをしている。それでも常松はいつも顔を見せてコミュニケーションをとってくるので、一応先輩ということで気を使ってくれているのだと思う。

「仙川さん、今日行くんですか?」

パーティションの向かい側から奈須が尋ねる。会話の最初に名指しをするのは暗黙のルールになっていて、そうしないと誰に話しかけているかわからず、返事をしたものの、自分への会話じゃなかったということが起こるからだ。

「あー、秋期入社の人たちの歓迎会のこと? 一応頭数には入れてもらってるけど……、奈須は行くの?」

「俺は行かないです、ていうか行けないです、予定があって」

「えー奈須さん、てっきり来ると思ってました。残念―」

斜向かいに対しては常松も名指し法で会話をする。

「まあ、俺もできれば参加したかったんだけど、予定あるし、自分の部署の人でもないし」

言い終わった後で「あ、そういう問題じゃないか」と自戒するように奈須が言った。

「でもきっと主役そっちのけで皆それぞれ気が合う人と飲むだけの会ですし、参加しなくても問題ないと思いますよー」

常松はフォローのつもりなのだろうけど、聞いている方としては、なんだかバツが悪い気持ちになる。テーブルに6人いただけでも話題が分かれてしまうのに、数十人規模の飲み会にあまり意味を感じないのは確かだった。


 午後7時の開始時間を15分ほど過ぎた店内は、ほとんどの席が埋まっていた。壁が取り払われたビアホールは、見通しはいいものの、繁盛しているようで、どこに誰がいるのかが全くわからない。入口に立ってキョロキョロと馴染みの顔を探していると、遠くでそれに気づいた常松が手を振っている。

「思ったよりも早かったじゃないですか」

席を取っておいてくれたのか、椅子に掛けてあったコートとバッグを荷物入れに移動しながら常松が言う。

「うん、昼の折り返しするの忘れてたらしくて、定時前にすみません~って申し訳なさそうに連絡してきたけど、別に明日でもいい内容だったから、一通り話聞いて、明日メールで返すことにした」

「それはよかったですねー」

と言いながら手を挙げて店員を呼びつつ、飲み放題のメニューを手渡してくれる。ビール専門のようで、いろんな国の銘柄が並んでいるが、よくわからない。

「ええと、生ビールください、グラスでお願いします」

脱いだジャケットを壁際のハンガーにかけながら注文する。周囲を見渡すと他部署の人がほとんどのようで、顔は知っているが話したことがない人ばかりだった。今月新しく入社したらしい人たちは3つ向こうのテーブルに固まっているようだ。あらためて席に着くと、もうビールが運ばれてきた。

「はいじゃあ、かんぱーい」

常松の声でそのテーブルに居た4人がグラスを鳴らした。外は今にも木枯らしが吹きそうな寒さだったが、店内は熱気に満ちている。

「奈須さんも来ればよかったのに。でも今日木曜だからフットサルかもですね。あ、仙川さん、この子たち知らないんでしたっけ?」

そう言って向かいに座る2人を常松が紹介してくれる。

「いや、顔と名前くらいは知ってるけど、常松の同期だよね?」

「はい、そうです」

とにこやかに頷いている1人は経理の寺脇さん、もう1人は営業の門前さん、どちらも女性だ。すると隣のテーブルに居た顔見知りの同僚たちが、あれ? そこ女子会? などと茶化してくる。

「いいなあ~、俺も女子会混ざりてえ~」

「宮口さんはどうみても女子にはみえないっすよ~」

「そうか~、俺も仙川さんみたいに色白で細けりゃよかったな~」

それを聞いて常松が

「うわ~、なんかうっざ……」

と誰に向けるわけでもなくつぶやいた。僕もため息が出そうになったが、ビールで流し込んだ。

「気にせず食べましょ、あ、煮こんだお肉すごいやわらかくておいしいですよ」

寺脇さんが肉を取り分けてくれる。ビーフシチューのような見た目だ。

「煮込んだお肉?」

「だってメニューにそれしか書いてないんですよ、ほら、特製煮込みって、雑ですね」

メニューを指しながら常松が言う。

「私も食べましたけど、肉なのは間違いないです、たぶん、牛?」

ジョッキを空にした門前さんが言うと、いや、豚じゃない? いやなんか臭みがあったから羊じゃない? と3人で言っている。おかわりを頼もうと店員さんを呼びとめて、門前さんのジョッキを指さしながら「どうする?」と聞くと、「ビールでお願いしゃす!」と返ってきた。注文を終えると、どうやら向こうのテーブルで中途入社の人たちの挨拶が始まったようで、いつの間にか移動している宮口さんがグラスをナイフで叩いて「注目~」などと言っている。

「いや、無理でしょこの距離。しかも宮口さん関係ないし」

「迷惑になってないかな? 他のお客さんに。ほら、店員さん来てる」

「うわ、注意されてんの? てか新しい人たちもかわいそうだよね、こんなシチュエーション」

容赦ない3人の指摘を聞きながら、近くに幹事がいないことを祈る。今日の主役たちは、こちらには聞こえない音量で手短に挨拶をして、気まずそうに座った。僕はぬるくなったビールを一口飲んで席を立った。

 さっき食べた煮込みの肉が歯に挟まったような気がしていて、トイレに行って鏡を確認すると気のせいだった。ほっとした。ついでに用を足して席に戻ると、僕の席に座っている男がいる。宮口さんだ。

「あ、仙川さん戻ってきた。ほら! 宮口さん仙川さん戻ってきましたから」

常松が宮口さんの肩を叩くと、振り向いた宮口さんが馬鹿にしたような顔で

「お、女子会終わったと思ったら違ったんだ」

と言うので、うんざりしてしまい、目を見ずに「ごゆっくり」と伝え、自分のグラスを持ってその場を離れた。

 気づいたら皆、あちこちで席を移動しているようで、空いている席はあるものの、知らない同僚に加わって交流できるほど酔ってもいなかった僕は、喫煙スペース脇の不人気そうなカウンターに腰かけた。窓の外が一望できるにもかかわらず誰もいないのは、わりと強くタバコの匂いが漂っているからだろう。気の抜けたビールを飲んでいると、斜め後ろから声がした。

「あれ、一人で飲んでるんですか?」

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