第54話 『島』
月の無い闇の中を飛ぶ。闇は深く星すら見えない。
懸命に羽ばたいても羽ばたいても。こんな闇の中では進んでいるのか戻っているのか定かではない。
そもそも、どうして飛んでいるのか解らない。もがいてもがいて、どこに向かっているのか解らない。
とっくに意味は消失して、羽は千切れそうなほどに痛んで。
──俺はなぜ、飛んでいる?
解らない。解らない。考えることすら億劫で。
──もう飛ぶことを止めたって良いじゃないか。誰かが耳元で
──だって、ほら。お前の左羽は、もう。
「……あああああぁぁ……!!」
そうだ。俺の羽は切り落とされてしまった。だから、もう。飛べない。空を飛ぶことは出来ない。
墜ちていく。真っ暗闇の空をどこまでもどこまでも。もがいてもがいて。
レーキは叫び声を上げながら、ベッドの上で目を覚ました。
「……」
嫌な汗が額に染み出している。それを拭って、荒くなった呼吸を整えた。
どれだけ眠っていたのだろう。今は昼なのか夜なのか。カーテンを締め切った部屋の中は暗かった。
レーキはベッドから起き上がって、『光球』を灯すとカーテンを開くために窓に向かった。
一度食事をした時よりも、足元はしっかりしている。眠っていたことで足が萎えた様子もないようだ。
体の痛みはほとんど無い。背中の羽もわずかに
カーテンを開いて、窓の外を眺める。空は暗く、瞬く星がちらちらと見えている。代わりに、眼下には街の灯りが
街が随分と低く見える。ここは海と反対側に見えていた大きな建物の一つなのか。
両開きの窓を開く。涼しい風が部屋の中に吹き込んで、部屋の
不思議と気持ちは
──違う。本当は悔しくて苦しくて恨めしい。こうなる原因を作ったラファ=ババールを、奴隷屋の奴らを許すことは出来ないし、怒りのたけを思い切り吐き出したい。
負の感情はぐるぐると腹の
レーキは腰高の窓枠に拳を打ちつけた。それから、声もなく泣き崩れた。
扉をノックする音が遠く聞こえる。
レーキはぼんやりと頭を巡らす。つけたはずの『光球』は消えている。泣き出してから、どれほど時間が過ぎたのか。すでに涙は止まっていた。夜風が、頬にこぼれた雫も乾かしてしまった。
「……はい」
レーキは静かに答えた。怒りが渦巻いていた胸中は、泣き出したことで、一時麻痺してしまったようだ。レーキは立ち上がり、扉に向かった。
「……ねえ。具合はどうかな?」
扉を開けるとそこに立っていたのは、ロウソク立てを手にした、イリスと名乗った青年だった。イリスは出会った時と同じように、身を屈めて柔らかくレーキに微笑みかけてくる。
「痛みはほとんど無くなりました。……その……助けていただいて、有り難うございました」
レーキは目を伏せて、丁重に礼を言う。
「良かった。あちこちひどい怪我だったってシーモスが言ってたから……心配だったんだ」
イリスは、心底から嬉しそうな顔で笑った。
「あのね、これ。奴隷屋さんから届いたの。君の大切な物でしょう?」
イリスが差し出してきたのは、見覚えのある眼帯だった。ズィルバーが贈ってくれた、革製の眼帯。それは盗賊団にいた頃、剣士のカイがくれた眼帯に似せて作られた、見間違いようのない形だった。
「はい。とても大切な物なんです。……有り難うございます」
イリスから眼帯を受け取って、レーキはそれを慣れた手つきで身につけた。
──今度は無くさない。絶対に。
レーキは決意する。
「うん。良かった。それ、とても汚れていたから、洗わせて貰ったの。ごめんね」
「いえ、わざわざ有り難うございました」
「それから……君が着ていた物だけど、汚れていたし、あちこち破けていたから洗って繕っておいたよ。そこのチェストにしまってあるから。君が首から
「?! あ、は、はい!」
言われてみれば、有るべきモノ、
「……それも君の大事なモノなの?」
イリスは小首をかしげて、尋ねてくる。レーキ「はい」と返した。
「そう。それならやっぱりシーモスに見せなくて良かった。彼はそう言う珍しいモノに目が無くてね。きっと君から取り上げようとするから。身につけておくならシーモスに見せちゃダメだよ」
「はい。隠しておきます」
レーキの返答に、ふふふ。とイリスは楽しげに微笑んだ。
イリスという青年、なんだか少しアガートに似ているような気がする。長身であるコトと黒髪であるコト、物腰の柔らかな所くらいではあるが。
そう思うと、レーキは安堵してわずかに口もとをゆるめた。
「……あの、お聞きしたいのです。ここはいったい『どこ』なのでしょうか?」
レーキは、ずっと気になっていた疑問を口にする。
「その前に、椅子にかけてもいいかな? こうやって屈む姿勢は結構つらいから」
「あ、はい。どうぞ、かけてください」
「ありがとう」
イリスはテーブルに灯りであるロウソク立てを置いて、椅子に腰掛けた。レーキはその向かいの椅子に腰を下ろす。
「それじゃあ始めるね。ここは『方舟』。中央地区の端。僕のお家……って言っても君には解らないね。『方舟』はね、元は『始めの島』と言ったの。人間は昔ここから世界中に広がっていったんだよ。でもね、今は『ソトビト』には『呪われた島』とか『封印の島』なんて呼ばれてるみたいだね」
事も無げにイリスは口にする。『呪われた島』と。
かつて
「『呪われた島』?!」
「そう。人と魔のヒトの戦いが終わって、僕らはこの島に閉じこめられたの。もう随分昔のこと、だけど」
そう言って、イリスは悪戯をした子供のように笑う。レーキは無意識に身を引いた。では、魔のモノが封印された島に閉じこめられたとのたまうこの青年は。
