執事長はお見通し
やわらかな朝の
十二歳にしては、小柄で痩せぎすの少年だった。
おおきな瞳と、ひきむすんだ口元は、勝気そうな性格をあらわしている。
父親の事業が失敗し、頭をかかえるだけでうごかない両親を見限って、
食欲の無い両親とちがって、こちらは食べ盛りの少年だ。
丸二日、まともに食べておらず、空腹が限界だった。
なんでもやるから仕事を紹介してくれ、と受付に直談判していたら、うしろから老紳士に声をかけられた。
「きつくつらい仕事でも、投げださないと約束できるか?」
「もちろんです。ただ、しばらくは日払いにしてください」
「なぜ」
「家族が
アルデは、まっすぐに老紳士を見つめた。
その目を見返して、老紳士は口を開く。
休日は週に一日のみ。
衣食住を保障するかわりに、給金は国に定められた最低賃金。
老紳士が出した条件に、アルデは二つ返事でうなずいた。
老紳士を
発見が早く、幸いなことに両親は命をとりとめた。
アルデの細い両肩に、家の借金と両親の治療費がのしかかった。
大金すぎて
冬の空は、ぶあつい雲におおわれ、一筋の光も見いだすことはできなかった。
アルデは、となりの老紳士に視線を転ずる。
病院にまでつきあってくれたのだから、多少のわがままは聞いてくれるかもしれない。
「仕事って、今日からもらえるんですか」
日払いなら、三日ぶりにまともな食事にありつける。
そんな目先のことしか考えずに発言しただけであったが、なにをどう勘違いしたのか、老紳士は目を大きく見開いて、アルデをきつく抱きしめた。
連れられ、やってきたのは、
説明されるまで
あたえられた仕事は、庭師見習い。
「ここは、城ですか?」
おもわず口にしたアルデを見て、老紳士――
「初めて見た人間は、皆おなじ反応をするものだ」
目じりにわらいジワをつくり、ロベルトは誇らしげにアルデに告げる。
「おぼえておきなさい、アルデ。ここは国内三大公爵家の
それから半年の月日がながれ、アルデは今日も、庭師見習いとして雑用をこなしている。
アルデの十歳の誕生日に、両親がプレゼントしてくれたものだ。
両親との思い出の宝物――と言えればよかったが、実際のところは、いつでも時刻が確認できて便利だな、ぐらいにしか思っていない。
思い出にひたるには、年月も
それよりも、朝食を逃すわけにはいかないと、アルデはあわててあとかたづけに取りかかった。
とつじょ、高い水音がひびき、アルデは振りかえる。
背後にあるのは、背丈ほどの
そのむこうに
断続的に聞こえる、もがくような激しい水音に、使用人の誰かが足をすべらせたと当たりをつける。
アルデの視界が湖をとらえると同時に、黒い
苦しそうにむせて、水を吐きだす。
胸をおおきく上下させながら、足をなげだすように地面にすわりこんだ。
口をぬぐい、濡れた
「だいじょうぶですか?」
アルデの声に、青年がこちらをむいた。
警戒するように、動きに
朝日をうけて、したたる水滴が飾りのようにきらめく。
しなやかでうつくしい獣のようだ、とアルデはうっすら思った。
アルデは立ちつくしたまま、青年を観察する。
かっちりとした漆黒の服は、軍服のように見える。
腰に
白銀の
青年の涼やかな
「騎士様ですか?」
「庭師か」
同時に発せられた質問に、アルデはそつなく返答する。
「はい、まだ見習いですが。ここは主人が所有する湖でして、泳ぐ許可はとっていますか?」
彼はどうみても使用人ではない。
ここで騒がれたとしても、ほかの使用人が駆けつけてくるだろうとの算段だった。
雰囲気がやわらぐと、おもっていたより若いことに気づいた。
なにがおもしろいのか、クツクツと笑って、
「
「そうですか」
それが本物か
アルデは、納得したふりをした。
それよりも、紙なのに
珠のような水滴が表面をすべりおちたかと思うと、ぬれたようすが見受けられない。
紙も上質そうだから、仮にだまされていたとしても、十二歳の少年ならば仕方ないと思ってもらえるだろう。
アルデは、そう結論づける。
「それより、風呂を借りたい」
「風呂、ですか」
「ああ。屋敷の主人への挨拶に、この格好じゃ失礼だろ?」
そういうと、青年はさっさと歩きだした。
迷いのない足取りは、まっすぐに別邸に向かっている。
アルデは、あわてて彼の後を追う。
青年が別邸の扉に手をかけたとき、いきなり背後から声をかけられた。
「おかえりなさいませ、ギルバート様」
聞き覚えのある、おちついた深い声音に、アルデはギクリとする。
目の前の青年、ギルバートの背中も、こわばった。
「
そろり、とギルバートが後ろをふりむく。
同時にふりむいたアルデが見たのは、それはそれはにこやかな微笑みを浮かべた、執事長ロベルトの、洗練された立ち姿だった。
ロベルトとギルバートが対峙するのを見ながら、アルデは冷や汗をかく。
ギルバートというのは、己が
つまり、庭師見習いごときが、軽々しく口をきいていい相手ではない。
「散歩をしていたら湖に落ちたから、風呂を借りに来ただけだ」
「なぜ別邸に?」
「近かったからだ」
「そうでしたか。私はてっきり、緊急時以外は使用しないとお約束いただいていた
「はい!」
きゅうに名を呼ばれたアルデが、反射的に返事をする。
