第49話 船員の休日

『海の女王号』には、船員用の個室など無い。基本的に、男も女も荷物が置かれていない船室に雑魚寝する。

 一等航海士ら幹部と、特別な客のための船室も、カーテンで区切られた大部屋だ。ただ船長だけは例外で、船尾には船長のための個室が用意されていた。

 ただし、その部屋は、海図や羅針盤らしんばんなどの法具ほうぐ、航海に必要不可欠な物、カネや宝石などの貴重品を管理するための大切な保管室でもあった。


 航海初日の夜。厨房の片付けと翌朝の仕込みを終えたレーキは、ルーに見送られて厨房を後にした。

 暗い船内の通路を進んで彼が連れてこられたのは、すでに何十人もの船員が思い思いに眠りこける船室の片隅だった。

「暖かい季節は大抵ここで寝るんだ。寒い季節は厨房のそばで寝ることもある。ほら、これ。君の毛布だよ。これをかけても良いし、床に敷いても良い」

 レーキを船室に案内してくれたのは、トマソだった。トマソはレーキに毛布を渡すと、スペースを探して、そこに小太りの体をねじ込んだ。

「朝は起床のラッパが鳴るからね。起きたら毛布を部屋の隅につんで、厨房に向かうんだ。明日はぼくが一緒に行くよ。じゃあね。おやすみ」

「ありがとうございます。おやすみなさい」

 出来るだけ睡眠時間を確保したいのか、トマソは伝達事項を言うだけ言って眼を閉じる。すぐに小さないびきが聞こえだして、トマソが眠ってしまったことが解った。

 レーキは眠っている人々を起こさぬように、そろそろと部屋の隅に向かった。

 船の壁は垂直ではない。船底に行くにしたがって丸みを帯び、甲板に行くにしたがって狭まって行く。荷を積む船底がもっとも大きく膨らんで、甲板はそれよりも面積が小さいのが一般的なグラナートの船だった。

 レーキたちが眠る船室は比較的上方で、厨房よりも甲板に近い。暖かな今の季節、火は落としているとはいえ、厨房のそばで眠ることはのぼせる危険があった。

 レーキは壁際に、どうにか横になれるだけのスペースを見つけると、そこに薄い毛布を敷いた。いざ横になると、手足を伸ばせるだけの余裕はない。背中を丸めて羽を引き寄せ縮こまり、眼を閉じる。

