Mystia -マイスティア-
霧夜まうき
前日譚 -Ricordanza-
primo: Episode 1
1
塵や埃――そう、例えるならそんな取るに足らない粗末なモノ。
存在に意味などなく、限られた時間の中には輝くような未来も願いも救いもない。
二十年の歳月にも満たない自分の半生は所詮その程度で、せめて誰の迷惑にもならないようにと凡常に見せかけた皮を被り、気を抜けば悲鳴を上げてしまいそうな声を押し殺し、そしてきっと、人知れず静かに朽ちていくのだろう。
色彩のないセカイを生きていた。
それが自然の道理なのだと理解していた。
そんな自分が光を見たのは、最期の間際のことだった。
まだ小さく心許ない――でも、とても眩しく見えた、そんな光だった。
それは、何も持たない自分が残すことのできた、唯一の希望になったのだ。
ざぁ、と。
吹き抜ける爽やかな風が草木を撫でては空へと還る。
そこに都会の喧噪はなく、穏やかな陽の光が照らす豊かな自然の新緑が、視界一面を鮮やかに満たしている。
整備が行き届いているとは言い難い、寂れたレンガ造りの街道の先にあるのは、とある大きな国の小さな領地。
その村に名前はなく、住む者も多くはない。
人々が寄り添い助け合いながらささやかな幸せと安寧の日常を紡ぐ、そんなどこにでもある普遍的な村だった。
その
少女が村に赴くのは初めてではなかった。
顔馴染みと呼ばれるようになるには些か物足りない頻度であった。が、そんなことは小事であると言わんばかりに、村人は皆そろって少女の来訪の度に歓迎の宴を開いた。
最初に訪れた日、今からおおよそ一年ほど前のその日、たまたま魔物――と呼ばれる異形の獣に襲われていた村の少年を助けたのが始まりだった。
少女は傭兵だった。
年頃の女性にしては逞しい体躯に見合う長剣を携え、主に魔物の討伐を生業としていた。
女の身でありながら腕は確かであると同業の間でも名が高い。
そんな少女を手厚く迎え入れる村人達の姿は純粋な感謝の気持ちの表れか、それとも村を守る手数を増やしたいが為の下心か――。
そんな無粋なことを考えながら、少女は視線の先にある村を目指した。
「アレル!」
少女の姿を見つけるやいなや、村人の一人が少女の名を呼んだ。
声の主を確認して、少女――アレルは口元を緩める。
「久しぶりだねぇアレル、今日はどうしたんだい?」
「たまたま近くに来たから寄ってみようかなって思ってさ」
アレルを呼んだのは以前助けた少年の母親だった。
村の中で小さな酒場を営んでおり、アレルは彼女のことを親しみを込めて女将と呼んでいる。
「女将こそ店ほっぽってどうしたのさ。昼の営業は止めたのか?」
「まさか。ただちょっとね、トラブルが――」
言いかけて、女将は言葉を止めた。ハッとした面持ちでアレルを見つめ、その表情は次第に笑みを帯びていく。
何か妙案を思いついたかのような含みのある女将の顔に、アレルは咄嗟に身構えた。
面倒な事に巻き込まれそうだ――。
そういった
「アレル、ちょっと頼まれてくれないかい? そんな大げさなことじゃないんだけどね」
勿論お代は払うからさ、と女将が言う。
「と言っても金に余裕はないんだが……そうだ、今晩の宿と飯でどうだい?」
「用件によるかな。あたしに出来ることならやっても構わないけど」
「ああ、あれだよ。いつものやつ、と言えば分かるだろう? はい、これ持っていきな」
ぐい、と強引に押しつけられた――もとい、手渡された《もの》。軽い金属製のそれを見て、アレルは女将の言わんとすることを理解した。
「あの子たち、私の言うことなんか聞きやしないんだけどねぇ、お前さんの言うことは何でか素直に聞くのさ。丁度いいところに来てくれたついでにさ、思いっきりでいいから一発かましてやっておくれよ」
