第89話 忘我の境地

 村をまわって数えると、エシカに感染した病人は46人もいた。

村の人口は118人と聞いたから、およそ40パーセントの人が罹患している。

解熱剤は50錠作っておいたから、とりあえずは足りるな。

麻疹って空気感染もあったような気がするから、きっとエシカも同じだろう。

手遅れかもしれないけど病人を隔離する必要があるかもしれない。


「この村には集会場みたいな広い場所はありますか?」

「それなら神殿の礼拝室が」


 村長のリンダさんが率先して案内してくれた。

リンダさんは50代前半の中年女性だけど、動作はキビキビとしている。

やっぱり村長さんは女性なんだな。

わかってはいたけど、この世界では重要な役職には例外なく女の人が就いていることを改めて認識した。

そういえば神官のレコアさんも女性だった。

しかも28歳で優しそうな美人さんだ。

しっとりとした大人の女性って感じだよ。

感染を広げないためにも神殿を治療所として使いたいとお願いしたら、快く許可してくれた。


「貴方は本当に聖者なのですか?」


 レコアさんの大きくて澄んだ茶色の瞳が真っすぐに俺を見つめている。

こちらが恥ずかしくなってしまうほどに清らかな視線だ。

スケベに生まれてごめんなさい!


「聖者だなんてとんでもない。自分は単なる旅人ですよ。薬がよく効いて、アンの熱がすぐに下がったから、カインさんとペレさんが大袈裟に言っているだけでしょう」


 俺なんかより、レコアさんの方がよっぽど聖女っぽいよ。

すごく純真そうだもん。


「そうですか……」

「それよりも神官様、村の皆さんに伝えていただけませんか。健康な人でも帰宅したらこまめに手を洗うこと。それから塩水でうがいをよくすること。それだけでエシカに罹る確率はぐっと下がるはずです」

