第7話 森の中の国で
最後の山羊を囲いに追い立てて、レーキは満足げに息を吐く。
家ではマーロン師匠が、夕飯の支度をして待っていてくれるはずだ。
既に夕刻も終わりかけている。残照は
森の中、人が住むことをやめたなら、簡単に木々に覆われてしまうような、小さな土地。そこにぽつんと建つ家。
アスール国の西、辺境の、名もないほど小さな村にその家はある。
「ありがとう。レーキ。おかげで助かったわ」
囲いの戸を閉めながら、ラエティアが微笑んだ。まだ幼さの面影を残す顔。この地方特有の厚い生地の衣装に隠された肢体は、少女と女性のちょうど中間。十五才。花ならば今はまだ青い蕾だ。
ラエティアの、柔らかなにこ毛に覆われた耳がぴんと立っている。喜んでくれている。レーキはそれが嬉しい。
ラエティアは
マーロン師匠の家からそう遠くない村に住んでいる、アラルガント家の娘だった。
レーキがこの村にやってきてから、早三年。
少年はこの三年の間にすっかり声変わりを済ませて、顔つきも次第に大人の形に変わりつつある。
「いつもとびきり旨いチーズご馳走になってるからな。このくらい手伝わなきゃ罰が当たる」
当然だと微笑んだレーキに、ラエティアはありがとうと微笑み返す。
「世辞抜きで、お前のとこのチーズはすごく旨いよ。師匠もそう言ってる」
ラエティアの耳が後ろに倒れる。素直に照れているのだ。
既に陽は陰りはじめて、顔色こそはっきりとは見えなかったが、おそらく頬は薔薇の色に染まっているだろう。
「嬉しい。おいしいって言ってもらえると。また、持っていくね?」
期待してる。そう言って笑ったきり、タイミングを失って、レーキは口をつぐんだ。
ラエティアもまた。言葉の継ぎ穂を失って、じっとレーキを見上げる。
いつからだろう。こんな風に黙って一緒にいると、胸が苦しい。
たくさんの言葉が胸につかえる。その癖、二人でいることがとても自然なように感じて。
「……し、師匠が待ってるんだ。もうすぐ夕飯だから……」
視線をそらして、レーキがつぶやく。ラエティアの眉が一瞬曇る。
行かないで。もう少しここにいて。そう、言いたいのか。でも口をついて出るのは別の言葉で。
「……う、うん。ありがとう……」
じゃあ、な。うん、またね。
後ろ髪引かれる想いの正体を、まだ二人は知らない。
レーキは慌てて駆け出す。早鐘のような、胸の鼓動が聞かれることを恐れて。
「またねっ! ……チーズ、持っていくからっ!」
地面を蹴って飛び上がる瞬間に、レーキは振り返った。小さな細い手を振るラエティアが、薄暗い地面を背にして、
「またなっ!」
やがてレーキの姿が梢の狭間に消えるまで、ラエティアは手を振り続けた。
「おかえり。山羊は見つかったかい?」
背後の扉が開いた気配に、師匠はスープを皿によそいながら
外出用の上着を壁にかけ、テーブルに着いたレーキは大丈夫とだけ答えた。
「そうかい。それはよかった」
ラエティアに、逃げ出した山羊を一緒に探して欲しいと頼まれたのは、まだ夕陽が沈む前の事だった。
辺りを駆けずり回って、遠い餌場でのんびりと野の花を食んでいた山羊を、つい先ほど囲いに戻してきた。
その山羊から取れたチーズは、マーロンとレーキの師弟にとってご馳走だ。今日はわずかばかり残っていたものを、スープに入れてある。レーキにも匂いでわかった。
「それで、ラエティアがまたチーズを持ってきてくれるって」
ありがたいねえ。心底嬉しそうな呟きと共に、師匠はスープをテーブルに運んだ。
不思議な力を使う天法士であるからと言うばかりでなく、マーロンは近くの村人達から尊敬を集めている。
年老いてこの地に隠遁した彼女は、有望な弟子を育てるかたわら、病にかかった者や傷ついた者を癒やしたり、魔獣から村を守ったり、何かと村人のために親身になって来た。
自分も村人の一員であるのだから、当然の事をしたまでだと彼女は言っていたが、助けられた村人は恩を忘れず、時たま自分たちの家で取れた野菜や乳製品などを持参してくれる。
