二人の恋人
三郎
1話:嘘をついているのは誰だ
「…ナナ」
男性の声が聞こえる。誰かの名前を読んでいる。ナナ、ナナ…と悲痛な声で。
「…ナナ。愛しているよ」
視界に少しずつ明かりが差し込む。視界一面に白い天井が広がっていた。
「…う…」
重い身体をゆっくりと起こす。頭が痛い。ここは何処だ。何が起きている。私は死んだのか?
「…ナナ?」
男性の声でぼんやりとしていた意識がはっきりとしてきた。そうだ。ナナは、私の名前だ。だけど、顔を覗き込んだ男性の顔に驚いて悲鳴をあげてしまった。ナナは私だけど、彼は知らない人だ。知らない人が私の手を握っている。振り払い「誰ですか貴方」と問う。すると彼は目を丸くして「覚えていないの?」と問いに問いで返してきた。
「分からない」と答えると顔を両手で覆って泣き出してしまった。どうして良いか戸惑ってしまうと白衣を着た男性と看護服を着た女性が入って来た。
彼らは私に色々質問をしたが、名前以外は何も答えられなかった。
かろうじて自分の名前は覚えていたが、他のことは全て忘れてしまったようだ。年齢も、家族構成も何もかも。目の前にいる彼のことも。
「つまり…私は記憶喪失ってやつですか…」
医者が頷く。
「そんな…ナナ、僕のことを忘れてしまったの?あんなに愛し合っていたのに」
「貴方は私の恋人なのですか?」
「そうだよ。僕の名前はカナタ。
証拠にと彼は、スマホの中に入っている私とツーショットの写真を何枚か見せてくれた。写真の中の私は笑っている。幸せそうな写真だ。そういえば、私のスマホは何処へ行ったのだろうか。問うと彼は「事故にあった時に紛失した」と話す。
「事故?」
「そう。君は僕とデートをしている時に階段から足を滑らせて落ちてしまったんだ。…三日も眠ったままで…もう…目を覚まさないかと思った」
「ごめんなさい…私、何も覚えてなくて…」
「いいんだ。君が生きていてくれただけで充分だ。思い出すのはゆっくりで良い。もし思い出せなくても構わない。思い出なんて、これからまた新しく一緒に作れば良いんだから」
彼は優しくそう言って、私を抱きしめた。
「焦らなくていいからね。ナナ。僕が支えるから。ずっと。これから先ずっと」
私は何故かその彼の優しい言葉に、恐怖を覚えた。記憶を失って、全くの他人のように思えるからだろうか。多分、そうなのだろう。混乱しているせいなのだろう。
「…じゃあナナ、今日はとりあえず帰るね」
そう言って彼は病室を出て行く。
「…彼は…本当に私の恋人ですか?」
「えぇ。そうだと思います。救急車を呼んだのも彼でしたし、ずっと側に付き添っていましたよ。あなたが眠っている間、花瓶の花の水も換えてくれて…良い彼氏さんですね」
看護師はそう言うが、私からしたら赤の他人としか思えない。
しばらくして、部屋に一人きりになった頃、病室のドアがノックされた。「どうぞ」と返事をするとドアの外から「え?」と声が聞こえた。恐る恐る開かれたドアの隙間から覗いた誰かと目が合う。するとその誰かは、ドアを勢いよく開けた。髪が長くて背が高い女性だ。
「ナナ…!目が覚めたのか!」
女性は荷物を落として駆け寄り、私を抱き寄せた。
「良かった…ナナ…」
良かった良かったと彼女は泣きながら私を抱きしめるが、やはり彼女のことも誰だかわからない。安心しているところ申し訳ないが、女性をそっと離して、記憶がないことを説明し、誰ですかと問いかける。
「私はユウキ。
何やらその先は言いづらそうに口籠ってしまう。私のなんなのだろう。
「私の…?なんですか?」
問うと彼女は自信なさげに
「私は君の恋人だ」
と、答えた。恋人?どういうことだ。さっき恋人と名乗る男性と別れたばかりなのに。私は二股していたのか?それも、男性と女性を?異性と同性を?