「またかぁ。あいつら全然懲りないな」
若干の面倒臭さを感じはするものの特に断る理由もなく。報酬に惹かれたわけでもないが、いつものように何もせずにもてなされるよりは一仕事したほうが幾分気が楽である。
「私は店に戻るから、片が付いたら来ておくれよ」
「はいよ」
受け取った《もの》はこのトラブルが起こる度に活躍しており、長年に亘り使い古されているようだった。表面が不自然なほど歪んでおり、本来の目的である使い方をされた様子は微塵もない。
こいつもさぞかし不本意だろうなぁ、などとつい無機物に対して同情してしまう程度には傷だらけの悲惨な姿になっていた。
これも平和の証しなのだろうか――。
そんなことを思いながら、アレルは騒めく村の中心へと渋々歩き出した。
*
お世辞でも広いとは言い難い村の中での騒ぎだったが故に、目的のものはすぐに見つかった。
「てめぇいい加減にしろよ!」
そんな怒声が響く広場は、いつもなら子ども達が仲良く遊ぶ微笑ましい姿が見られる憩いの場なのだが、今日は少し様子が違う。それでも周囲の村人はよくある光景だと言わんばかりに、ある者は呆れたようにため息をつき、ある者は和やかにその騒動を見守っていた。
「またあいつらか」
「仲が良い証拠だわ」
「放っておけばそのうち静かになるだろう」
そんな大人達の楽観的な会話を聞いて、アレルは軽く眩暈を覚える。
そうして放任しながらも後始末は訪れたばかりの部外者に押しつけるのだ、なんて無責任な大人達なのだろうか。
「いっつも妹のこといじめやがって……今日こそ絶対許さないからな!」
「人聞きの悪いことを言うんじゃねえ! 俺様のものをどうしようが俺様の勝手だろうが!」
広場では二人の少年が対峙していた。
年頃は十歳そこそこ。
一方は幼い少女を背に庇いながら拳を怒りで震わせ、もう一方の少年は余裕を見せたいやらしい笑みを浮かべている。
「ロジェお兄ちゃん……」
少年――ロジェの背に隠れながら、少女が縋るようにぎゅっとロジェの服の袖を掴む。
潤んだ瞳からは今にも
「待ってろな、シェンナ。兄ちゃんがすぐに取り返してやっからな」
ぽんぽん、とロジェが安心させようと妹の頭を撫でた。
そんな兄妹のやり取りを、もう一方の少年は面白くなさそうな面持ちで見ていた。
手元にはひとつのぬいぐるみ。
愛らしい動物を模したそれは少年の趣味とは言い難く、誰の目から見ても少年の所有物ではないと分かるものであった。
遠目から様子を窺うアレルも理解する。
少年はいわゆる、いじめっ子であった。
アレルが村を訪れる度に、この少年とロジェはよく喧嘩をしていた。
大人達の話によれば、喧嘩をするようになったのはつい最近のことのようだ。
それまでの二人は同じ年頃であったが故にとても仲が良く、ロジェの妹であるシェンナとともに、三人は幼なじみとして仲睦まじく育った。
少年が兄妹から距離を取り始めたのは突然の事だった。
少年は兄妹にとって兄貴分のような存在であり、シェンナにとってはもう一人の兄同然であった。
少年の急変に兄妹は当然戸惑う。
いつものように遊んで欲しいと少年の後を追うシェンナに対して、少年はいつからか避けるのを止め、攻撃的に接するようになった。
直接手を上げるわけではないが、今回のようにぬいぐるみを無理矢理に奪い取るような、そんな稚拙な攻撃だ。
最初は困惑で何も出来なかったロジェも、妹を泣かせられては黙っているわけにはいかなくなる。
こうして兄妹と少年の間に大きな亀裂が生まれたのだが、深刻な当人達を尻目に周りの大人達は至って楽観的である。
「そういう年頃なのよ」
とは誰の言葉だったか――。
「返せ!」
「嫌だね」
そんな稚拙な言葉の応酬を聞きながら、アレルはしばらくの間静観していた。