小さいながら師匠の家にも畑があり、年老いた山羊と鶏を飼っていて、そう生活に困っていると言う訳ではなかったが、肉類や塩、小麦などは
慎ましいながらも美味しい
盗賊団にいたときの食事も旨いとは思っていたけれど、こうやって師匠と二人で囲む食卓も嬉しい。食事はレーキの楽しみの一つだ。
食事が終わると日課が始まる。語彙を深めるために、夕食の後にいろいろな本を朗読することになっている。
マーロン師匠の元に来てから三年の間、レーキは幸福だった。
十三にもなるというのに、ろくろく読み書きも出来ない少年を、師匠は忍耐強く導いてくれた。師匠は声を荒らげない。出来るようになるまで、嫌な顔をせずに何度でも手本を見せてくれる。
初めのうちこそ、レーキはつまずきをくり返して歯噛みしていた。そのうちに、文字を覚えて、単語を少しずつ理解できるようになると、知識が増えて行くことの楽しさを覚えた。
本が読めるようになって、それからは読書のために部屋に籠もることも多くなった。
遠い異国の本、昔の事柄を書いた本、師匠の蔵書を片っ端から読んだ。
長い年月の間に師匠が蓄えた本は、台所兼居間の棚ひとつと、ベッドを置くだけでやっとの寝室二部屋に一棚ずつ。
物置の半分、屋根裏部屋の大半と広い範囲に分布していた。
レーキはまだその三分の一も読破していなかったが、彼のお気に入りは、古の偉大な天法士について書かれた本だった。
その中にはいつか師匠が言っていた、『レーキ』という名の法師について書かれた一節があった。
今から三百年前に、権威あるヴァローナ国立天法院で院長代理を務めた法士。
ヴァローナ国立天法院の院長は、その時の国王が兼任する決まりであるから、院長代理は実質上の院長だ。
いつかこんな風になりたい。それが、はかない望みだとしても。夢見ることが出来るだけ、今までとは違うとレーキは思う。
師匠は学問に対してだけでなく、さまざまなことに関して優れた教師だった。
レーキの疑問に、大抵は答えをくれた。分からない事は分からないときっぱり言うことも含めて。知識を出し惜しみしたりすることはなかった。
マーロン自身も、レーキに答えることを楽しんでいるようで。いつも楽しそうに笑っていた。
師匠は
「……げ、
『魔物大全』と名づけられたその本から顔を上げて、レーキは尋ねた。
「……師匠。本当に幻魔とか魔人って居るのかな?」
半分目を閉じて、弟子の成長を喜ばしいとばかりに微笑んでいた師匠は、レーキを見下ろした。
「……ああ。いるさね。魔獣は確かにいるだろう? この森にも隠れ住んでいる」
確かに、魔獣はアスールの森にも住んでいる。だが、魔獣は奇っ怪だが獣の姿をしているし、人に化けるということもない。人の赤子の声を真似る者はいるけれど。
レーキとて見かけたことはある。盗賊団にいたころや、アスールの森に来てからも。小者を仕留めて素材として売ったこともあった。
でも、魔人や幻魔などは見たこともないし、見たことがあるという者にも出会ったことはない。
「……いたとしてもさ。そんなに人間そっくりなのかな?」
師匠は読書用の眼鏡を外した。何かを脳みその中から引っ張り出すように、目頭を押さえて揉みほぐした。
指先が、無意識に胸元に下げていた王珠を掴んだ。
「魔人は……人から生まれるものだ。人が魔に心を売り渡すと、その者は魔人になる。だから姿こそ人とは変わらない。私にもわからなかった。はじめは」
師匠の眉間に深い苦悩が刻まれている。遠く、中空を見つめる
「師匠は……魔人を見たことがあるの?」
あるね。話そうか話すまいか。まだ迷っているようで。師匠は唇を噛んだ。
押し黙ってしまった師匠を見上げて、困惑しているレーキに向かって、マーロンは重い口を開く。
「……あれはまだ、あたしが二十代の頃だね。あたしは天法士になりたてで、仲間と一緒にあちらこちらを旅して回っていた」
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