「私と君は付き合っていたんだよ」
自分と私を指差して彼女は言う。
「私と…貴女が…付き合っていたんですか?」
彼女と同じ仕草をして言葉を繰り返す。彼女はこくりと頷いた。
「そうだよ。信じ難いかもしれないけど、ナナと私は恋人同士だったんだ」
信じ難いかもしれないとはどういう意味で言っているのだろう。同性だから?それともさっき、恋人を名乗る男性が来たから?
「でも…あの…さっきの…男性が…私の恋人だと…」
先ほど恋人を名乗る男性が来たことを話す。すると彼女は顔を顰めた。
「えっ…?は?何?男性?」
彼が来たことは知らないらしい。
「はい。カナタさんという…優しそうな方が。僕は君の恋人だよと」
「…そいつは多分ストーカーだよ。君は記憶を失う前、ストーカーに悩まされていたんだ」
カナタさんが嘘をついているようには見えなかった。少しだけ怖いと感じたが、あれは記憶を失って混乱しているからだと思った。
彼女が言うことが本当なら、記憶を失っても残るほどの本能的な恐怖なのだろうか。しかし、ではあの写真は何なのだろう。カナタさんから見せてもらった写真の中の私は楽しそうだったが…。
「…では…貴女が私の本当の恋人だと?」
彼女に疑いを向けると、カバンからスマホを取り出して写真を見せてくれた。これまたツーショットの写真。どれも楽しそうだ。
「…でも私…カナタさんと一緒に写る写真を何枚も見せてもらいました。写真の中の私は笑顔でした」
彼がストーカーなら、あんな笑顔は出来ない。
「…それは、付き合っていた頃の写真だと思う。君は以前男性と付き合っていたって私は聞いてた。ストーカーの正体はその元カレだろうって」
なるほど、ならああいう写真があるのも納得だ。しかし…どうしても、彼が悪い人には見えない。優しそうな人に見えた。抱きしめられた時に感じた恐怖心は引っかかるが、ストーカーだと疑えない。だけど、今目の前にいる彼女が嘘をついているとも思えない。
「…ごめん。まだ混乱しているのに。だけど…どうか私を信じてほしい。頼む」
そんなこと言われても。今の私にはどちらを信じたら良いのか全く判断出来ない。
翌日。約束通りやってきたカナタさんにユウキと名乗る女性の恋人がやってきたことを話す。すると優しそうだった彼の雰囲気が一変した。
「そいつはストーカーだよナナ。明らかにおかしいだろう。女だぞ?」
確かに彼女は女性だ。だけど、同性同士だからという理由だけで恋人同士では無いと否定するのは違うと思う。彼の古い考えにムッとしてしまう。
「でも、嘘をついているようには見えませんでした」
「なら僕が嘘をついていると言うのか!?」
怒号が飛ぶ。彼が腕を振り上げたのを見て咄嗟に頭を守った。しかし、殴られない。すぐに冷静になったのか「悪い」と呟いてすっと手を下ろした。泣きそうな顔を見てハッとする。
「…いえ。付き合っていたのにストーカー扱いされたら怒鳴りたくもなります。…ごめんなさい」
「…今日は帰るよ。また来る」
「…はい」
とぼとぼと病室を出て行く彼。
二人の恋人は互いを私のストーカーだと主張した。どちらも嘘をついているようには見えない。どちらを信じたら良いのだろうか。
実は、嘘をついていたのは記憶を失う前の私だったのでは無いだろうか。私がストーカーに遭っていると誤魔化して、二人に二股をかけていたのでは無いか?
記憶を失う前の私はどんな人だったのだろう。二股をかけるような女だったのだろうか。
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