 ぎしっぎしっと、船の外装が軋む音が聞こえた。潮の臭いと船体を洗う波の音も感じる。ここはもう、壁一枚を隔てれば海だ。その事が少しだけ恐ろしい。

 レーキは固く眼を閉じて、眠ることだけを考えようとした。

 それなのに。憧れの船に乗っていると言う興奮が、船板一枚へだてて、そこに大海原が広がっていると言う事実が、彼を寝かせてくれなかった。

 寝返りを打つことも難しく、レーキはまんじりともしない夜を過ごした。


 明け方。

 とろとろと、眠りの海に沈もうとしていたレーキの耳に、よどんだ船室の空気を鋭く切り裂くラッパの音が飛び込んでくる。

 船員たちはそれを合図に次々と起きだして、自分の持ち場へと向かっていった。

 レーキも眠い目をこすりながら、どうにか起きあがった。毛布を片付けると、それはほんのり湿っている。船の外装の隙間から、波しぶきの欠片がにじんでくるのだ。

 ──どうりで、ここだけスペースが空いていた訳だ。レーキは肩を落として苦笑する。

「……あー。そんなとこで寝てたの」

 のそりと起き出してきたトマソは、驚いたように壁際を指差した。

「ここ、外は海だから、どうしても水がしみてきちゃうんだよね……ごめんね。言っておけば良かった……」

トマソは心底申し訳なさそうに、後輩に向かって頭を下げた。

「あ、いえ……どのみち寝付けなかったから、気にしないで下さい」

「そっか。ほんと、ごめんね……さあ、早く厨房に行かないと。厨房長に怒られちゃう」

 厨房長とはルーのことを指すのだろう。慌てて厨房に向かうトマソについて、船の中、入り組んだ細い通路をレーキは進んだ。


 朝の厨房にたどり着くと、すでにルーとフレーズが支度を始めていた。

「遅いわヨ! アンタたち!」

 ルーの叱責を聞きながら、朝食の準備に忙殺されたかと思えば、あっと言う間に昼が来た。

 船はすでに入港の準備を整えている。ここで果実酒ワインの樽を大量に積み込んで、次に船が港に入るのは二日後だ。

 樽の積み込みには、四刻(約四時間)ほどかかるという。その間に、ルーはレーキたちを伴って食料の買い出しに出かける。

 ルーはなかなかの目利きで、市場におもむくと、肉、魚、香辛料、野菜、果てはフルーツまで様々な食材を選んで配達の手配をすませた。

 それから、試してみたいヴァローナの食材を色々と買い込んで、レーキたちに荷物持ちをさせた。

 途中、市場で軽食を買い食いして、腹の虫をごまかす。

「さあ! 船に戻ったら新作の試作ヨ! それがアンタたちの今日のまかないになるのヨ! その荷物はアンタたちのお昼になるんだから、丁重に運んでちょうだいネ」

 それにしては、荷物の量がちと多いようだが。レーキとトマソは顔を見合わせたが、反論することも出来ずに、買い物をしてご機嫌なルーの後を追いかけた。


 夕食の一騒動がどうにか片づいて、ルーはレーキに告げる。

「今日もよく頑張ったじゃない。レーキちゃん。アナタ、明日は昼までお休みで良いわヨ」

「え……?」

 自分に何かミスがあったのだろうか? 慌てるレーキに、ルーはにっこりと笑いかけた。

「船員はネ、交代でお休みを取ることになってるのヨ。料理人は食事二回分の休みを取るの。だから明日のお昼は食べるだけでいいワ」

 聞けば、トマソとフレーズの二人も明日は休みだと言う。レーキは安堵して、ふと、何かに気がついた。

「あ……俺たちが休みなら、ルーさんは?」

「交代要員ってコト? ちゃあんといるわヨ。安心なさい」

「いえ、その……ルーさんはいつ、お休みするんですか?」

 昨日も、最後まで厨房に残っていたのはルーだった。朝だって、レーキたちより早く厨房に詰めていた。それが厨房長の仕事なのだとはいえ、ルーにだって休息は必要なはずだ。

「あら、レーキちゃん……優しいトコあるのネ。タイプじゃないけど、キュンと来ちゃうワ! ……大丈夫ヨ。アタシもそのうちちゃんと休みを取るもの。ただアタシはアンタたちよりたくさんお給金もらってるからネ。その分たくさん働くのヨ!」

 おどけてふんっと力こぶを作ったルーは、確かに頼もしい。「それにネ……」と彼は続けた。

「アタシはお料理が好きなの。好きで好きでたまらないの。この厨房でお料理するのはアタシの仕事でも有るケド、趣味でもあるのヨ!」

 そう断言したルーの表情は、とても楽しげだった。


 船室で、どうにか壁際以外のスペースを見つけてレーキは眠る。昨日の夜まんじりとも出来なかったせいか、今日の睡眠は速やかに訪れた。

 何か、海に関する夢を見たような気がした。だが、それは起床時間を知らせるラッパの音にかき消されてしまった。

 今日は夕食の支度まで自由時間だ。交代要員に感謝しつつ朝食をってから、レーキは甲板に登った。

 船は今、見渡す限り大海原を進んでいる。三本のマストに渡された帆は、全てに風をはらんでいた。

 甲板では、幾人もの船員が忙しそうに働いている。

 中にはレーキと同じように非番の者もいるようで。甲板の上で体をほぐす者、カードゲームに興じる者、雑談に花を咲かす者、昼間から酒をたしなむ者までいた。

 甲板に立っていると、潮のうねりが船を揺さぶって、海の香りを含んだ風が髪と羽とをはためかせる。

 空は快晴。絶好の航海日和だ。

「……あ、レーキだ! おはよー!」

 聞き慣れた声が、空を見上げていたレーキを呼び止める。振り返ってみると、ネリネが風になびこうとする髪を押さえながらのんびりと近寄ってきた。

「アナタも非番?」

「ああ。君もか?」

「うん。でも船室は狭くて暑いから、ここまで上がってきたの」

 確かに、換気の行き届かない船室は甲板よりもずっと蒸し暑い。甲板は、吹き渡る風のおかげで涼しく爽やかだった。

「そっちは仕事、どう?」

「忙しいがどうにかこなしてる。足は引っ張ってない、と思う」

「ふふ。アナタなら大丈夫よ。こっちはねーとにかく……ヒマ。見渡す限りなーんにも無いし、なーんにも起こらないし、ヒマでヒマでもう……あ、オマケにあたし、ウィルのヤツと組まされたのよ!」