「おまえが見たことを、すべて話しなさい」
左右どちらからも鋭い視線が飛んできた。
どちらも敵に回したくない一心で、高速で頭を回転させる。
「湖の方角から水音が聞こえたので、かけつけると、ギルバート様がいらっしゃいました。以上です」
考えうる
これ以上は巻きこまないでくれ、という意思表示だった。
「ご苦労。さがりなさい」
「はい。しつれいします」
やっと解放され、アルデは別邸に逃げるようすべりこむ。
つめていた息を吐くと、朝食のにおいに腹の虫がさわぎだした。
したたるような額の汗をぬぐって、食堂へと向かう。
そのとちゅうで、もういちど、おおきな
アルデが去り、ギルバートはロベルトに向き直る。
「
「そうですな」
ロベルトは、ひとまず、うなずいてみせる。
「
「そうしよう。――脱ぐから受けとれ」
水がしたたる団長服は、重くて動きにくい。
ぬれて外しにくい金ボタン無視して、漆黒の長衣を頭から脱いだ。
ギルバートは、猫のように頭を振って、水気をとばす。
その動作に、ロベルトが眉をひそめた。
「ギルバート様。お行儀が」
「大目に見ろ。剣もたのむ」
ギルバートは、
長衣と飾剣を受け取ったロベルトは、きらめく
「せっかくの褒章が、みずびたしです」
「クソジジィの手あかが落ちて、きれいになっただろ?」
ギルバートが言う「クソジジィ」とは、国王の隠語だ。
ロベルトは、その単語だけは、いつも聞かなかったことにしている。
なぜなら、いちいち訂正していると、話が進まないからだ。
本邸へむかう彼に、ロベルトが問いかける。
「昨晩の
「どうもこうも。クソジジィは、魔人が命令に従った数を読みあげ、ご満悦だ」
膨大な魔力を有するギルバートは、
毎年増える褒章に、そろそろ団長服が重くなってきた。
「毎度毎度、褒章を押しつけやがって。他国に
ギルバートが、げんなりとぼやく。
「ご立派にやりとげられ、旦那様もお喜びです」
「それだよ。おまえ、アンジェリカに手紙を書かせたな」
「書かせるなど。お優しいアンジェリカ様の、お気持ちではございませんか」
「お優しい俺の妹は、周囲の望むことを叶えようとする、実行力のある天使なんだよ」
「おや。うれしくありませんでしたか?」
ギルバートが足を止める。
怒気をふくんだ碧眼が、するどくロベルトをにらむ。
「そういう問題じゃない。これ以上、アンジェリカを政治的な駒としてあつかうようなら、こちらにも考えがあるということだ」
「さようでございますか」
まったく顔色を変えずに、あいづちを打つロベルトに、ギルバートが嘲笑を返す。
ロベルトとの距離をつめ、彼の耳元でささやいた。
「おまえの大事な旦那様が、二度とお喜びになれなくなってからでは、遅いだろ? なあ、ロベルト」
「今朝は、ずいぶんとご機嫌ななめですな」
ロベルトが、やれやれといった具合で、ため息をつく。
「食事も睡眠も不十分なまま、転移魔術を使用なさるから、湖に落下するのですよ」
「おまえになにがわかる!」
「そうですね。私にわかることといえば、むかしから坊ちゃんは、眠いときと魔術が失敗したときは、不機嫌きわまりない、ということだけでございます」
ギルバートが、グッと言葉につまる。
そんなギルバートを、ロベルトはまっすぐ見つめる。
「転移魔術を使うなとは言いません。ですが、疲労や寝不足など、集中力が低い状態で、高難度の術式を展開することの危険性を、いまいちどお考えください」
ロベルトの真摯な言葉に、ギルバートは口を閉ざす。
しばらくして、彼は深いためいきをついた。
「……わかったよ。だから、坊ちゃんと呼ぶな」
「もういちど、お約束いただけますか?」
「存外しつこいな、おまえ」
自分の暴挙を棚にあげ、ギルバートが口を滑らせる。
ロベルトが、執事の鏡のように微笑んだ。
「坊ちゃんが、私とのお約束を破るからでございます」
「おい、だから坊ちゃんはやめろと――」
「しかしながら、よくかんがえてみると、坊ちゃんがお
「わかった、わかった!」
降参するように、ギルバートが両手を上げる。
「つかれたときは、転移魔術を使用しないと、剣に誓う。これでいいだろ?」
「アンジェリカ様に誓いますか?」
「う゛……ち、誓う」
「声が小さいですが、まあよろしいでしょう。ではギルバート様。浴室へお急ぎください。アンジェリカ様を、お待たせしないように」
「ああ」
表情が明るくなったギルバートに、ロベルトは満足そうにうなずく。
本来ならば、執事長であっても、主人のご令息にこのような態度をとることは許されない。
しかし、主人どころかその奥方からも、彼の生存率が上がるならば積極的に
親にとって、子供はいくつになってもかわいいもの。
つねに危険ととなりあわせの息子を案じる親心に、ロベルトは賛同の意をしめしている。
すでに成人し、りっぱに竜騎士団長としての責務を全うしているのは、重々承知のうえ。
それでもロベルトは、幼いころより見守ってきたギルバートのことを、結局のところ、どうしても孫のようにかわいく思ってしまうのであった。
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