「……あなたは、魔人?!」
「残念だけど、魔人じゃないの。僕は幻魔。そして、この角の色が魔のヒトである証し」
レーキには二つの違いが解らない。だが、この柔和な青年が幻魔? 人を食うと言う魔のモノ? だが彼はかつて師匠が話してくれた魔人の姿とは縁遠い気がする。
「……教えてください。魔人と幻魔とはいったいどんなモノなのですか? 人を食うと言うのは本当ですか?」
「うーん。簡単に分類するとね。魔人は幻魔が選んで力を与えた者。幻魔は魔のヒトの王様が選んで下さって力を与えられた者、かな。まあ、その他に自力で魔人になった者、もいるのだけれど」
イリスは胸元に手を当てて、何かを考え込むような仕草でそう告げる。
魔のモノに王がいると、師匠も言っていた。魔のモノには、魔のモノの秩序があるのだ。
今まで手厚くもてなしてくれたことを考えると、魔のモノの全てが人に敵対的ではないようだ。レーキは混乱する。
「それから……人を食べる、と言うのは本当。ただ僕やシーモスのように血や体液だけを嗜む人とか肉自体がないと食べた気がしない人とか好みはバラバラなんだ。まあ、少なくとも僕は君を殺して食べたりはしないから。安心していいよ」
無邪気に笑うイリスを前にして、レーキは戦慄する。イリスは自分を食べる気は無いというが、それが本心かどうかも解らない。彼が心変わりしたら。やはりレーキを食肉にしてしまうと決めたら。自分の立場はひどく危うい。
「それにね。『ソトビト』を直ぐに食べちゃう訳には行かないんだよ。僕らの法でそう決まっているから」
イリスの微笑みは優しげだったが、レーキは安堵することなど出来なかった。
「その、『ソトビト』と言うのは何者なのですか?」
「それはね。君みたいに『封印の結界』の外から来た人のことだよ。その結界はね、この島の周りを取り囲んで魔のヒトを外に出さないようにしているんだよ」
「では、この島にいる人々はみな、魔のモノなのですか?」
あの奴隷屋も道行く人々も全てが? だとするなら魔のモノの数はかなりの人数になるはずだ。
「ううん。ここにいるのが魔のヒトだけなら、食べるモノがないでしょう? それは困っちゃう。だからここにいる人たちの大部分は普通の人たちだよ」
「え……?」
ならば、なぜ人々は魔のモノの食料となる危険を冒してこの島に留まっているのか。レーキの疑問をイリスは笑って受け止めた。
「それはね。『封印の結界』の内側に魔のヒト以外の人間を閉じ込めるための結界が張ってあるからだよ」
淡々とイリスは説明を続ける。
「魔のヒトたちがこの島に封印された時、この島には一万人以上の普通の人たちがいたの。『封印の結界』は魔のヒトだけを閉じ込める結界だったから、普通の人たちは島から逃れることができた。だから僕たちは結界の内側に別の結界を作ったの。まあ、この島は空に浮かんでるから実際に逃れたのは空を飛べる鳥人くらいだったけど」
それで、この島では鳥人が珍しいというのか。
そんな事はどうでもいい。イリスは言った。この島が空に浮かんでいると。
「空に浮かぶ、島?」
「そう。ここが『始めの島』だってことはさっき話したよね? 『始めの島』はね、魔の陣営が本拠地にするために周りの海少しと一緒に、魔法で空に浮かべて合ったんだ。空に浮かぶ島の話、君は聞いたこと、ない?」
かつて、授業でセクールスは言っていた。魔法は、大きな島一つを空に浮かべることが出来た、と。
「……あり、ます」
「ふふふ。この島はね、自由に空を飛ぶことができる。だからいつもは空を飛んでいるんだけど、たまに海水とお魚を補給するために海まで降りるんだ。多分君はその時紛れ込んだんだね。封印の結界も僕たちが張った結界も来るモノは
レーキは運が良かったのか、悪かったのか。
『呪われた島』のお陰で命は助かったが、羽を失い、こうして魔のモノに出会ってしまった。
情報を上手く整理しきれない。レーキはうつむいてぐったりと肩を落とした。
「……疲れちゃった、かな? 今日はここまでにしておこうか」
イリスはそう言って微笑むと、席を立った。
「時間も遅いしね。……ああ、チェストとクローゼットに入っているモノは自由に使っていいよ。君の服の他にも何着か入れておいたから」
「……有り難うございます」
「その代わり、と言うわけじゃないけど、明日からこの島の外のことをいろいろ教えてほしい。『ソトビト』にはそれを聞く決まりなんだ」
少なくとも外の知識を提供している間は、食料とされることはないのだろう。レーキはようやく警戒を緩めた。
「俺も、まだ聞きたいことが山積み、です」
「うん。何でも聞いてね。僕に解ることなら答えるから」
ここが、『呪われた島』だということは解った。イリスが幻魔であることも、自分が『ソトビト』と呼ばれる存在であることも。では『使徒』とは? 『方舟』とは?
解らないことはまだまだある。
イリスの笑みは一貫して優しげだ。それにほだされた訳ではないけれど。レーキは何度目かの礼を伝える。イリスは笑って応じると、部屋を出て行くために扉へ向かった。
「ふふふ。それじゃあ、おやすみなさい。レーキくん。あ、この部屋の外に出ても良いけど、お家からは出ないでね。君が『ソトビト』だと解ったら他の魔のヒトたちにさらわれちゃうかも知れないから」
「……解りました。気をつけます……あの……おやすみなさい」
一人部屋に取り残されたレーキは、当惑したまま椅子に座り続けた。
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