「そうなのですか⁉」

「はい」


 自信はないけど間違っていないと思う。


「本当はお風呂を使って全身をよく洗った方がいいのですが」

「それは無理というものです。お風呂だなんて、神殿と村長さんの家くらいにしかありませんから」


 海をかなり北上したせいで、外気温はだいぶ下がっている。

冬のこの時期に水浴びはきついだろう。


「それでは仕方ありませんね。手洗いとうがいだけは徹底するように指導してください」


 よくよくお願いして、患者のスポーツドリンクづくりを開始した。



 担架を自作し、二体のイワオやゴクウを手伝わせて病人をそっと神殿に運んだ。

カインさんをはじめとした村の人が手伝ってくれたおかげで、看病は楽だった。

手伝ってくれたのは皆エシカの感染経験者だ。

俺にできたのは解熱剤をあげて、水分と栄養の補給、革を使った氷嚢の作り方を教えてあげることくらいだったしね。


「聖者様、後は私たちに任せて少しお休みください」


 夕方になってカインさんがそう申し出てくれた。

神官のレコアさんが食事を提供してくれるそうだ。


「それでは一度身を清めて、着替えをしてからいただきますね」


 俺もルージュと患者を運んだので汗をいっぱい掻いてしまったよ。

夕飯の前にシャワーを浴びたいな。

砂浜でお湯を沸かしてイワオたちにかけてもらおうか。


「ポッポー、このメモをセシリーに届けてくれ」


セシリーへ

 大鍋にお湯を沸かしておいてください。俺のお風呂タイム用です。

                           シロー


 メモを咥えてポッポーが窓辺から船へと飛び立つと、村人は不思議そうにその様子を見ていた。


「聖者様はゴーレムを使役なさるのだな……」

「あれらのゴーレムは使徒なのだろうよ」


 どうせ長くいるつもりはないから誤解を解くことはとうにやめていた。

好きなように解釈してくれ。


「それでは失礼します。お夕飯の時にうかがいますね」


 にっこり笑顔で丁寧に頭を下げて海岸へと向かった。


   ♢


「可憐(かれん)だ……」


 思わず呟いたレコアの顔をカインが二度見した。


「し、神官様?」


 自分の失態に気がついたのだろう、レコアは顔を真っ赤にして取りつくろうように指示を出した。


「シローさんの言いつけは覚えていますね。皆さんも家に帰る前にうがいと手洗いをよくするのですよ」

「は、はぁ……」

「食事は交代でとりましょう。上地区の人が先に帰りなさい。その間は下地区の人が看病です」


 伝えるべきことを伝えてしまうと、レコアは大急ぎでその場を離れ、寺女(てらおんな)のイニスに夕飯の支度を言いつけた。


「シローさんはまもなく帰ってきます。夕飯は六時からでいいでしょう。私は夕べの祈りを捧げているから後はよろしく」


 足早に立ち去ろうとするレコアを朴訥(ぼくとつ)なイニスが呼び止めた。


「神官様」

「何ですか?」

「お顔が赤いようですけど、まさか神官様もエシカに罹っただか?」

「っ! こ、これは違います。ちょっと熱いだけです!」

「そうですか。だったら安心だ」

「そうです、なんの心配もありません!」


 普段は温厚なレコアが、少し怒ったように言ったのでイニスは首をすくめた。

たしかにレコアは額に汗を掻いているように見えた。

きっと病人の看病で体が熱くなったのだろう。

イニスはそう判断して夕飯の準備を始めた。



 礼拝堂は病人でいっぱいだったので、レコアは自室で夕べの祈りを捧げていた。

祈祷書を読み上げ、静かに祈りの文言(もんごん)を呟き、燈明(とうみょう)と香(こう)を捧げた。

一連の儀式が終わると、いつものように聖典を開いた。

夕暮れまでのひと時を聖典の研究に充てるのがレコアの日課だ。

だが、今日は聖典の内容がちっとも頭に入ってこず、気がつけばシローの顔や手、うなじのことばかりを思い出していた。


「私は何をやっているのだ!」


 苛立たし気にレコアが立ち上がったとき、突然扉が開かれた。


「神官様?」


 やってきたのは寺女のイニスだ。

自分の醜い欲望を覗き見られたような気がして、レコアの語気が荒くなった。


「どうしたのですか!?」

「ひっ!」


 レコアの剣幕にイニスは縮み上がった。

ほとんど泣きそうなイニスを見てレコアは狼狽し、正気を取り戻した。


「す、すみません。エシカのことを考えていたら気持ちが落ち着かなくて」


 嘘をつく自分にも嫌悪を覚えたが、本当のことは言えるわけがない。


「どうしました?」

「お食事の用意が整いましたのでお呼びに来たのです……」

「わかりました。それでシローさんは?」

「聖者様はまだお見えになっていません」


 きっと自分の船にいるのだろうと考えて、レコアは立ち上がった。


「それならば私が迎えに行ってきましょう。少し外の空気も吸いたいから」


 なるべく優しい声でそう言ってレコアは表に出た。


 表に出ると夕暮れの冷え冷えとした空気が肌に染みた。

太陽は沈み切っておらず西の空を真っ赤に燃やしている。

レコアはウキウキした気持ちで海岸へと歩いた。

やがて防風林のところまでやってくるとおかしな光景に行き会った。

なぜか、村の元気な者たちが松の陰に隠れて砂浜の方を窺っているのだ。


「みなさん、何をしているのですか?」

「し、神官様!?」

「いや、これは……」


 集まっている村人たちは女ばかりだ。

怪訝に思いながらレコアは海岸の方をみやった。


「なっ……」


 わずかの間だったがレコアは全てを失った。

言葉も思考も世界も。

あるのは目の前に裸体を晒す一人の男だけだ。

視線の先に、夕日に照らされた海岸で、一糸纏いっしまとわぬシローがお湯を浴びていた。

透き通るような肌が夕暮れの残光をあびて淡いオレンジ色に輝いている。

肌に残る水滴が宝石のように煌めいていた。

 忘我(ぼうが)の境地の後にレコアの胸に押し寄せてきたのは、欲望、混乱、焦燥、悔悟、怒りなど様々な感情だった。


「な、なにをしているのですか皆さん! 覗きなんて卑劣な行為は許しませんよ!」


 レコアの叱責に村人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

だが、声が少し大きすぎたようだ。

ゴーレムにお湯をかけてもらっていたシローがゆっくりとレコアの方へ振り向き、驚いたような笑顔を作った。


「あれ、神官様? どうしたんですか?」


 体を隠そうともしないシローの態度に、再びレコアの時が止まった。


「もしかしてお食事の時間ですか? ごめんなさい、すぐに行きますね」


 シローは静かな声でそう告げて、再び体を洗い出す。


(この人は本物の聖者様……それとも私をたぶらかす悪魔なのだろうか?)


 レコアは視線を外すこともできずにシローを見つめていた。

それは数秒にも満たない時間だったが、レコアにとっては随分と息苦しく、長い時間に感じられた。

そして、シローの股間についた器官が屹立きつりつしているのを見て、レコアは恐怖のあまり神殿へと走った。


(私は何という妄想をしてしまったのだ! 魔法も使っていないのに、男があんな風になるわけがない。だったらアレは、私の欲望が作り出した幻覚じゃないか!)


 ♢


 レコアさんが村の方へ走っていくのを横目で見送った。

丸出しはちょっとまずかったよな……。

でもさ、慌てて隠すのも大袈裟な気がしたし、堂々としている方がいいかなって思ったんだよ。

見られるの、好きだし……。

でもなぁ……神官様に見られているって思ったら、リトルジョーがおっきしちゃったもんなぁ……。

変なものを見せて嫌われたかもしれない……。

うん、恥ズカチィ!

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