夏・第8話 ゆしかは真心に恋をする④空気を読んだ上で、そこに乗るのかぶち壊すのかは、ちゃんと決められる人間でいたい

 リュックを席へ置いたまま、ゆしかは男を伴って店の外へ出、ひと気のない路地に誘い込む。


「わたしはねえ、今日、とても機嫌がよかったんだよ。自分でも驚くくらい」

「だから?」


 男の目には余裕が浮かんでいた。自分のほうが優位に立っている、と確信する目だった。


「それを壊されて怒ってるの? ハハ、それ言ったらこの前の俺がそうだから。せっかく楽しくみんなで盛り上がろうってときに、滅茶苦茶にしてくれたのは誰だっけ?」

「てめーだろ」


 ゆしかは男まで三歩、というくらいの距離感で、足を肩幅と同じくらいに開く。


「ああ?」男が半眼になった。

「学校でさ、誰かをイジメの対象にしといて……それに乗らない奴を差して『あいつ、空気読めねーよなー』とかって言う奴いなかった? あんたが今言ったのは、そういうことだよ」

「ハア? 意味解んねーんだけど」

「空気は読めるにこしたことはないよね。そう思うよ。だけど、読んだ上で、そこに乗るのかぶち壊すのかは、ちゃんと決められる人間でいたい」

「うぜーんだけど。いいから土下座してよ、ゆしかちゃん。でさ」


 男の言葉の途中で、ゆしかは地面を蹴った。


「やんの?」


 薄ら笑いに向けて、踏み込んで左の拳を放つ。

 顎が弾ける……と想像していたのに、男は軽く上体を反らした。あれ、と目を見開いた次の瞬間、腹に衝撃があった。よろけながら後ずさる。


「悪い。俺、喧嘩慣れしてんだわ。よく意外に思われるんだけど」


 言って、長い手が伸びる。平手がゆしかの頬をしこたま打つ。

 しかし、一切怯まない。

 その勢いでゆしかは身体を回転させて腰を落とし、前へ出てきた男の足首を正確に蹴る。


「おわっ」


 躓いたような姿勢になった男の顎目がけ、ゆしかは下から真上に掌底を打つ。足で地面を蹴りながら、全身のバネを使って掌へ力を集中させた一撃だった。

 手応えがあり、男の身体が制御を失って地面に落ちる。

 ゆしかは盛大に咳き込んだ。腹を殴られた時点から、動き続けるために呼吸を止めていた。


「……お、お前、なんなんだ」


 男がうつぶせのまま言った。しばらくは脳が揺れ、まともに焦点が合わないだろう。


「もう、二度と……わたしの前に現れんな」


 咳を挟みながら言った。


「わたしは、性別とか見た目で上から目線になる奴が大嫌いだ」


 欲しくてしょうがなかった新品の真っ白なシャツに、人糞を塗りたくられたような気分だった。殴られたこととは関係なく、気を抜いたら、泣いてしまいそうだった。


「鹿さん……!?」


 そこに声が届いた。今日初めて聞いたのに、既にゆしかにはそれが誰の声か解るようになっている。短い間に、とてつもない密度で聞いていたから。

 顔を上げると、予想どおりTHさんが立っていた。ゆしかは胸が締め付けられ、顔を歪める。

THさんの目は、驚きと、ショックを受けたような感情に見開かれていた。


「席に戻ったらいないし、なかなか帰ってこないから、なにかあったんじゃないかと思って」


(見られた)


 背筋に冷たいものを押しつけられたような震えが走る。


(……やだ)


 遅れて自分の置かれた状況を……THさんが失望し、軽蔑し、ドン引きするのに十分なことをしてしまったことを理解する。

 やだ、という感情で頭が埋め尽くされ、ゆしかはTHさんと逆の方向へ駆け出す。

 その場から立ち去れば、ここでの出来事がなかったことになるとでもいうように、全力で大通りに出て、人混みを縫って全力で逃げ出した。



 しかし僅か数分後、ゆしかはTHさんに捕まる。


 大分その場から離れた後、誰も追ってきていないことを確認したゆしかは肩を落として歩いた。そこで初めて、リュックをカフェに置いてきたことに気付く。

 来た道を辿らず、大回りで戻り、席に誰もいないことを確認し、リュックを持って店を出た。


 そこで後ろから腕を掴まれた。とっさに空いていた手で相手の手首を捻り上げる。


「痛っ、痛い痛い痛ぁいっ!」叫びながらも腕は離れない。

「THさん……?」


 ゆしかは呆然として、捻るのをやめた。


「に、荷物を取りに来ると思ったんだ。店を出るときが一番いいかなって、待ってた」


 THさんはそう言って、悪い目つきのままだったがはっきりと笑ってみせた。

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