そろそろ止めに入るかと思ったのは、ロジェの理性が限界を迎え、拳の震えが一層強まった時だった。
少年達が拳を振り上げる。
お互いに殴りかかろうとしたその寸前で、思わぬ邪魔が入った。
「はい、ストップ」
その声と同時に、少年達の目の前に金属製の板が現れた。
突然のことに驚くも拳の勢いを止めることが出来ず、勢いよく板を殴りつけてしまった。
当然ながら、とても痛い。
「「――――っ!?」」
声にならない叫びとともに膝を折る少年達の姿を見下ろして、アレルがため息をついた。
金属製の板――もとい、配膳用のトレイにはまた新しいヘコみが出来ていた。こうしていつも子どもたちの喧嘩を止める役割を負っていたのがこのトレイである。
「あ、アレル!? なんでここに!」
ロジェが声を上げた。
同時に少年が、ひぃ、と呻いた。
まるでお化けや怪物の
「来てたんだな! 久しぶりだな!」
怯えた様子の少年とは対照的に、ロジェが満面に喜悦の色を浮かべる。
まるで飼い主を見つけた犬のような喜びようだ。
「ああ、久しぶりだな。さて――」
言うやいなや、アレルは手に持ったトレイを頭上にかざすと、すかさず少年二人の頭めがけて振り下ろした。
軽く、ではあるが小気味よい音が鳴り響き、少年達は再び悶絶する。
「いってぇ! 何すんだよ!」
「許せって。お前の母ちゃんに頼まれただけなんだから」
そう、アレルが女将から受けた依頼とは、喧嘩の仲裁、そしてついでに一発殴っておいて欲しい、というものである。
直接殴れと言われたわけではないが、手渡されたトレイが暗黙の了解の証しだった。
「ばっかやろぉ! 頭は卑怯だ! 暴力反対!」
「キレて殴りかかろうとしてた奴に言われたかないなぁ」
涙目で抗議するロジェをアレルが一蹴する。
「前にも言ったよな、女の子の前で喧嘩するなって。みっともないったらありゃしない」
シェンナは兄の背からいつの間にかアレルの傍らに移動していた。
すっかり怯えた様子でアレルの腕にしがみついている。
「わ、
ロジェが狼狽する。頭に血が上ると周りが見えなくなるのは悪い癖だが、基本的には妹想いの優しい少年である。素直に謝れるところも長所だ。
対して――。
「くっそ、覚えてやがれ!」
そんなありきたりな捨て台詞を残して、もう一方の少年が逃げ出した。宙に放り投げられたぬいぐるみはアレルが地に落ちる寸前につかみ取る。
「ほら、もう取られるなよ」
「うん、ありがとう!」
ようやく笑顔を取り戻した妹に、ロジェもほっと安堵する。そして少年が走り去っていった方へと視線を移し、疲労混じりのため息をついた。
「……あいつ前はあんなんじゃなかったのに」
ぽつりと、寂しげに呟く。
「なんなんだろな。おれなんか嫌われるようなことしたんかな」
「……いや、たぶん――」
そういう年頃なのだ、と村の大人と同じことをアレルも思う。誰しも通る道であり、だからこそ大人達も過剰な干渉を避ける姿勢をとっているのだろう。明確な原因など存在せず、強いて言うならば少年自身の問題だ。
いわゆる、思春期というやつである。
「あとであたしからも注意しておくから、今日のところは許してやってよ。シェンナも」
少年に対する失望がよっぽどなのか、シェンナの面持ちはどこか不満そうだった。
どんな理由があろうとも、この少女は被害者であり、何をどう説明したとしても今この時点で納得させることは難しいだろう。
いつかきっと、分かり合えるときがくる。
それは確信ではなくそうであって欲しいという願いに過ぎなかったが、アレルにはそう思うことしか出来なかった。
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