第475話 2022年5月6日 俳優の死 縊死

 昨日は暑かった。

 今朝も陽射しがある。朝方は涼しいと感じるけど日中は25℃を超えるそうだ。そして明日は雨で基音が下がる予報。気温差が大きいと身体はしんどい。

 昨日は色々な事情が重なって3歳の男の子を預かることになってしまった。朝8時から夕方4時まで8時間。子どもは生命力の塊みたい。あっちへ行け、これをしろ、これは嫌だ、あれをしたいと色んなことを思いつく。怪我させちゃ大変なのでくっついて歩くだけでもへとへと。男の子が帰った後茫然、ぐったり。シャワー浴びて、ビール500ml飲んで寝ました。いやあ疲れた。詳細は書く機会があったら書きます。

 昨日男の子について歩き回ったり、公園の遊具に一緒に昇ったり、抱っこして電車乗ったり、色んな動作をしたせいか、今朝は比較的身体の重怠さは薄い。普段動かさないところを動かしたことが良かったような気がする。ここのところ体操したりしてたけど、なるほどこういう動きはしていないなあと感じることが多かった。今後の体操に取り入れてみよう。

 俳優が死んだ。縊死だそうだ。

 人間が死に至る経緯、原因はそれこそ千差万別、複雑微妙だと思っている。どうして死んでしまったのか、本当のところは他人にはわかることはない。本人だってはっきりしないということだってあるんじゃないだろうか。

 俳優は66歳。私は62歳だから、ほぼ変わらない。

 色々なことがふと重なり合ってしまった瞬間に死が訪れる、死を選んでしまう、そういうことはあるだろうと実感として思う。

 そのことは社会的に見て幸福だとか、問題はないなんてこととは全く関係ない。その瞬間その空間に突然死の世界が入り口を開く。そしてすっと足を踏み入れる。これは別に不思議でも何でもない。いつでも誰にでもあることじゃないだろうか。

 生と死の境界はかっちりとしたものではない、そう思う。生きているこのすぐ隣に死はぴたりと密接して存在している。そして何かが重なり合った時、すっと死の世界に入ってしまう。そんな気がする。

 私は積極的に死にたいとは思わないが、死がいつ来てもそれはどうしようもないことなのでその流れに身を任せようと思っている。

 生きている意味だとか、社会参加だとか、そういうことに関心は無い。正直これまで七転八倒して泥水の中を藻掻いてきて脳梗塞にもなった(ハイストレスと過重労働です)ので人間社会と接触する気にはならない。この先どうなるかはわからないけど。

 いつどういうふうに死ぬのかわからないけど、死ぬときはただ死ねばいい。そう思っている。ひとつ嫌だなと思うのは、寝たきりとか惚けるとかだ。健康寿命って男の場合72歳だという。とするとあと10年。10年も長いなあと思うけど、健康を失って介助を受けながら生きていくのは正直避けたいなあと思う。

 話をちょっと戻すけど「社会参加」「生き甲斐」「生きる意味」なんてことを能天気に言いふらしてる輩がいるけど、余計なお世話だし、そういうものを持たなきゃいけないなんて言うことが圧力になり、ストレスになって具合が悪くなってしまう人間も結構いるんじゃなかろうか?

 生死は人間が扱うことができる問題なんだろうか?はてさて。

 今朝も血圧が高い。124、89。脳梗塞をやった身としては嫌な数値だ。生きるって大変です。

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