 それが一番の憤慨ふんがいだとばかり、ネリネは眉をつりあげる。

「知り合いと一緒なら気が楽じゃないか?」

「アナタねぇ……それ本気? まあ、アナタの天然は今に始まったことじゃなさそうだけど……アイツはね、あたしの天敵なの!」

 ネリネの声色が不機嫌そうに低くなる。どうやら、彼女の虎の尾を踏んでしまったようだ。

「……そうなのか? それなら、すまなかった」

 レーキは素直に謝罪する。ネリネは大げさに溜め息をついて、腕を組んだ。

「……まあ、確かにアイツの相手してる間は暇つぶしになるって言うか……退屈はしないって言うか……ううん! やっぱりアイツと一緒なんてイヤよ!」

「……誰と一緒が『イヤ』なんだ?」

 レーキとネリネの背後から、やはり聞き覚えのある声がする。

「……げっ」

「ああ、ウィルか。おはよう」

 噂をすれば。にっと笑みを浮かべたウィルが、二人の背後に立っていた。

「つれない事いうなよォ。オレといれば退屈しないだろォ?」

「うっさい! 退屈はしないかもしれないけど、うっとうしいのよ!」

「あんたも非番か?」

 レーキの問いに、ウィルは笑って答えた。相変わらず、その顔は何処に出しても恥ずかしくないほどの男前だった。

「おう。そうだぜ! あんたら、暇ならこいつでもやらないか?」

 そう言ってウィルが差し出したのは、ラベルの無い酒瓶だった。

「……なにこれ?」

「蒸留酒だとさ。船乗りはこいつで景気をつけるらしい。さっき貰った」

「はあ~? 美味しいの? ソレ?」

 訝しげなネリネに、ウィルは酒瓶を差し出す。

「一口試してみたが、なかなか『クル』な。美味いと言えば美味い」

「ふうん。ま、試すだけなら試してみようかしら。レーキはどうする?」

「……俺も一口だけなら」

 強い酒を臭み消しに使う調理法もある。未知の『食材』に、レーキは好奇心を隠せない。

 先に酒瓶を受け取って、ネリネは栓を抜いた。瓶の口に鼻を近づけて、まずは香りを確かめる。

「あら、良い香りじゃない。味はどうかな?」

 呟いてネリネは一口、酒を口に含んだ。そのまま飲み込んで、くぅっと声を漏らす。

「はぁーっ!! たしかに美味しい! けど濃いわね! コレ! 喉が焼けちゃうわ!」

 ネリネは興奮したように目を見開いて、ふうっと酒の匂いのする息を吐いた。

「はい! 次はアナタね!」

 ネリネから瓶を渡されたレーキは、まず鼻を近づける。華やかな酒の香りが瓶の口からふわっと漂ってくる。匂いを嗅いだだけで、これが強い酒だと解った。一口、舌の上にのせるとそれだけで熱い。芳醇な香りと強烈な旨味。飲み込むと酒は喉をかっと火照らせて、胃のまで落ちていった。

「……っ! げほっ……! げほっ!」

 刺激が強すぎて声も出ない。咳き込んでしまったレーキの背をウィルがさすった。

「はぁっはぁっ……!」

「……ねえ、大丈夫?」

「……ああ。これは、美味いが、強い、酒だ……!」

「あんたは一口にしといた方が良さそうだな」

 そのまま呑むのはもうごめんだが、酒精アルコールを飛ばして料理に使うなら美味いかもしれない。そう伝えると、ネリネとウィルは二人して大笑いした。

「お嬢ちゃんもそのくらいにしとくか?」

「まさか。あたしはもっと呑むわよ。今日は非番だしね!」

「そうこなくっちゃなあ! どうせなら、飲み比べでもするか?」

 ウィルの挑発に、ネリネはにいっと不敵に笑う。

「負けた方は勝った方の言うこと『何でも聞く』ってのはどう?」

「いいぜ。その言葉、二言はねぇよなあ?」

「ふふ。アンタこそ!」

 ネリネとウィルは二人そろって笑っているが、相対するそのひとみは真剣そのものだった。

「おい、二人とも、呑みすぎは……」

 二人を案じるレーキを後目に、二人は勝負を始めてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る